08/03/15 00:41:36 ant2blfa
検索しやすいようにスレタイを少し変更しました。
3:神も仏も名無しさん
08/03/15 01:47:40 rZYexArU
【浄土真宗】妙好人と学ぶ7【信心獲得(決定)】
スレリンク(psy板)l50
↑重複したようです。お好きな方を。
4:神も仏も名無しさん
08/03/15 03:57:43 rZYexArU
このスレッドは下記のとおり削除依頼したしました。
このスレッドには書き込みをしないでください。
211 名前: えせ信者 投稿日: 08/03/15 03:53 HOST:60-56-201-226.eonet.ne.jp<8080><3128><8000><1080>
削除対象アドレス:
スレリンク(psy板)l50
削除理由・詳細・その他:
【浄土真宗】妙好人と学ぶ7【信心獲得(決定)】
スレリンク(psy板)l50との重複スレッドです。
5:神も仏も名無しさん
08/03/15 04:23:03 rZYexArU
>>4
削除依頼したしました。→誤
削除依頼いたしました。→正
6:神も仏も名無しさん
08/03/15 11:43:54 Sf1KmovY
放置しておけばそのうち消えるんじゃないの?
どっちにしろスレは二週間くらいで使い切っちゃうし
7:神も仏も名無しさん
08/03/18 20:48:16 jV2hNLLP
>>6
次スレに使えたら、いいですよね。削除依頼されている場合には、
どうなってしまうのでしょうか?
8:神も仏も名無しさん
08/03/18 21:21:28 64NyrJ1o
>>7
依頼されていても、削除人が放置を決定すればそのままになります。
9:神も仏も名無しさん
08/03/18 21:22:17 64NyrJ1o
ってかあなた298さんですねw
10:298
08/03/18 21:24:34 jV2hNLLP
>>9
そうです、スレッドごとに名前が自動入力されるソフトを使っておりますので、
名無しになってしまいました。
11:298
08/03/30 03:21:18 ZeIlyO/I
スレリンク(psy板:897番)
>>他力の信をいただくときには、自力の心はふりすてていますが、
>>また、すぐに、自力の心が戻って参ります。
>と書かれていますね。だから、信心決定の時にすたる自力が戻ってくるような
>信心決定は、ほんものではない、と言っています。
これは、以前のスレでも問題にされた点なのですが、
他力信をいただくときに、根源の無明がきれいさっぱりとなくなることは、
前提も前提として書いています。
ですから、私がここで書いている「戻って来る自力の心」というのは、
根源の無明のことではありません。
戻ってくるのは、もっと表面的な迷いです。
自意識も、残ります。
南无阿彌陀佛
12:298
08/03/30 03:28:57 ZeIlyO/I
真実信心をいただいて、それも、煩悩の厚い雲にさえぎられ、
よくわからない。
よくわからなくても、幸いなのは、全くわからないわけでもないということです。
御聖教を読むとき、名号を見るとき、同行に会う時、
あるいは、日常生活の場面で、そのはたらきを感じることがあります。
不思議な弥陀の信心です。
まずは、とにかく信をいただいてしまって、
そのはたらきを感じながら、相続するのがおすすめです。
信後には、佛恩報謝のお念仏をなしてゆきます。
信をいただいても、凡夫であることに変わりはありません。
佛凡一体になっているというところが、違います。
私たちを、極楽浄土へと連れて行ってくださる真実の信心を、
易行にて、弥陀がさずけてくださる、その易行とは、何かと言えば、
一心一向に弥陀をたのむのですから、詳しい人を探し、
よくお話を聞いて、早く信を獲ることが、本当に大切だと思います。
南无阿彌陀佛
13:298
08/03/30 03:34:25 ZeIlyO/I
真宗も、一枚岩ではなく、すぐには信を獲れないという方もいれば、
私のように、詳しい方に会うことさえできれば、
適切な指導者に教わることさえできれば、
時をへだてず、日をへだてず、たちどころに信決定ができるのだと言う人もいます。
私は、繰り返し、他力信について書いているつもりですが、
それを自力と呼ぶ方が複数いらっしゃるようです。
易行にて信をいただくのだと書いても、
それは違うと書く方が複数いらっしゃいます。
つまり、私が書いていることは、
広く受け入れられていることとは、違うのでしょう。
ですから、お疑いになるのが当たり前と思い、意識して、
御聖教を多く引用してきておりますので、
興味のある方は、過去ログも御読みになって、
自らの目で、御聖教を確認して行ってほしいと思います。
南无阿彌陀佛
14:298
08/03/30 03:41:03 ZeIlyO/I
弥陀の名を知らない方が、弥陀をたのみたいと思うことは、
めったにないだろうと思います。
ですから、まずは獲信そのものの方法ではなく、
獲信とは何か、阿弥陀如来とはどのような方か、
極楽浄土とはどのような所なのかというお話を聞きまして、
また、因果のお話や、輪廻のお話を聞きまして、
それを我が事と捉えて、後生が気になってゆくことも、
大切だと思います。
そして、いざ信をいただきたいとなったときに、
実際上問題となるのは、「どうしたら?」ということになると思います。
(もちろん、「方法など無い」という立場の方もいらっしゃいます。)
弥陀の救いを求める方には、まず獲信者を探してほしいということを、
繰り返し書いております。
一カ所にこだわらず獲信者を探し、お話をお聞きして、
真実があると思う場所を探すことが大切だと思います。
いろいろなお話を聞いて、自ら納得の行く道を進む他はないと思うのです。
その道を進んでいるうちに、納得が行かなくなったら、
また別の道を進むことが大切だと思います。
不審や不安があれば、質問してゆきながら、探すことだと思います。
もちろん、このようなことが気にならない方もいらっしゃいます。
弥陀の救いがあると聞き、すぐに素直にお話を聞けて、
あっという間に信をいただいてしまう方です。
15:298
08/03/30 03:43:41 ZeIlyO/I
私の考えでは、信をいただくのも南无阿彌陀佛なのです。
凡夫が生涯にただ一度で、百発百中で信をいただける南无阿彌陀佛があるということを、
書いております。
そのような南无阿彌陀佛を求める方は、
探せば知っている人に導かれるという意味のことを、書いております。
そして、六字のいわれを聞き開き、弥陀をたのんで、
真実信心をいただいてほしいと思います。
信をいただいた後には、佛恩報謝の南無阿弥陀仏を称えてゆきます。
南无阿彌陀佛
16:298
08/03/30 03:45:25 ZeIlyO/I
探す方法ですが、その基本は、上下を問わず尋ねるということです。
探すときに、基礎知識になるのが御文様であると思います。
御文様を繰り返し読み、御文様と一致する信心を探すことが、
間違いのない方法であると思っております。
そして、御文様と異なるところがあると思えば、
質問すれば良いのです。
南无阿彌陀佛
17:298
08/03/30 03:51:00 ZeIlyO/I
このスレに書いてきてよかったと思うことは、
御同行と思われる方が、ちらほらいらっしゃるということです。
これは、とても心強いことです。
血脈相承なされているのだと、うれしくなります。
南无阿彌陀佛
18:298
08/03/30 03:54:24 ZeIlyO/I
後生のことなど気にならない、という方は、信を求めないでしょうし、
後生のことが気になっても、極楽浄土を信じない方は、信を求めないでしょうし、
弥陀の真実信心がいただきたくても、
その方法など無いという方は、その方法を探すこともないのでしょう。
私が書いていることを信じてくださる方は、
本当に希なのだと思います。
信じようと思った方でも、探しているうちに、気の変わる方もいらっしゃることを
考えると、さらに希になると思います。
せっかく見つけたと思っても、しばらくして、やはり偽物と思い、
再度探しはじめているうちに、その途中でイヤになってしまうかもしれません。
このようなことを考えると、私は、自分で納得の行く信をいただけたことに、
本当に感謝致します。
南无阿彌陀佛
19:神も仏も名無しさん
08/03/30 06:23:27 0ZwSK/SU
>>11
>ですから、私がここで書いている「戻って来る自力の心」というのは、
>根源の無明のことではありません。
>戻ってくるのは、もっと表面的な迷いです。
前にも、同じように書かれていましたね。ではなぜ、信心決定という大切な局面を書く際に、
戻ってくる心、表面的な迷いのことを、わざわざ書くのか。
ある意味、どうでもいいことですよねそれは。煩悩が消えないのは大前提なんだから。
>>12
>真実信心をいただいて、それも、煩悩の厚い雲にさえぎられ、
>よくわからない。
ここがポイントで、298さんたちの信心決定では、自覚できるのは、(いったん消えて)
「戻って来る自力の心」、表面的な迷い、だけ。
だから、信心決定の事を書くとき、ついそれを書いてしまうのでしょう。
根源の無明もきえた、と思える根拠は、「次第相承の善知識」がそう言うから。
その後、生活していく中でだんだん自覚っぽいものが出てくるとか、お聖教が
心に符合する、とかというのは、「信心頂いた」という暗示があれば、当然のことです。
結局、298さんたちの信心は「善知識だのみ」なんです。
繰り返しになりますが、298さんが繰り返し「善知識だのみ」の異安心を人に勧めるので、
仕方なく、何度も「違いますよ」と書いています。
20:神も仏も名無しさん
08/03/30 06:46:24 0ZwSK/SU
298さんたちの信心は、人にすすめていいものではないんですよ。
真実信心頂けていないのに、頂けたと思わせて、自力の安心に腰掛けさせてしまうから。
一番悪いのは、まだ答えを得ていないことよりも、間違った答えに落ち着いてしまうことです。
・真実信心は、誰かが、誰かに「確実に頂かせる」ことができるものではありません。
・真実信心は、誰かから「お前は信心頂いたんだ」と言われて、自己暗示をかけて、
そうなんだと思い込んでいくものではありません。
・煩悩に遮られても、無明の闇が消えたことは、本人が明らかに自覚できます。
「摂取心光常照護 已能雖破無明闇 貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天
譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」(正信偈)
・もう死ぬ、と真剣に思ったとき、真っ暗な心がほんの欠片でも出てくるのなら、
それはまだ、阿弥陀仏の真実信心、頂いていない、
摂取の光明に抱かれていないということです。
阿弥陀仏の本願は本当ですから、求めてゆけば必ず本当の信心決定があります。
必ず真実の阿弥陀仏にあえます。
21:298
08/03/30 07:39:38 ZeIlyO/I
>>20
>もう死ぬ、と真剣に思ったとき、真っ暗な心がほんの欠片でも出てくるのなら、
>それはまだ、阿弥陀仏の真実信心、頂いていない、
>摂取の光明に抱かれていないということです。
これであれば、救われていると思い込んでいるだけでOKということになります。
そもそも、「真剣に思う」云々というのは、凡夫にはできないことを
要求していると思います。
私の言っているのは、凡夫がどう思うかは、弥陀の他力信とは異なるということです。
しかし、だからと言って突き放すのではなく、
信後にも、表面の迷いの心を晴らしてゆく手段があるということです。
南无阿彌陀佛
22:298
08/03/30 07:53:02 ZeIlyO/I
>>20
>真実信心頂けていないのに、頂けたと思わせて、自力の安心に腰掛けさせてしまうから。
このようにおっしゃられても、私にはピンと来ないのです。
私の主張を受け取ってもらえていないなあ、わからないのだろうなあ、
と思ってしまうのです。
他力の信心だということは、明らかに知られます。
つまり、何が明らかに知られるのか、何が知られないのか、
私と20様では、考えが違うのですね。
もちろん、確かに私が勘違いしているのかもしれませんね。
それでも、私から見れば、20様は、私が書いていることを、
型にはめようとしているように見えるので、今のところ、
私に対しては、あまり説得力を持ちません。
私から見れば、20様は、とても一生懸命で、
それが自力の信(を得ようとしているよう)に見えますし、
自力の信も、得ていないように見えるのです。
「それで苦しくないのかなあ?」と、私には思えてしまいますし、
「はやく如来をたのめば良いのに」と私には見えるのです。
ですから、人によって、見え方が違うのですね。
20様には、20様の信じる道がおありでしょうから、その道を行かれれば、
良いことと思いますよ。
南无阿彌陀佛
23:298
08/03/30 08:04:19 ZeIlyO/I
>>20
>煩悩に遮られても、無明の闇が消えたことは、本人が明らかに自覚できます。
>「摂取心光常照護 已能雖破無明闇 貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天
>譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」(正信偈)
ですが、「雖」を、どう解されるのでしょうか?
