08/03/21 00:04:13 2ncFABYu
>>336
>阿弥陀仏のご本願を、自分の魂の底に受け止めさせて頂くまで、我が身のこととなるまで、
>善知識から聴かせて頂くこと。上辺だけ聞くのではない、頭でわかって聞き流すのでもない、
>自分の、ざるの心で仏法をすくおうとするのではなく、
>心を仏法につけること、をおすすめします。
私の考えでは、これがあっという間にできるということです。
宿善の厚薄がありますから、その時間の長短に差があるにしても、
いずれにしても、短い時間で信心決定します。
ただ、「心を仏法につける」という言い方は、適切だと思えません。
(よく聞きますが。)
「弥陀をたのむ」という私の言い方を、よく否定されていましたよね。
「たのみ方など無い」と。
「心を仏法につける」というのは、何ですか?
自分で、「心を仏法につけようとする」ということなのでしょうか?
聴聞するときに、無心になって、自分の心に、その言葉の内容を入れようとすることですか?
そのような行為を繰り返させるならば、それこそ、洗脳的な手法になりますよ。
気付いて下さい。
他力信を獲るために、そのような迂回の道は、必要がないのです。
凡夫が易行にて、あっという間に、信をいただける南无阿彌陀佛です。
別の方がよくされている、他人のことは自力と否定し、
自らは自力を勧める矛盾を、ここでも行っていると思います。
凡夫を悟らせないのが、魔の働きです。
掟が有るのは、魔から見えないようにするためです。