08/03/31 12:54:32 bAXjwKpw
>>72
>>>67で私が問いかけていますが、>>64の引用は、
>反論になっていないのではありませんか?
すみません、それは私ではありませんので…名乗らずに居たことで混乱をさせて
申し訳ありませんでした。今後があれば、76と名乗ってレスをさせて頂きます。
>>71
>お聖教を重視しないところから、さまざまな教えが出てきていると思いますよ。
いいえ。どの教えでも、自分のところこそ、お聖教を正しく教えているのだと言いますよ。
お互いに、「お前のところはお聖教を重視していないのだ」と言い合っているのです。
まさに一切が、そらごと、たわごとですね。
>お聖教を読みすすめ、「その通りだな」とうなづけてゆくならば、
>異安心ではないと思います。
298さんは、異安心、自力の安心の恐ろしさが、まだまだわかっていらっしゃらないですよ。
自力の信心では、お聖教も、自分の都合のいいようにゆがめて読みますから、
「その通りだな」と読めてしまうのです。
ですがあるとき、「…あれ?でも、これは違うんじゃないか…」と、
「もしかして自分は、お聖教の通りになっていないんじゃないか…」と、気づくときがあります。
これは阿弥陀仏のお育ての光明によって、気づかせて頂く、ということです。
私たちはそうやって気付きながら進ませて頂くのですが、他力の信心頂くまでは、
自力の安心、異安心のままですから、また途中で腰掛けることが、多いにあるのです。
でもそこで、「自力の信心にこしかけてはならん、真実信心いただけよ」
と教えてくださるのが、本当の善知識であり、お聖教に説かれていることであり、
それもすべて、阿弥陀仏のご本願のおはたらきなのです。