明らかに自覚というのは、如来の光明が自覚できると言うことですか?
どう自覚されるのですか?
目で見えるのですか? 心でわかるのですか?
いつ、自覚されるのですか? ずっと自覚されているのですか?
20様は、安心されているのですよね?
「本人が明らかに自覚」とは、ご自身の領解(実感)なのだと思いますが、
そのご自身の感覚を、もっと具体的に書いてはいただけないでしょうか?
それとも、未安心ですけれども、ご教義の面から、私のことを心配されて、
信後の心持ちを、想像して書かれているのでしょうか?
24:7
08/03/30 08:06:12 pbBihZRN
>>20さんは、他の考えを否定し、自分の考えを肯定し勧めるときに、ほとんどお聖教を引かないのは何故なんでしょう。
それは、ご自分の先生の法話と、著書に根拠がある、もしくはそれに合った自分の体験を根拠としているからではないですか?
自力が廃った、弥陀の呼び声が聞こえた、地獄一定極楽一定とハッキリした、と仰いますが、自力によって生み出された幻とどう区別しますか。
だから幾度も、お聖教と領解が合うかどうかが大切だと申し上げています。
誰かの考えが違うと示す時も、自分の考えはこうだと書くときも、多く典拠を引いてくださる方に誠実さを感じます。
25:7
08/03/30 09:02:22 JMkSnT6y
私が求めてきた信心は、親鸞聖人、蓮如上人と一味同心の信心です。
お聖教に根拠がない、お聖教と合わない信心が得られても、いたずらごとだと思います。
26:神も仏も名無しさん
08/03/30 09:04:54 SVjNiTjT
出た!決め台詞。
「~いたずらごとです」
27:神も仏も名無しさん
08/03/30 09:11:06 FMjhpOyZ
信心って難しいですね。
オーム、エホバ、統一教会、ヤマキシ・・・カルトと言われる宗教の信者も信心を獲ているのでしょう。
そういうカルトの信者も、何らかのキッカケで、自分の信仰が間違いであったと気づくことができる人もいますが、オームも未だに信者が居るようですから、一旦信じ込んでしまうとそこから抜け出すのは難しいのでしょう。
オームの信者も、第3者の目でみると、信仰がおかしいのは明らかなのですが、信じ込んでいる本人たちは、自分たちが正しいので、周囲の人間は不幸だと思い込んでいるのですからね。
28:神も仏も名無しさん
08/03/30 11:04:38 0ZwSK/SU
>>22
>「それで苦しくないのかなあ?」と、私には思えてしまいますし、
>「はやく如来をたのめば良いのに」と私には見えるのです。
私から見ると、298さんは、それで満足なのかなあ?と思えます。
自覚もできない、他人から「信心決定したのだ」といわれてそうなのかなあと思い、
お聖教を読んで人に確かめて、段々満足していく、それでは、
「鰯の頭」を信じることと、まったく変わらないからです。
阿弥陀仏から、もっと素晴らしいものである他力の信心を、早く頂いてほしい、と私には見えます。
>>23
>明らかに自覚というのは、如来の光明が自覚できると言うことですか?
できます。「譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」そのままです。
>どう自覚されるのですか?
>目で見えるのですか? 心でわかるのですか?
阿弥陀仏に頂く真実信心で、わかります。目に見えるものも、すがたかたち、
網膜に映る映像は全く変わらないのに、心が変わりますから、世界が変わります。
一切が光明に包まれていることが、分からせて頂けます。
>いつ、自覚されるのですか? ずっと自覚されているのですか?
ずっと自覚しています。
29:神も仏も名無しさん
08/03/30 11:07:34 0ZwSK/SU
>>25
>お聖教に根拠がない、お聖教と合わない信心が得られても、いたずらごとだと思います。
どの異安心のかたも、上手に、お聖教をひくんですよ。渡海さんもよくお聖教に基づいて
書き込みしていますね。所詮、自分の頭で作り上げた幻想、妄想にあうようにしか、
お聖教をも読むことができないのが私たちなんです。
他力の信心頂くまでは、自分の頭で作り出すものを自分の頭で信じるしかないですから、
それで当然なんですけれど。
ただ、明らかに、298さんたちの信心はおかしい。何度も書いてきましたが、
機の深信、法の深信がない。他力の信心を後生の保険程度に考えている。
凡夫が凡夫に、他力の信心を、百発百中、頂かせることができる(神通力で)と思っている。
おかしいとしかいえないんです。
でも、何を疑っても信じてもいいですから、もしその自力の信心がぐらついたときには、
(それが臨終間際まで続くなら、臨終間際に、もうどうにもならない、もう死ぬ、
いざ後生だと踏み出さねばならなくなったとき)、後生不安な心、暗く孤独な寂しい心が
ほんの少しでも沸いて出てくるのなら、「私はもう信心決定したはずだ」ということに
しがみつくのではなく、心の底から
阿弥陀仏の救いを念じて、お念仏称えて頂きたい。
その時間が残されているのなら、善知識から、可能な限り聴聞してほしい。
阿弥陀仏はいつでもお呼びづめですから、求めてゆけば必ず、
本当の信心決定することができますから。
誰の立会いも要らず、誰に認められるものでもなく、
阿弥陀仏と本人だけが知る、本当の信心決定です。
30:7
08/03/30 12:07:39 JMkSnT6y
>>29さま
宿善開発して善知識にあはすは往生はかなふへからさるなり(御文章)
信心決定するためには、弥陀の代官が必要なのではないですか。五重の義を無視されるのでしょうか。
当流聖人のすゝめまします安心といふは なにのやうもなくまつ我身のあさましきつみのふかきことをはう
ちすてゝ もろ~の雑行雑修のこゝろをさしをきて 一心に阿弥陀如来後生たすけたまへと一念にふかく
たのみたてまつらんものをはたとへは 十人は十人百人は百人なからみなもらさすたすけたまふへし(御文章)
百発百中のたのみ方があるのではないですか。
どうすればもろ~の雑行雑修のこゝろをさしをくことが出来るのか、
どうすれば一心に阿弥陀如来後生たすけたまへと一念にふかくたのみたてまつることが出来るのか、
それを教えてくださるから浅からざる御勧化と深く感謝させていただけるのではないですか。
明らかにおかしいと自信満々に仰るのなら、どこがどうおかしいのか、ご聖教から根拠を示していただきたいと願います。
31:7
08/03/30 12:08:05 JMkSnT6y
ご自分の体験、もしくはご自分の先生の言われることを絶対視されているようですが、
親鸞聖人、蓮如上人に認めていただける信心かどうか、お聖教を繰り返し拝読すべきです。
御文章は法の鏡と言われます。次第相承の善知識、六字のいわれ、あなた様には何のことだか分からないのではありませんか?
32:298
08/03/30 15:12:21 ZeIlyO/I
>>28
>>明らかに自覚というのは、如来の光明が自覚できると言うことですか?
>できます。「譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」そのままです。
結局、「雖」が解釈できていませんし、「そのまま」では、
説明になっていません。
「譬如」が「そのまま」というのは、おかしいのでは?
>阿弥陀仏に頂く真実信心で、わかります。目に見えるものも、すがたかたち、
>網膜に映る映像は全く変わらないのに、心が変わりますから、世界が変わります。
>一切が光明に包まれていることが、分からせて頂けます。
これも、説明になっていません。
これでは、未安心の方の言い方では、ありませんか?
安心されているなら、ご自身の信心を、表してください。
>ずっと自覚しています。
ということですから、ご自身が体験されている実感を、
表すことができるはずです。
例えば、「一切が光明に包まれている」等、
今ずっと体験しているのであれば、
もっと詳しく描写することができるはずだと思います。
南无阿彌陀佛
33:298
08/03/30 15:23:33 ZeIlyO/I
>>28様の書き方では、未安心の方が、教義に基づいて、
「~になるはずだ」というのを、書いているに過ぎない感じに見えます。
(しかも、その教義は、御聖教中心ではなく、法話中心。)
本当にそのように思っていらっしゃっているならともかく、
安心していないのに、安心していると書くのであれば、
断じて避けねばいけないことだと思います。
自身の後生なのですから、よく考えて欲しいと、本当に思います。
7様もおすすめでいらっしゃいますが、
とにかく、お聖教をもっと読んでほしいです。
28様は、典拠として、本願文と正信偈(>>28)を引かれましたが、
私からすれば、あの文脈で、この2者を引くということは、
お聖教を「読んでいない」ということになるのです。
(スレリンク(psy板:834番))
お聖教は、文字通りに読もうとする事が大切だと思います。
28様には、「みづからたしかに弥陀をたのみたる一念の領解」は、あるのですか?
そして、「一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらにおなじくして」の
経験は、あるのですか?
「おなじくして」の意味も、わからないのではありませんか?
南无阿彌陀佛
34:298
08/03/30 15:26:51 ZeIlyO/I
>>29
>機の深信、法の深信がない
あくまでも、南无阿彌陀佛により、弥陀からいただく信心ですし、
それは自分では作れなかったと、思っています。
機を問わず救うとも、繰り返し書いています。
自分では作り出せない信心をいただくから、
本当に尊いのではありませんか?
「機の深信、法の深信」を、どのような意味で解釈していらっしゃるのですか?
