08/03/21 23:27:37 qdOCn+EZ
>>220 鬼和尚 さん
> >>201>>205 おぬしもまだまだ生悟りじゃのう。わしの感じる事に間違いもへったくれもあるまい。
> 悟りを得たなら喜怒哀楽は無くす事も出来るが、全ての煩悩を消すと涅槃に入ってしまう故に、大抵の覚者は残してあるだけじゃ。
> そして、怒りも哀しみも楽しいものじゃ。
> 怒りには炎の味があり、哀しみにも深い味わいがある。
> おぬしは分別を持って怒りは悪い、哀しみは悪いと決め付ける自らの心を観るのじゃ。
>
> おぬしは未だ悟りを得ていない故に、沈黙の言葉が聞こえないだけじゃ。今のおぬしの境地で悟りを計ってはならんのじゃ。
> それは法を説いているのではない。法は悟りを得る為のもの。筏の喩えで判るように、悟りを得る為には法をも捨てるのじゃ。
> そのような言葉を当てはめて、今、ここで語られている真実を見抜けぬとは、おぬしの修行も全て無駄だったと言うしか無いのう。
>
> 全てのものはわしらと同じ意識を持っておる。生きていない、無生物とされておるものも、わしらと同じ意識がある。そして沈黙の声、声無き声を放っておる。
> ものに限らず空間にさえも、意識はある。それはわしらと完全に同じ意識であり、分別を離れた真の意識の表れなのじゃ。
> ものの違い、分別による差異などは、意識と言う大海の表面を飾る小さなさざなみのようなものじゃ。それらの違いは本来は無く、風のまにまに一時は形を為すが直ぐに崩れてしまう。
> 永遠に在ると言えるのは意識だけであり、それすらも言葉で語られるように在る訳ではない。
> これこそがお釈迦様の語られなかったものであり、今の悟りを得た者達が語るべき真実なのじゃ。
意識すらない。