08/06/25 10:48:41 Lr4RSLsK
用事があって夕方までこれないから、“自分と向き合う”という言葉を
それぞれがどのように解釈しているかを書いておこう。
Tさんにとっての自分つまり自己とは>>704の引用から分かるように
“自分にとっての自己”を指す。なのでTさんが説くようにこの解釈では
独りよがりの自己になる可能性が高いといえよう。
一方、赤子さんにとっての「自分と向き合う」は名詞というより
動詞に近いだろう。自分を見つめ、自分を知り、心の中を整理し、
根本原因に行き着くという“行為”を赤子さんは重視しているようだ。
もしそうなら、このような行為をする者が独りよがりになることは
極めて少ない。なぜなら、そこには内なる神の助力が働くからだ。
人は自分を見つめ、知り、心を整理することができる。
逃げず誤魔化さず自分に臨めば、人はそれを可能にすることができる。
なぜだろうか? 答えは、「内なる神はそれら全てを知っているから」だ。
知っているからこそ、それを願い行う者へ内なる神は語りかける。
言葉を贈る。だからこそ人はそれを受け取り、自分を知り整理して
根本原因に行き着くことができるのだ。
私が書く「神と同調する自分を育てる」はこれを指す。
私にとって自分自身と向き合うとは、内なる神と自己の交流なのだ。
とまあこんな感じかな。解釈が違うのだからそれをうやむやにしたままでは
意見も食い違って当然だろね。
暫く落ち。