南无阿彌陀佛
35:298
08/03/30 15:31:25 ZeIlyO/I
>>29
>どの異安心のかたも、上手に、お聖教をひくんですよ。
「異安心が上手にお聖教を引く」というのは、おかしいのでは?
「どの」とおっしゃるからには、これまで複数いらっしゃったのでしょう?
あなた様に伝えたいことがあるから、お聖教を引いて、
お話くださったのでは、ありませんか?
お聖教よりも優先されるものとは、何ですか?
36:298
08/03/30 15:41:28 ZeIlyO/I
>>28
>私から見ると、298さんは、それで満足なのかなあ?と思えます。
>自覚もできない、他人から「信心決定したのだ」といわれてそうなのかなあと思い、
>お聖教を読んで人に確かめて、段々満足していく、それでは、
>「鰯の頭」を信じることと、まったく変わらないからです。
他力の信心であると、明らかに知られますし、
「自覚もできない」のは、何もわからないとは違う、と何度も書いています。
イワシの頭では、ありません。
南无阿彌陀佛ですし、自らの中にある、真実信心です。
「まったく変わらない」なら、なぜ、南无阿彌陀佛を奉ずるのですか。
28様が描写しているような異安心は、おそらく実際にあるような気がしますが、
それは、偽物だからでしょう。
偽物だから、人工的な操作をして、信者をコントロールしようとするのでは、
ありませんか?
六字は、そのようなものではありません。凡夫に信心をくださるものです。
ひとりひとりが、阿弥陀仏から直接いただくものですし、
ひとりひとりが、阿弥陀仏を信仰してゆくのです。
そのとき、仲間がいるのがうれしいことですし、
せっかくいただいた真実信心のことも、(多くの場合は)もっと知りたくなるのです。
信心をいただきたい方は、凡夫がたちどころに信決定できる場所を探し、
弥陀の真実信心をいただいてほしいと思います。
37:298
08/03/30 15:50:53 ZeIlyO/I
信心を求める方は、幾度も尋ねてほしいと思います。
◎信心をえたるとほりをば、いくたびもいくたびも人にたづねて
他力の安心をば治定すべし。一往聴聞してはかならずあやまりあるべきなり。(御文4-7)
◎しかれば今日よりのちは、他力の大信心の次第をよく存知したらんひとにあひたづねて、
信心決定して、その信心のおもむきを弟子にもをしへて、
もろともに今度の一大事の往生をよくよくとぐべきものなり。(御文1-11)
◎今日よりして、他力の大信心のおもむきをねんごろに人にあひたづねて、
報土往生を決定せしむべきなり。(御文3-1)
◎上下をいはず問ふべし(聞書166)
28様を尋ねても良し、私を尋ねても良し、7様を尋ねても良し、
今付近にいる方を尋ねても良し、新たに聴聞に行って尋ねても良し、
お会いしていって、探すことだと思います。
南无阿彌陀佛
38:298
08/03/30 15:52:52 ZeIlyO/I
探すときにたよりになるのは、お聖教と直感であると思います。
南无阿彌陀佛
39:298
08/03/30 15:59:43 ZeIlyO/I
それにしても、真宗はすばらしいと思います。
弟子とかかえこむこともない。
御同行御同朋です。
ひとりひとりが、弥陀から信をいただいて、
極楽往生治定です。
素晴しいからこそ、人から人へと伝えられて、
今に至るのだと思います。
南无阿彌陀佛
40:298
08/03/30 16:04:33 ZeIlyO/I
もちろん、「素晴しい」とは言っても、それは私が感じていることですから、
私と同じような感性を持つ方が、同じ様に、「素晴しい」と感じて
くださるのだと思います。
41:298
08/03/30 16:09:07 ZeIlyO/I
たのむ凡夫は皆救うと言っても、「阿弥陀仏を仰いでいる」というだけでも、
引いてしまう方も多いと思うのです。
ですから、あくまでも、求める方のためのものだと思います。
42:神も仏も名無しさん
08/03/30 17:14:43 P1qkD7ke
>>40-41
> もちろん、「素晴しい」とは言っても、それは私が感じていることですから、
> 私と同じような感性を持つ方が、同じ様に、「素晴しい」と感じて
> くださるのだと思います。
あなたの信じているものは、普遍的なすばらしさをもつものではないということですよね。
あなたと同じ感性をもつ方限定のもの、そういうものを真実とは言わないと思います。
こういう言葉が出てくるということは、あなたの中にも確たる確信がないのではありませんか?
自信がないのではありませんか?
> ですから、あくまでも、求める方のためのものだと思います。
これもそうですよね。
「求める方のためのもの」、こういう言葉には疑問を感じます。
真理というのは、普遍的なものであって、「求める方のためのもの」ではないはずです。
43:298
08/03/30 17:22:21 ZeIlyO/I
>>42
本願を聞けるには、三恒河沙の諸佛のお育てが必要なのです。
そして、弥陀の救いが成就したのは十劫前ですので、
それより以前には、なかったものです。
私には、私の信じるものがある。
普遍的かどうかは、私の認識能力を超えています。
同じような感性の方が、同じようなものを「本当」と感じ、
弥陀をたのんで安心する。
私は、それで構いません。
私の話を聞いて、「本当なのでは?」と思う方もいれば、
「偽物だろう」と思う方もいるでしょう。
「偽物だろう」と思っても、「本物かもしれない」と思う方は、
質問してくださると思います。
それはなぜかと言えば、本物を見過ごしたくないからです。
そこには、求める気持ちがあります。
他力信をいただかなくても、名号お称えしてくださる方にも、
求める気持ちがあります。
いろいろなところでお話を聞き、
お聖教と照らし合わせて、自分の直感も感じて行く。
私は、それで良いと思います。
44:神も仏も名無しさん
08/03/30 17:47:11 P1qkD7ke
>>43
そうではなくてですね。
> 同じような感性の方が、同じようなものを「本当」と感じ、
> 弥陀をたのんで安心する。
> 私は、それで構いません。
あなた自身が自信の持てないものを、他人にまで勧めるのはおかしいのではないかと思うのです。
信心を獲たといいながら、あなたの言葉には確たる自信が感じられません。
確たる自信がない、ということは信じているとは言えないでしょう。
45:7
08/03/30 18:56:12 JMkSnT6y
横レスですが・・・
他力の信心は、「確たる自信」といった自力の信心とは違うものだからです。
普遍的かどうかを言っているのではなく、素晴らしいと感じるかどうかは、人それぞれではないですか。
後生が気になる人もいれば、全く気にしない人もいる。
南无阿彌陀佛に真実を感じる人もいれば、全く感じない人もいる。
普遍的な真実があっても、惹かれるかどうかは人それぞれではありませんか?
46:神も仏も名無しさん
08/03/30 19:11:53 P1qkD7ke
信じる
まことと思う。正しいとして疑わない。
まちがいないものと認め、たよりにする。信頼する。信用する。
信仰する。帰依きえする。
そもそも阿弥陀仏の本願を信じられているのかどうかすら疑問を感じますね。
47:神も仏も名無しさん
08/03/30 19:27:01 9ueXyhFS
どうも言葉尻をとらえて、どうこう言っている感じがします。
298さんの信心が本物だろうがニセモノだろうが、人は人として、とにかく自分の
正しいと信じる、南无阿弥陀仏のありようを書き示されてはいかがでしょうか。
48:神も仏も名無しさん
08/03/30 19:46:23 P1qkD7ke
確かに言葉尻だと思います。
しかし、信じるというのは、まさしく言葉尻にまでまことと思う、正しいとして疑わない、
まちがいないものと認め、たよりにしている、信頼している、信用している、
そういうものが伝わってくるものなのではないですか?
私は、言葉尻にでもあやふやなものがあふれている人の、
「信じている」という言葉を信じることができません。
49:神も仏も名無しさん
08/03/30 20:55:46 0ZwSK/SU
>>30
「またあるひとのことばにいわく、「たとい弥陀に帰命すというとも、善知識なくは、
いたずらごとなり。このゆえに、われらにおいては善知識ばかりをたのむべし」と云々。
これも、うつくしく当流の信心をえざるひとなりときこえたり。そもそも善知識の能というは、
「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」と、ひとをすすむべきばかりなり。
これによりて五重の義をたてたり。」(御文章)
貴方の言われていることは、この御文章の「ある人」に相当していますよ。
>百発百中のたのみ方があるのではないですか。
「たのみ方」はありません。
阿弥陀仏を一心一向にたのむ身になる、ということです。
その身になることは、自力ではできません。
一切合財、阿弥陀仏のご本願力によるものです。
善知識のお役目は、そういう素晴らしい他力本願の世界があることを教え、
阿弥陀仏一仏に向かえと教えてくださること。御文章に、あきらかですよね。
「百発百中、信心決定させることができる」ひとは、残念ながら、いません。
それができるのは阿弥陀仏だけです。
50:神も仏も名無しさん
08/03/30 20:59:46 0ZwSK/SU
>>32
>結局、「雖」が解釈できていませんし、「そのまま」では、
>説明になっていません。
そうですか。「摂取の心光、常に照護したまう。すでによく無明の闇を破すといえども、
貧愛・瞋憎の雲霧、常に真実信心の天に覆えり。」を読んで頂くと分かると思いますが、
「煩悩は、雲や霧のように常に真実信心を覆っていると『いえども』」です。
信心決定しても、煩悩具足の凡夫であることは、変わらない、ということです。
>「譬如」が「そのまま」というのは、おかしいのでは?
親鸞聖人の例えられたままということなのですが…
「煩悩が心に一杯渦巻いていても、摂取の心光が常に照らし守ってくださり、
一切の闇はなくなっている。あたかも、雲や霧が空を覆っていても、太陽が出ていれば、
暗闇がないのと同じことである。」ということです。
>>>28様の書き方では、未安心の方が、教義に基づいて、
>「~になるはずだ」というのを、書いているに過ぎない感じに見えます。
信心決定する前は、このような世界が現実に存在するとは思えませんから、
このように言われるのは、ある意味、当然のことです。
信心頂いたということを、誰かに証明してみせることはできません。
でも、こういう世界が本当にあるのだということ、
凡夫が凡夫のままでこの世界に入れるのだということは、分かって頂きたいんです。
それが、浄土真宗の入り口ですから。
そのために、如来聖人、諸仏方が証人になってくださっているんです。
51:神も仏も名無しさん
08/03/30 21:07:19 DZjcrAp1
解脱するのに知識とか関係ないんだろうな
だから阿弥陀仏でもいいんじゃないかな。
相手を思う心や妬まない心、向上心
そんなものを自然に身につけ自己を高めることが
解脱することになるんだろうね。
52:神も仏も名無しさん
08/03/30 21:15:38 0ZwSK/SU
>>33
>私からすれば、あの文脈で、この2者を引くということは、
>お聖教を「読んでいない」ということになるのです。
そうですか。一文不知の愚か者ですから、読んでいないかもしれませんね。
でもそんな身でも、たしかにご本願の通りにして頂けたこと、お聖教の一切が
南無阿弥陀仏となって私に宿ってくださることが、本当に尊く嬉しいのです。
すべて、阿弥陀仏が、限りない智慧とお慈悲で、このわたしを
必ずたすけると誓ってくださり、その通りにしてくださったからです。
すべての人が、必ずこの身になれます。
阿弥陀仏の光明の中に抱かれて、煩悩即菩提、一切の苦しみが喜びに転じ変わる
不思議としか言いようがない無限の命の世界に生きることができるんです。
頭で理解できる安心で喜んでいたのでは、親鸞聖人に申し訳がありません。
真実信心よろこぶ身にしてみせると誓ってくださった、
阿弥陀仏のご本願にまちがいはありません。自力の安心を早くすてて、
不可称不可説不可思議の、他力の本願海に帰入してくださるよう、念じています。
53:神も仏も名無しさん
08/03/30 21:34:08 0ZwSK/SU
>>34
>あくまでも、南无阿彌陀佛により、弥陀からいただく信心ですし、
>それは自分では作れなかったと、思っています。
二種深信とはそんな上っ面なものではないですよ。
一切の虚飾なく、本当の意味で、
諸仏方がどうにもできなかった自分、うそいつわりで出来上がっていて、
真実知る力もなければその気もない、なるほど助かる縁のまったくなかった自分、
たしかに地獄が住処だったわたし。
そのわたしを誰よりもよくわかってくださり、この苦しみを我が苦しみと思ってくださり、
必ず助ける、助けずにはおかない、まことの命の喜びの世界に生かしてみせると誓い、
その通りに成就してくだされた阿弥陀仏の本願。
この両方が、一切の疑いなく、はっきりとわかったということです。
>>36
>「まったく変わらない」なら、なぜ、南无阿彌陀佛を奉ずるのですか。
298さんたちは、南无阿彌陀佛と名づけたイワシの頭を奉じているんですよ。
54:298
08/03/30 21:46:24 ZeIlyO/I
>>53
53様は、私が信じているものとは、別のものを信じていらっしゃるのだと思います。
53様は、53様が信じる道を歩むのが、53様にとって、
納得の行くものになると思います。
私にとっての南无阿彌陀佛とは、
凡夫が、ただ一度にて、弥陀から真実信心をいただけるものなのです。
その方法を教えてくださるのが、
次第を相承していらっしゃる、善知識様です。
「そんな人などいない」と思う方は、探そうとしないと思います。
「きっとどこかに、そういう方がいるはずだ」と思う方は、
まず、獲信者をお探しください。
そのときに、道しるべとなるのが御文様です。
獲信者と思われる方にお会いしたら、
思うところをお話したり、疑問をご質問ください。
双方納得が行けば、次第相承の善知識様を紹介していただけることでしょう。
そして、善知識様と会い、お話し、
双方納得がゆきましたら、六字のいわれを聞き開き、
弥陀をたのむことになります。
これにて、彌陀より真実信心をいただき、
極楽往生が治定致します。
南无阿彌陀佛
55:298
08/03/30 21:58:38 ZeIlyO/I
難しく考える事もなく、
南无阿彌陀佛にて、弥陀をたのめば往生治定、ということです。
56:298
08/03/30 22:04:44 ZeIlyO/I
>>50
お読みしたのですが、私の質問に答えていただけたとは、
思えないんですよね。
検討していただけたとも、思えません。
ですから、私に対しては、今のところ、あまり説得力がありません。
私を異安心と思い、お導きなさりたいと思われるのでしたら、
もう少し、私の言わんとすることを、ご理解いただけたらと思います。
>>52を読んでも、>>53を読んでも、
ご自身の領解が書いてあるようには思えないですし、
私を否定するときには、断言調で元気がいい、という感想です。
どうやって、認識されているのか、それが不思議です。
私の主張は変わらず、「信をいただきたい方は、
次第相承の善知識に会い奉り、六字のいわれを聞き開いてください」
ということです。
六字のいわれを聞き開けば、ときをへだてず、日をへだてず、
たちどころに、信心決定致します。
正に、易行であって、不可思議なものであるとわかります。
そう聞いて、「本当かもしれない」と思う方が探してくだされば、
私はそれで良いのです。
南无阿彌陀佛
57:298
08/03/30 22:23:32 ZeIlyO/I
53様から見れば、私は苦しんでいて、
そんな私にラクになってほしい、ということなのでしょうか。
抜苦与楽は、仏教の基本であると思います。
苦しむ生命から苦しみを減らし、
より幸せになっていただくことは、
仏教者として、とても大切なことだと思います。
南无阿彌陀佛
58:神も仏も名無しさん
08/03/30 22:42:12 0ZwSK/SU
>>54
>53様は、私が信じているものとは、別のものを信じていらっしゃるのだと思います。
その通りです。
そして私はこれまで、親鸞聖人、善知識がたの教えてくださったとおりの、
阿弥陀仏の誓われたとおりの身にならせて頂けた、ということを書いてきました。
つまり、「298さんたちの信心は、浄土真宗の信心ではない」ということなんです。
>>56
>私を異安心と思い、お導きなさりたいと思われるのでしたら、
>もう少し、私の言わんとすることを、ご理解いただけたらと思います。
導くなんてとんでもないし、ここでちょっとレスを交わすくらいのことで
298さんたちを説得できるとは思っていません。
否定されればされるほど、強固に守りを固めるのが自力の信心ですし。
ただ、善知識だのみ(亜流かもしれませんが)の異安心をひろめないでいただきたい、
と思って書き込みをしています。
59:神も仏も名無しさん
08/03/30 23:34:23 byCCe6DB
ETV特集 「いのちの声が聞こえますか?高史明・生と死の旅」を視ました。
12歳の子どもを自殺で亡くした作家・高史明氏(74)は、心の闇と向き合い、親鸞の「絶対他力」にたどり着きました。
それは、善知識による信心ではありません。
それに比べて、298さんたちの信心は、信心を獲たいという受けての気持ちと、善知識によって無理やり信心を獲たと思い込まされた、そういう信心のように感じられます。
阿弥陀さまからたまわった信心ではなく、善知識からたまわった信心のように感じます。
それを信仰することは自由ですが、浄土真宗を語ったり親鸞を語られるのは不快感を感じます。
60:神も仏も名無しさん
08/03/31 01:42:03 Lr3jjWNI
江戸時代には、本願寺は、異安心団体にスパイを送り込み、
そのスパイは、信心を「どうしても得たい」と、善知識を騙して、信者となり秘儀を受けた。
その後、その内容を詳しく政府に報告し、民間真宗の人々が、死刑になったこともある。
という事実があります。
やはり、民間真宗にはそういう過去の遺伝子が残っているので、
必要に坊さんを攻撃し、信用しないのです。
61:298
08/03/31 02:46:32 uid7R7hk
>>58
>そして私はこれまで、親鸞聖人、善知識がたの教えてくださったとおりの、
>阿弥陀仏の誓われたとおりの身にならせて頂けた、ということを書いてきました。
確かに、このようなことを繰り返し書かれていますが、
ご自身の実感が、全然出てきません。
救われたよろこび、救われた実感、救われるとは、どのような心的状態なのか、
信後の状態はどうなるのか、
実際に体験されている方なら、
ご自身のことばで、表せるのではないかと思います。
62:298
08/03/31 02:55:04 uid7R7hk
>>49にて、
◎そもそも善知識の能というは、
「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」と、ひとをすすむべきばかりなり。
と引かれていますが、私は、御文様のこの箇所を読んでも、「なるほど、その通りだなー」と思います。
おっしゃる通りの異安心であるならば、御文様を読んだときに、
違和感があるのではないでしょうか?
>>59
>阿弥陀さまからたまわった信心ではなく、善知識からたまわった信心のように感じます。
「阿弥陀さまからいただいた」と幾度も書いているにもかかわらず、
このように感じられるのは、なぜですか?
阿弥陀様からいただく真実信心ですけれども、
そのためには、善知識様にお会いすることが必要、
ということを書いています。
お聖教とも、一致すると思いますが・・・
六字のいわれを聞き開けば、
ときをへだてず、たちどころに信決定する、
というところが、おかしいということでしょうか?
あるいは、「必ず」ということが、おかしいということでしょうか?
63:298
08/03/31 03:15:47 uid7R7hk
以前、「聞」を問題にしていらっしゃいましたが、
蓮師は、御文様にて、次のように書いていらっしゃいます。
これもこれまで、幾度も引いた箇所です。
◎また名号をもつてなにのこころえもなくして、ただとなへてはたすからざるなり。
されば『経』には、「聞其名号信心歓喜」と説けり。「その名号を聞く」といへるは、
南無阿弥陀仏の六字の名号を無名無実にきくにあらず、善知識にあひてそのをしへをうけて、
この南無阿弥陀仏の名号を南無とたのめば、かならず阿弥陀仏のたすけたまふといふ道理なり。
これを『経』に「信心歓喜」と説かれたり。これによりて、南無阿弥陀仏の体は、
われらをたすけたまへるすがたぞとこころうべきなり(御文1-15)
つまり、「聞」とは、「善知識にあひてそのをしへをうけて、
この南無阿弥陀仏の名号を南無とたの(む)」です。
親鸞聖人は、
◎しかるに経に聞と言うは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし。
これを聞と曰うなり(信巻)
そして、「仏願の生起本末」とは、善知識が教えてくださることではないでしょうか。
「疑心あることなし」とは、「信心歓喜」では、ありませんか?
そして、「聞」というのは、「信心歓喜」となるような「聞」を「聞」と言うのでは、
ないでしょうか?
仏願の生起本末とは、ときをへだてず、日をへだてず、たちどころに信決定できるような
教えのことを指していると思います。
南无阿彌陀佛
64:神も仏も名無しさん
08/03/31 08:45:25 /uaDY8YG
>>62
> 「阿弥陀さまからいただいた」と幾度も書いているにもかかわらず、
> このように感じられるのは、なぜですか?
何にも増して欠くことのできないものが「善知識」であるからです。
> 阿弥陀様からいただく真実信心ですけれども、
> そのためには、善知識様にお会いすることが必要、
「善知識にたすけられまゐらせて、
往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、
すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。」
65:7
08/03/31 09:31:40 W2FzTp/N
>「摂取の心光、常に照護したまう。すでによく無明の闇を破すといえども、
貧愛・瞋憎の雲霧、常に真実信心の天に覆えり。」
と、引いて頂いていますが、何だかまるで快晴の空の下におられるような書かれ方をされています。
そのような信心を得て、お聖教に合わないなぁ・・・と違和感を感じませんか?
20年も自力聖道のご修行をなされた親鸞聖人ですら煩悩の厚い曇り空の下、
直接、真実信心という太陽を見ることは出来ないと、仰ってみえるのではありませんか?
66:7
08/03/31 09:32:00 W2FzTp/N
「この一念の安心ひとつにて浄土に往生することの
あらやうもいらぬとりやすの安心や されは安心といふ二字をは
やすきこゝろとよめるはこのこゝろなり」
「とりやすき信心のをもむきを存知して」
とりやすい信心である、と蓮如上人は仰ってみえますが、これも合わないなぁと違和感を感じませんか?
67:298
08/03/31 11:32:02 uid7R7hk
>>64
>何にも増して欠くことのできないものが「善知識」であるからです。
五重の義は、「重」とありますように、すべて必要です。
宿善のある方は、弥陀の救いをお求めになるでしょう。
そのような方は、善知識様をお探しすれば良いのです。
この掲示板をご覧になって、獲信の方法を知りたい方は、
善知識様に出会えていない可能性が高いです。
善知識様に出会うことさえできれば、六字のいわれを聞き開きまして、
光明、信心、名号と、すべて成就致します。
>> 阿弥陀様からいただく真実信心ですけれども、
>> そのためには、善知識様にお会いすることが必要、
>「善知識にたすけられまゐらせて、
>往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、
>すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。」
この箇所にも、善知識の必要性が説かれているのでは、ありませんか?
一体、私の主張の何に反するということで、ご引用なのでしょうか?
善知識の助けにより、弥陀から信心いただくのでは、ないでしょうか。
そして、この「念仏申さん」の「念仏」とは、信後のお念仏のことでございましょう。
五重の義の顕義における「名号」と同じです。
南无阿彌陀佛
68:神も仏も名無しさん
08/03/31 11:55:54 bAXjwKpw
>>61
>救われたよろこび、救われた実感、救われるとは、どのような心的状態なのか、
自分で新しい表現をつけくわえる必要性がないのです。一切がみ教えの通りなのですから。
それでも、ほんの少しでも伝わるように努めてみます。
煩悩はそのままですから、一分一秒、一瞬一念、欲・怒り・愚痴がこの身に溢れています。
それがどんなに恐ろしいものであるか、蛇蝎どころでない猛毒をもったものであるか、
仏様の智慧で、一切の虚飾なく分からせて頂けますから、ああ、なるほど
地獄一定であるとわかります。
そして、ああ、このようなものをこのようなままで、慈しんでくださり、一分一秒、一瞬一念、
離れたまわず、照らし守ってくださる阿弥陀様であったとわかり、極楽一定であるとわかり、
一切が喜びに変わるんです。
吸う息吐く息、一念一念が、南無阿弥陀仏に生かされるということです。
どんな愚かな子、親をののしり、親を叩き、殺そうとする恐ろしい子供であっても、
親がその子を愛する心にいささかも変わりがないように、いやむしろ、
恐ろしい子供であるが故に、親は余計に深く憐れみ慈しみ愛するのと同じです。
恐ろしいというも生ぬるいこの私、永劫の昔から苦界を苦界ともわからず流転し
本性のままに苦を生み、苦しみ悩み、逃れる術も知らず求めることもせず、
仏様を謗り、あざけり、ののしり、たたき、その御心をふみつけてきた私を、
阿弥陀仏は一人子と思い、深く憐れみ慈しみ、愛してくださる。
仏様の、言葉を尽くしても表し尽くせない明るい智慧、暖かいお慈悲のみちみちた、
真実の心の中に抱き取って、わたしのこころを、それと同じ心に成してくださるんです。
だから、網膜に映る映像は同じだけれども、見るもの一切が、
光明のうちに生かされているとわかるんです。
そうと知るとき、ただただ、御恩報謝のお念仏が、口から溢れてくださるのです。
すべてが阿弥陀仏のおはたらきです。自力と言うことは一切ありません。
69:神も仏も名無しさん
08/03/31 11:56:32 bAXjwKpw
>>62
>おっしゃる通りの異安心であるならば、御文様を読んだときに、
>違和感があるのではないでしょうか?
自力の信心であっても、異安心であっても、お聖教を読んで、「その通りだな」と
思うことができます。
そうでなかったら、同じ仏教、同じ浄土門、同じ浄土真宗を信じながら、これだけ
違う教えは生まれていません。
>>63
>そして、「仏願の生起本末」とは、善知識が教えてくださることではないでしょうか。
>「疑心あることなし」とは、「信心歓喜」では、ありませんか?
>そして、「聞」というのは、「信心歓喜」となるような「聞」を「聞」と言うのでは、
>ないでしょうか?
>仏願の生起本末とは、ときをへだてず、日をへだてず、たちどころに信決定できるような
>教えのことを指していると思います。
その通りです。そのように教えてくださるのが、善知識です。
ただ「聞」を妨げているのは、自力の心ひとつです。
自力の心すたるとき、日をへだてるどころか一念で、信心決定です。
それは、必ずしも善知識の目前というわけではありません。
こちらの三業は一切関係ありません。三業は一切、信心頂く役にたちませんから。
ただ、阿弥陀仏の、いまこのときもわたしたちを照らしづめでいてくださる光明、
必ず助けねばおかないのご本願力が、わたしたちの自力の心をうちやぶってくださる
そのときが、宿善開発の一念で、そのときに信心決定するのです。
70:神も仏も名無しさん
08/03/31 11:58:22 bAXjwKpw
>>65
>と、引いて頂いていますが、何だかまるで快晴の空の下におられるような書かれ方を
>されています。
夜と昼がまったくちがうのと同じです。
でも、夜しか知らないひとは、快晴の空の下と曇天の区別はつきませんね。
真実信心頂くまでは、一切が夜で、光りというものがわからないのです。
>>66
>とりやすい信心である、と蓮如上人は仰ってみえますが、これも合わないなぁと
>違和感を感じませんか?
「とりやすい信心」とは、聞く一つに阿弥陀仏が仕上げてくださっているからです。
こちらはなにひとつすることはなかった、できることはなかった、本当にそのままだった、
素のまま、このままの凡夫の私がお目当てであったか、と分からせて頂いた時、
「とりやすい信心であった」と分かり、こうまでしてくださらねば助からない私だったと、
阿弥陀仏のご恩が本当に分からせて頂けるのです。
71:298
08/03/31 12:04:34 uid7R7hk
>>68
結局、ご自身の実感は、書いてくださらないのですね。
一文不知の方もいただける教えなのですから、
もっとふつうの表現が出来るはずだと思います。
やはり私としては、変わらず、
真実信心いただきたい方には、
次第を相承していらっしゃる善知識様を探してほしいと思います。
>>69
>自力の信心であっても、異安心であっても、お聖教を読んで、「その通りだな」と
>思うことができます。
>そうでなかったら、同じ仏教、同じ浄土門、同じ浄土真宗を信じながら、これだけ
>違う教えは生まれていません。
そうでしょうか・・・
お聖教を重視しないところから、さまざまな教えが出てきていると思いますよ。
私がいろいろお聖教を引いても、あなた様は、
検討してくださいません。
お聖教を重視していないということが、
繰り返し示されてきていると思います。
お聖教を読みすすめ、「その通りだな」とうなづけてゆくならば、
異安心ではないと思います。
南无阿彌陀佛
72:298
08/03/31 12:14:20 uid7R7hk
>>69
あなた様の書き込みは、信前の方が、法話に基づいて、
「~のとおりです」と繰り返しているように感じます。
しかも、信じて書いているのではなく、信じずに書いているような印象を受けます。
いくら凡夫と雖も、自分が嘘をついているかどうか、ほとんどの方にはわかります。
そのような、自分には嘘のつけない本当の心も与えられているのですから、
繰り返し書いてゆくことにより、あなた様自身の観察につながってゆくことと
思います。
今のところ、私はあなた様の道を進もうとは思いませんが、
お聖教からの適切な引用によるお示しがあれば、
その気持ちも変わるかもしれません。
私とあなた様は、異なることを書いているのですから、
求める方がこの掲示板を見たら、その方が選べば良いだけのことです。
あなた様の意見に共感なさる方も、いらっしゃることでしょう。
そして、あなた様のお聖教の引き方が、どうもおかしいように私は感じますから、
あなた様の書き込みが、私に対しては、説得力をもたないのです。
>>67で私が問いかけていますが、>>64の引用は、
反論になっていないのではありませんか?
73:298
08/03/31 12:15:46 uid7R7hk
>>70
>でも、夜しか知らないひとは、快晴の空の下と曇天の区別はつきませんね。
信後だと書いているのですから、夜しか知らないのとは違うでしょう。
74:298
08/03/31 12:25:59 uid7R7hk
結局、70様がおっしゃっているのは、
「善知識は、弥陀をたのめとすすめてくださるけれども、
いつ阿弥陀様から信心がいただけるかは、わからない」ということでしょう?
つまり、善知識様にお会いできたとしても、そして、弥陀の救いを求めているとしても、
すぐに信決定できるかはわからない、ということですよね?
私が書いているのは、
「次第相承の善知識に会い奉り、六字のいわれを聞き開けば、
ときをへだてず、日をへだてず、たちどころに信心決定する」
ということです。
70様が書いているのは、信をいただけないとしても、
善知識には問題が無いということ。
私が書いているのは、信をいただけないなら、
獲信者を探し、生涯一度のお念仏にて信決定できる南無阿弥陀仏を教えて下さる
善知識様を探しましょうということです。
そして、そのためには、御文様を繰り返し読んでおきましょう、ということです。
善知識様にお会いできるまでが難しいので、
そこまで辿り着けば、あとは法に頭が下がるならば、
ことごとく信決定できるということを書いています。
南无阿彌陀佛
75:神も仏も名無しさん
08/03/31 12:36:03 bAXjwKpw
>>73
>信後だと書いているのですから、夜しか知らないのとは違うでしょう。
夜しかわからない身を、信前と知らせて頂くのですよ。
お聖教の通りの世界が、あると信じることができない身を、信前と知らせていただくのです。
>>74
>私が書いているのは、信をいただけないなら、
>獲信者を探し、生涯一度のお念仏にて信決定できる南無阿弥陀仏を教えて下さる
>善知識様を探しましょうということです。
これは、嘘です。
このようなことを言うのは、偽の獲信者であり、偽の善知識です。
善知識のちからで信決定させることは、到底、できません。
信心決定させてくださるのは、阿弥陀仏だけです。
76:神も仏も名無しさん
08/03/31 12:37:43 bAXjwKpw
こうしてレスをやり取りさせて頂くのも、過去世によほどのご縁があった方と思いますので、
もう一つ付け加えさせて頂きます。
どうぞ、本当の善知識にお会いになって、阿弥陀仏のご本願を聞いてください。
お願いいたします。
仏願の生起本末を聞くとは、新しいことを聞くのではない、
南無阿弥陀仏を聞くということです。
生死流転の苦界に沈み切り、助かる縁のない私たちをみそなわした
阿弥陀仏が、必ず助けるという願いをおこしてくださり、誓いをたててくだされて、
南無阿弥陀仏のお六字に、成就してくだされた、ということです。
それを正しく教えてくださるのが、善知識です。
私たちはそれを聞く一つで良いのですが、煩悩深く、うぬぼれ強く、自力の迷いのものすごい
私たちですから、とてもとても、簡単に、素直に、「そうでしたか、ありがとうございます。
はい、御勅命のままにならせていただきます」、とはなれない。
煩悩と、自力の心が邪魔をして、到底、聞けないのです。
それを阿弥陀仏のおひとりばたらきで、何とか何とかと、調熟の光明でお育てくださり、
あらゆる縁を仏縁としてくださり、破闇の光明で暗い心を打ち破り、
明るい、真実信心の世界に、南無阿弥陀仏に生かしてくださるんです。
人間に生まれさせて頂けたこと、仏法を聞く身にして頂けたこと、すべて
阿弥陀仏のご本願のお力です。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
77:76
08/03/31 12:54:32 bAXjwKpw
>>72
>>>67で私が問いかけていますが、>>64の引用は、
>反論になっていないのではありませんか?
すみません、それは私ではありませんので…名乗らずに居たことで混乱をさせて
申し訳ありませんでした。今後があれば、76と名乗ってレスをさせて頂きます。
>>71
>お聖教を重視しないところから、さまざまな教えが出てきていると思いますよ。
いいえ。どの教えでも、自分のところこそ、お聖教を正しく教えているのだと言いますよ。
お互いに、「お前のところはお聖教を重視していないのだ」と言い合っているのです。
まさに一切が、そらごと、たわごとですね。
>お聖教を読みすすめ、「その通りだな」とうなづけてゆくならば、
>異安心ではないと思います。
298さんは、異安心、自力の安心の恐ろしさが、まだまだわかっていらっしゃらないですよ。
自力の信心では、お聖教も、自分の都合のいいようにゆがめて読みますから、
「その通りだな」と読めてしまうのです。
ですがあるとき、「…あれ?でも、これは違うんじゃないか…」と、
「もしかして自分は、お聖教の通りになっていないんじゃないか…」と、気づくときがあります。
これは阿弥陀仏のお育ての光明によって、気づかせて頂く、ということです。
私たちはそうやって気付きながら進ませて頂くのですが、他力の信心頂くまでは、
自力の安心、異安心のままですから、また途中で腰掛けることが、多いにあるのです。
でもそこで、「自力の信心にこしかけてはならん、真実信心いただけよ」
と教えてくださるのが、本当の善知識であり、お聖教に説かれていることであり、
それもすべて、阿弥陀仏のご本願のおはたらきなのです。
78:298
08/03/31 13:24:18 uid7R7hk
>>77
どなたのお書き込みか、よくわからないままに、書き込んでしまい、申し訳ありませんでした。
>自力の信心では、お聖教も、自分の都合のいいようにゆがめて読みますから、
>「その通りだな」と読めてしまうのです。
もちろん、信後(と思った後)でも、勘違いがあってはいけませんので、
お聖教を拝読したり、いろいろな方のお話を聞いてゆくことも、
大切と思っております。
しかし、私は具体的にお聖教を引いているのですから、
私が自分の都合の良いようにゆがめて読んでいるのであれば、
どこをどのようにゆがめているのか、76様は、
教えてくださることができるのではありませんか?
>仏願の生起本末を聞くとは、新しいことを聞くのではない、
>南無阿弥陀仏を聞くということです。
これも、その通りで、「六字のいわれを聞き開く」と繰り返し書いている通りです。
「六字」とは、もちろん南无阿彌陀佛のことなのですから、
これも、何がいけないのか、わかりません。
「一念にて信むまる」と説かれているのに、実際そうならないのは、
如実修行相応ではないからで、だからこそ、そのいわれをよくよく聞き開かねばならないのだと思います。
>>75
>善知識のちからで信決定させることは、到底、できません。
>信心決定させてくださるのは、阿弥陀仏だけです。
もちろん、阿弥陀仏のお力で、信決定させていただくということも、繰り返し書いております。
南无阿彌陀佛
79:神も仏も名無しさん
08/03/31 13:26:55 /uaDY8YG
>>67
> この箇所にも、善知識の必要性が説かれているのでは、ありませんか?
> 一体、私の主張の何に反するということで、ご引用なのでしょうか?
唯円の歎異抄
「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、
往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、
すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。」
298さん達の歎異抄
「善知識にたすけられまゐらせて、
往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、
すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。」
疑いなく違和感なく読んでしまったでしょ?
あなたが信じているものは阿弥陀仏ではなく、善知識なのですよ。
引っかけるつもりはなかったのですが・・・。
80:7
08/03/31 13:28:39 W2FzTp/N
>>76様へ 断定口調で「それは違います」と仰ることがありますが、
そのような重要な主張をなされる時はお聖教の典拠を引いていただきたく願います。
298様が反論や重要な主張をされるときは、必ずといっていいほどお聖教の典拠を示してくださいます。
>善知識のちからで信決定させることは、到底、できません。
この部分についても、76様は298様の書いておられることがご理解出来ない様子です。
御文章ではっきり示してくださっているのに、それは違うと反論されることもありますが、
それではもはや真宗ではなくなってしまいますよ。
五重の義の意味も、善智識の能も、正信を頂けばはっきりと分かります。
信心決定すれば、御文章の隅から隅まで、ぴったりと、そのままじゃないか、と驚かれることと思います。
南无阿彌陀佛
81:298
08/03/31 13:30:28 uid7R7hk
>>75
>夜しかわからない身を、信前と知らせて頂くのですよ。
「自分では、作れない信であったとわかる」という旨を以前書いたところ、
同じ方かはわかりませんけれども、お叱りをいただきました。
そのような表面的なことでは、無いというお叱りでした。
何を指して表面的とおっしゃっているのか、よくわかりませんでした。
凡夫の妄念が表面的であるのは、
わかっていることです。
ご自分でできるとお思いの方は、ご自分の道をお進みになります。
本当に、さまざまな考え方があるのだと思います。
善知識の言葉の下に、一念帰命するならば、
自分では作ることのできない信であったと、
それまで他力と思っていたことは、すべて自力のはからいであったと、
知らせていただけると思います。
これが他力であると、自分の思いで、思っていただけであると、
知らされるからです。
南无阿彌陀佛
82:298
08/03/31 13:37:50 uid7R7hk
>>64
そういう意味で、書いていらっしゃったのですか。
本当に、いろいろな方がいらっしゃいます。
善知識に助けられることは、そのままで、合っています。
それに、ご引用されたのは、64様なのですから、
64様の歎異抄なのでは?
それは冗談ですけれども、信じていない文章を引用するのは、
良くないことだと思いますよ。
善知識に助けていただき、弥陀から信心をいただくという主張に、
変わりはありません。
「善知識だのみ」というのは、善知識を仰ぐばかりで、
弥陀を仰がないものを言うのでは、ありませんか?
不拝秘事も、自らを阿弥陀仏と捉え、弥陀を仰がないと聞いております。
善知識が必要ということと、善知識だのみは、また異なると思います。
善知識からいただく信心ではありません。
弥陀からいただく信心です。
南无阿彌陀佛
83:298
08/03/31 13:38:32 uid7R7hk
>>82
アンカーは、>>79の間違いでした。
84:7
08/03/31 14:01:05 W2FzTp/N
>>79 それで善知識だのみだと証明できたと、したり顔なんでしょうか。
善智識が必要であることが、善智識のちからで救われるとしか受け取れないとするならば、
五重の義も否定することになりませんか?
「宿善開発して善知識にあはすは往生はかなふへからさるなり」
85:神も仏も名無しさん
08/03/31 14:26:05 J6P6poBu
新スレはここだね。よろしく。
>何か議論してる人たち
往生浄土の一大事は、弥陀のお力ただ一つと信じて、
お念仏称えましょう、と言う親鸞聖人のお勧めの通りで、おしまいなのでは?
仏願の尊きことを日々思い出しながら、称名しながら死んでいく。
むつかしい事を言う必要性がわかんないな。
正しいのは、いつも阿弥陀さまだよね。これほど正しいものはないんだよね。
だったら、自分たちは正統だとか、間違いなく弥陀をたのんでるとか、
その方法を俺は知ってるとか、そういうプライドみたいな何か自体、
意味がないんじゃないのかな。帰命無量寿如来、南無不可思議光
でも、そうは言うけど、なんて言い訳はいらないです。
86:神も仏も名無しさん
08/03/31 15:35:23 Ri5xRfd3
>>85
読むとすぐに判りはするんですが、やはり85さんも、そろそろコテハンにしたほうが
いいように思うなあ。
87:神も仏も名無しさん
08/03/31 16:13:07 J6P6poBu
>86
解ればいいじゃん。俺の立場ははっきりしてるんだし。
面倒くさい事を言う人、自義を骨張する人に、
そんな事を付け加える必要ないよって言ってるだけ。
弥陀が必ず救うと誓いを建てられた。
その誓いには、「十方衆生」「若不生者」と私の事が入ってた。
もはや疑う必要ないでしょ。
仏の真実心中に誓われた事、仏の真実心中に成就された事だもん。
私が阿弥陀さまにお願いして、
本願誓ってplease!と頼んだわけでもないのに、
そんなの待ってたら、迷い続けちゃう、
憐れでならないよと、ご自身の成仏かけて、私の成仏を約束されたのね。
彼此三業不相捨離。救われたい凡痴より、救いたい仏の心じゃんか。
他力真実、なんまんだー
88:298
08/03/31 17:19:28 uid7R7hk
>>87
あなた様にとって、お聖教がどのような意味を持つのかも、
わからないのですが、
◎しかるに称名憶念あれども、無明なお存して所願を満てざるものは、
いかんとならば、如実修行せざると、名義と相応せざるに由るがゆえなり。
いかんが不如実修行と名義不相応とする。いわく如来はこれ実相の身なり、
これ物の為の身なりということを知らざるなり(信巻 引文)
「称名憶念あれども、無明なお存して所願を満てざるもの」は、
いないということになってしまいませんか?
また、>>85も、いつもの通りで、「正統だとか意味が無い」と言いつつも、
ご自身の考えを正しいとする構造になっていると思います。
以前も引きましたが、
◎そのことばにいはく、「十劫正覚のはじめより、われらが往生を定めたまへる
弥陀の御恩をわすれぬが信心ぞ」といへり。これおほきなるあやまりなり。
そも弥陀如来の正覚をなりたまへるいはれをしりたりといふとも、
われらが往生すべき他力の信心といふいはれをしらずは、いたづらごとなり(御文1-13)
「われらが往生すべき他力の信心といふいはれ」が無いように思います。
南无阿彌陀佛
89:神も仏も名無しさん
08/03/31 18:36:27 TrxT6mfu
87さんは、ちかごろだんだんと意固地になってきたみたい。
前はそうでもなかったのになあ。
90:神も仏も名無しさん
08/03/31 20:12:55 YBSa1pAs
>>74
普通に なむあみだぶつ ととなえるだけではダメなのですか?
ダメだとすればそれはなぜなのでしょうか?
91:神も仏も名無しさん
08/03/31 20:13:28 YBSa1pAs
>獲信者を探し、生涯一度のお念仏にて信決定できる南無阿弥陀仏を教えて下さる
>善知識様を探しましょうということです。
これについてです。
92:神も仏も名無しさん
08/03/31 20:14:03 E2aDkk1F
>>89
所詮無帰命安心だからなァ。
s会に責められるわけだわ。87は実践面で布教してみ。
各別の心になるのが凡夫だからw
凡心に清心などありはしない。浄土にイケると確信するのは勝手だが
それが信心の体なら完全に自力信だわな。
93:神も仏も名無しさん
08/03/31 20:20:32 YBSa1pAs
善知識に出会って特別なたのみ方でたのんだ信心の体は
自力なのでしょうか、他力なのでしょうか?
94:神も仏も名無しさん
08/03/31 20:21:50 YBSa1pAs
無帰命安心ではない、善知識の秘密口伝でもない、
真の他力信の体とはいかなるものなのでしょう。
95:神も仏も名無しさん
08/03/31 20:22:35 A6f7lgns
無帰命とは
誰の事ですか?
私やあなたじゃ
ないのですか?
それを救う
南無阿弥陀仏ですよ
96:神も仏も名無しさん
08/03/31 20:25:32 YBSa1pAs
>>95
おお!ご指摘ありがとうございます。そうなんですか。
97:298
08/03/31 20:29:16 J8CUW6C5
>>90
◎ただ声に出して念仏ばかりをとなふるひとはおほやうなり、
それは極楽には往生せず(御文3-3)
この御文様がわかりやすいと思います。
他にも、出て参りますので、御文様八十通をお読みいただければ、
わかると思います。
そして、信心の体は南无阿彌陀佛です。
南无阿彌陀佛
98:7
08/03/31 20:34:44 W2FzTp/N
>>90
それ人間に流布してみな人のこゝろえたるとほりはなにの分別もなく
くちにたゝ称名はかりをとなへたらは極楽に往生すへきやうに
おもへりそれはおほきにおほつかなき次第なり
このように蓮如上人は御文章で教えてくださいます。幾たびも幾たびもお示しです。
なぜかと言えば、
他力の信心をとるといふも別のことにはあらす
南無阿弥陀仏の六の字のこゝろをよくしりたるをもて信心決定すとはいふなり
だからだと思います。
99:神も仏も名無しさん
08/03/31 20:40:35 YBSa1pAs
つまり蓮如上人のおふみがプロテスタント教でいうところの
聖書のような、無謬性があるものと信じられているんですね。
100:神も仏も名無しさん
08/03/31 20:42:50 YBSa1pAs
100get
101:神も仏も名無しさん
08/03/31 20:51:06 A6f7lgns
新興宗教の善知識だよりも、
自分達の団体の為に御文章やお聖経を
利用する人たちも、阿弥陀様は必ず救うと言っている。
その為の本願成就の南無阿弥陀仏なんだと
102:神も仏も名無しさん
08/03/31 20:55:24 J6P6poBu
>97
何度も言う必要があるのかなー。
弥陀が助けるを「知った」と安心するのも、
弥陀のたのみ方を知って「たのむ体験した」と「知った」のも、
同じ事だよ。無帰命安心とは、
帰命してます、だから私は救われますとか、
救われた感情が起きた、だから弥陀の本願は真実だとか、
弥陀の必ず助けると言う本願に帰命せず、そうした思いに帰命してるんだから
これらも無帰命安心って言えるんじゃないかな。
大体、無帰命安心って、誰が作った造語なんだろね。
帰命する力があれば迷うのに、本願成就の南無阿弥陀仏が、もう迷わさないぞ。
我が帰命、体験、知識、誉れかな?弥陀の本願こそ誉れだよ。
惚れ惚れするよな、南無阿弥陀仏
103:神も仏も名無しさん
08/03/31 21:31:46 m82o/tBN
>>102
あなたの言うとおりだと、このたびは無条件でみんな往生できるということですね。
しかし、阿弥陀仏は成仏以来十劫経ってるわけでしょ。
あなたもオレも、すでに救われてなきゃならないのに、いままでナニしてたんだろ。
その間、人間界には生まれられなかったのかな。ずーっと地獄で足掻いてたとか。
まあ、往生要集読んでみても、たとえば等活地獄の一日一夜はこの娑婆で言うと・・
なんだっけ。忘れたけど。ま、そういうことで、オレらはずーっと落ちこぼれてたの?
現在、地球上にいる人類のほとんどが、この十劫の間、三悪道しか歩んでこなかった人たちなのか!
104:76
08/03/31 22:28:45 bAXjwKpw
>>80
>そのような重要な主張をなされる時はお聖教の典拠を引いていただきたく願います。
298さんは、もともと、お聖教に書かれていないことを、ひとに勧めているんですよ。
・信心決定するには、お聖教には書かれていない、「六字のいわれ」を
次第相承の善知識から聞かなければならない。
・百発百中、信心決定させることができる善知識がいる。
これが298さんのもともとの主張ですが、お聖教にはないことです。
そして、得られる信心についても、(ここでのやり取りからの推測ですが)
・二種深信がない。
「深心と言うはすなわちこれ深信の心なり。また二種あり。
一には決定して「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来常に没し常に流転して
出離の縁あることなし」と深信すべし。
二には決定して「かの阿弥陀仏の四十八願、衆生を摂受したまう、疑いなく慮なく
かの願力に乗ずれば定んで往生を得」と深信せよとなり。
今この深信は他力至極の金剛心、一乗無上の真実信海なり。」(愚禿鈔)
・正信偈の「摂取心光常照護 已能雖破無明闇 貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天
譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」の境地が、わかっていない。
このようなことでは、他力の信心いただいたとは、到底言えないんです。
お聖教にないことを人にすすめ、偽の信心をつかませるひとたちは、
偽の獲信者であり、偽の善知識だ、ということです。
105:76
08/03/31 23:44:13 bAXjwKpw
>>94
>真の他力信の体とはいかなるものなのでしょう。
「そもそも信心の体というは、『経』にいわく「聞其名号 信心歓喜」といえり。
善導のいわく「南無というは帰命、またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏というは
すなわちその行」といえり。」(御文章)
南無とは、自分のはからいを一切捨てて、すべてをおまかせする、うちまかせる、
一心に阿弥陀仏をたよりにする、ということです。
阿弥陀仏とは、南無とたのむものを、必ず助ける阿弥陀仏のおちから、
はたらきを示します。阿弥陀仏のお名前そのものに、そのお力がこもっているのです。
南無とたのむ真実の心と、真実の心でたのむものを、必ずたすけるはたらきとが、
南無阿弥陀仏の御六字となってわたしたちに宿ってくださるのが、
他力の信心ということですね。
106:298
08/04/01 01:53:16 kK6/T0m6
>>104
◎「その名号をきく」といふは、ただおほやうにきくにあらず、
善知識にあひて、南無阿弥陀仏の六つの字のいはれを
よくききひらきぬれば、報土に往生すべき他力信心の道理なりとこころえられたり(御文3-6)
とあります。
また、
◎黒谷の聖人より、本願寺の聖人相承しましますところの、報土往生の
他力不思議の信心を、善知識ありて、つたえときて、
さずくるを行者ききうるによりて、文のごとく一念歓喜のおもひおこるに
ついて、往生をたちどころにさだまるを、正定聚のくらゐに住すともいひ
かならず滅度にいたるともいひ、摂取不捨の益にあづかるともいふなり(本願鈔)
とあります。
さらに、
◎しかれば本願の生起本末をきくところにて、ときをへだてず日をへだてずして、
たちごころに往生さだまるなり(本願鈔)
◎聞といふは、善知識にあふて、本願の生起本末をきくなり。
ききうるにつきて、歓喜の一念治定す(願々鈔)
◎聞とは善知識にあふて、如来の他力をもて、往生治定する道理を
ききさだむる聞なり(最要鈔)
南无阿彌陀佛
107:298
08/04/01 01:55:58 kK6/T0m6
>>105
>南無とは、自分のはからいを一切捨てて、すべてをおまかせする、うちまかせる、
>一心に阿弥陀仏をたよりにする、ということです。
>阿弥陀仏とは、南無とたのむものを、必ず助ける阿弥陀仏のおちから、
>はたらきを示します。阿弥陀仏のお名前そのものに、そのお力がこもっているのです。
このことは、次第相承の善知識より、六字のいわれを聞き開くことにより、
よくよくわかることと思います。
南无阿彌陀佛
108:298
08/04/01 01:56:53 kK6/T0m6
>>106
たちごころ → たちどころ
109:298
08/04/01 02:11:57 kK6/T0m6
>>104
◎「その名号を聞く」といへるは、南無阿弥陀仏の六字の名号を
無名無実にきくにあらず、善知識にあひてそのをしへをうけて、
この南無阿弥陀仏の名号を南無とたのめば、
【かならず】阿弥陀仏のたすけたまふといふ道理なり(御文1-15)
◎他力の信心といふいはれをよくしりたらんひとは、たとへば
【十人は十人ながら】、みなもつて極楽に往生すべし(御文3-2)
◎宿縁のあらんひとは、これをききて【すみやかに】
今度の極楽往生をとぐべし(御文3-2)
※強調引用者
110:298
08/04/01 02:22:06 kK6/T0m6
◎体に尅してこれを言わば、その本は仏と菩薩とに在るべし。
ただし慥かに如来の教意を相承して伝来せしむ者は、また即ち善知識とすべきなり(六要鈔)
111:298
08/04/01 02:43:57 kK6/T0m6
◎されば善知識にあひたてまつり、法をききて、領解するとき、
往生はさたまるなり(浄土見聞集)
112:76
08/04/01 03:14:07 Ui3/QdED
>>106
>◎「その名号をきく」といふは、ただおほやうにきくにあらず、
>善知識にあひて、南無阿弥陀仏の六つの字のいはれを
>よくききひらきぬれば、報土に往生すべき他力信心の道理なりとこころえられたり(御文3-6)
これは、善知識からの聴聞によって、南無阿弥陀仏のいわれ(南無とたのむ衆生を
必ず助ける阿弥陀仏である)を聞いて、宿善開発の一念に他力信心を得ると言う事です。
「298さんはお聖教に書かれていない「六字のいわれ」があるといっている」、ということの
反論にはなっていませんね。
>他力不思議の信心を、善知識ありて、つたえときて、
>さずくるを行者ききうるによりて、文のごとく一念歓喜のおもひおこるに
>ついて、往生をたちどころにさだまるを、正定聚のくらゐに住すともいひ
「たちどころにさだまる」のは、善知識から聴聞して、宿善開発の一念がそのとき
訪れたということです。善知識が何か特別な能力で信心決定させたとは、かかれていません。
次に引用されている「本願鈔」「願々鈔」「最要鈔」も同じですね。
>>109
「【かならず】阿弥陀仏のたすけたまふといふ道理なり(御文1-15)」は、名号を聞く一念で
「かならず」阿弥陀仏に救われる、ということです。
「【十人は十人ながら】、みなもつて極楽に往生すべし(御文3-2)」は、信心決定したひとは
「十人は十人ながら」極楽往生するということです。
「宿縁のあらんひとは、これをききて【すみやかに】今度の極楽往生をとぐべし(御文3-2)」は、
宿善のある人は「すみやかに」信心決定して極楽往生とげるということですね。
これらは善知識の能力が条件になっているわけではないので、「百発百中、信心決定させることが
できる善知識」を、お聖教が説いている証明にはなりません。
113:76
08/04/01 03:33:29 Ui3/QdED
>>110
>ただし慥かに如来の教意を相承して伝来せしむ者は、また即ち善知識とすべきなり(六要鈔)
これは「善知識の能というは、一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」と同じです。
如来の教意とはここでは、一向専念無量寿仏ですから。
>>111
これは、阿弥陀仏の本願を聞かせてくれる方、つまり善知識にあって、その教えを聴聞し
宿善開発の一念に、それを心の底に聞かせて頂くとき、往生はさだまるということです。
たくさん引用して頂きましたが、いずれも、>>104で示したことの反論になっていません。
114:298
08/04/01 07:10:55 u7AN7aP2
>>112
>これは、善知識からの聴聞によって、南無阿弥陀仏のいわれ(南無とたのむ衆生を
>必ず助ける阿弥陀仏である)を聞いて、宿善開発の一念に他力信心を得ると言う事です。
>「たちどころにさだまる」のは、善知識から聴聞して、宿善開発の一念がそのとき
>訪れたということです。
私が書いているのは、この両者を組み合わせていることです。
大切なことは、「聴聞して」たちどころにさだまる、ということです。
たちどころに信決定できる「六字のいわれ」がある、ということを、私は書いています。
重要なことは、「聴聞」と「信決定」の時間感覚です。「日をへだてない」程度の
時間の間に、信決定できるお話をしてくださるということです。
そもそも、>>104には、私が主張していないことが書いてあります。
私の主張は、以下の通りです。
信決定したい方は、獲信者を探し、次第相承の善知識に会い、
六字のいわれを聞き開き、弥陀をたのんで、信決定してください。
六字のいわれを聞き開けば、ときをへだてず、
日をへだてず、たちどころに、信決定致します。
「善知識の能とは、そのようなものかもしれない」と思う方は、
>>106-111とよく比較し、お聖教の前後も読み、また、
御文様もお読みしまして、探しはじめていただけたら、
うれしいのです。
南无阿彌陀佛
115:298
08/04/01 07:19:15 u7AN7aP2
76様の主張と、私の主張の重要な違いは、
信決定できない原因を、行者に見るか、善知識に見るかです。
76様の主張では、善知識から、仏願の生起本末をお聞きしても、
すぐに信決定できるかは、限らないということだと思います。
聴聞しても、一体いつ信決定できるかは、行者次第、という説だと
思います。
一方、私が主張しているのは、
次第相承の善知識から六字のいわれを聞き開くならば、
たちどころに信決定できるということです。
だからこその、あらゆる機を救うところの南无阿彌陀佛だということを、
書いております。(宿善は、問われます。)
ですから、もし「六字のいわれ」「仏願の生起本末」とされるものを聞いても、
信決定できないのであれば、さらに別の場所を探すべきだということを書いております。
そして、六字のいわれを聞き開くならば、
御文様が、とても良くわかるようになる、御文様は、そのようなことを意図して
書かれたものである、ということを書いております。
これは、事前に証明が出来るようなものではありません。
「ひょっとしたら、そうかもしれない」と感じる方が、
探し始めるきっかけとなることを、願っております。
求めている方が、自分に原因を見て、苦しまないでほしいのです。
行者に原因があるとすれば、探さないことにあります。
南无阿彌陀佛
116:神も仏も名無しさん
08/04/01 07:53:13 JkF7Vor3
>103
全然、違うよ。「無条件で皆救われてるじゃん」も、自力のはからいじゃん。
私を必ず救うと言う弥陀の本願なのに、
何で皆すでに救われてるなんて言う風に受けとめるの?
弥陀の五劫思惟をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人が
ためなりけりって、言われてるのにさ。
無条件で皆救われてるってのも、自力のはからい。
無条件で皆救われてるのはおかしいって思うのも、あなたのおはからい。
19・20と用意され、それさえ漏らさず救うと誓われた弥陀の本願だよ。
弥陀の本願それのみが尊いねー。そらごと、たわごとじゃないからね。
どこまで行っても、弥陀の本願成就が先。私は後。
まさに完璧な救いだよ。お礼のしようがないから、南無阿弥陀仏
117:神も仏も名無しさん
08/04/01 08:41:28 cOX9WVdU
事前に証明できないということはつまり
お聖教に書いてないことを主張しているということ。
お聖教にないことは信じようが無いです。
118:7
08/04/01 09:18:47 qEt91L69
どれだけお聖教で根拠をあげても信じられない方が、浄土真宗の何を信じるというのでしょう?
そもそも、大前提たるべき極楽浄土すら、あなたの仰るような「証明」は「事前に」は不可能でしょうし。
119:76
08/04/01 11:45:01 Ui3/QdED
>>114
>たちどころに信決定できる「六字のいわれ」がある、ということを、私は書いています。
>>115
>信決定できない原因を、行者に見るか、善知識に見るかです。
・特別な、「たちどころに信決定できる「六字のいわれ」」がある、と読む。
・信決定できない原因が、善知識にあると読む。
それが、自力の信心で、お聖教をゆがめて読んでいるということなんです。
「六字のいわれ」は、お聖教のなかに一切合財、書かれていますよ。
本当の善知識は、常にそのことひとつを、私たちに聴聞させてくださっています。
もちろん蓮如聖人も、御文章に、そのことひとつを説いてくださっています。
「されば、「南無阿弥陀仏」の六字のいわれをよくこころえわけたるをもって、信心決定の体とす。
しかれば、「南無」の二字は、衆生の阿弥陀仏を信ずる機なり。つぎに「阿弥陀仏」という
四つの字のいわれは、弥陀如来の衆生をたすけたまえる法なり。」(御文章)
これを、わたしたちが、本当に「聞」けば、たちどころに信決定なんですよ。
わたしたちが「聞」いていないんです。他人事としてしか耳に入れていないんです。
お聖教を読めども読まず、仏法を聞けども聞かず、自力の心がしっかりとふたをしています。
「しかれば、当時は、さらに真實信心をうつくしくえたるひと、いたりてまれなりとおぼゆるなり。
それはいかんぞなれば、弥陀如来の本願の、われらがために相応したるとうとさのほども、
身にはおぼえざるがゆえに、いつも信心のひととおりをばわれこころえがおのよしにて、
なにごとを聴聞するにも、そのこととばかり、耳へもしかしかともいらず、ただひとまねばかりの
体たらくなりとみえたり。この分にては、自身の往生極楽も、いまはいかがとあやうくおぼゆるなり。」
(御文章)
120:76
08/04/01 12:03:26 Ui3/QdED
>>118
>どれだけお聖教で根拠をあげても信じられない方が、浄土真宗の何を信じるというのでしょう?
7さんこそ、浄土真宗でないものを信じていますよ。
お聖教に書かれていない「特別な「六字のいわれ」」を信じ、
お聖教に書かれていない、「百発百中信心決定させることができる善知識」を信じています。
一方で、正信偈の
「摂取心光常照護 已能雖破無明闇 貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天
譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」
この境地がわかっていない。お聖教に説かれている他力信心の境地が本当にあると信じていない。
「曇天だけれども闇はない、明るいのだ」と聞いて、それでは快晴ではないかと思うのは、
夜しかしらないからです。夜の只中にいるのに、誰かから「雲霧のせいで真っ暗がりに見えるけれど、
これは昼なんだよ」と言われて、それを信じているに過ぎません。
信心決定すれば、はっきりと分かります。一切合切が、無量寿仏の、限りなき無量の智慧とお慈悲に
包まれて、生かされて、光り輝いているということが。
すべて南無阿弥陀仏が、私の身に生きてはたらいてくださるから、わかることです。
本師本仏の阿弥陀仏が、なにもできないわたしたちを助けるため、それ一つのために四十八願をたててくださり、
一切の善を修めて、その大功徳を六字の名号にこめて、わたしたちに届けてくださった。
御六字をこころに受け取る一つでいいとは、本当に、とほうもなく有難くかたじけない、仏心親心ではありませんか。
それを脇にのけて、善知識の神通力とやらを信じ、もったいなくもお六字の名前をつけたイワシの頭を信じていては、
親様に申し訳がありません。一刻も早く、寝ている心を覚まして、仏法を聞いてくださるよう、お願いいたします。
121:7
08/04/01 12:57:13 qEt91L69
>わたしたちが「聞」いていないんです。他人事としてしか耳に入れていないんです。
これでは自分を責めるばかり。後生の一大事が気になって、阿弥陀仏の本願に救われたいと願うならば、
「抑その信心をとらんするにはさらに智慧もいらす才学もいらす富貴も貧窮もいらす
善人も悪人もいらす男子も女人もいらす たゝもろ~
の雑行をすてゝ正行に帰するをもて本意とす」
正行とは何か、教えてくださるのが善知識だと思いますよ。
122:7
08/04/01 12:59:25 qEt91L69
廃立肝要でありますが、76様は自力は捨てものと言いながら、正行までついでに捨ててしまわれたのでしょうか。
123:298
08/04/01 14:09:25 ttk7ixEp
>>120
>一方で、正信偈の
>「摂取心光常照護 已能雖破無明闇 貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天
> 譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」
>この境地がわかっていない。お聖教に説かれている他力信心の境地が本当にあると信じていない。
「煩悩があるままで、弥陀に救われる」と、
繰り返し書いておりますが・・・
惑染凡夫がそのままで、弥陀をたのめば、たちどころに信決定致します。
弥陀の救いを求める方は、
六字のいわれを説いてくださる、
すなわち、浅からざる御勧化をなさってくださる善知識様に
お会いしてほしいと、私は願っております。
ピンと来ない方は、探しません。
そのような方は、その方の道を進めば良いと思います。
いろいろな考え方があると思います。
私からすれば、決定させてくださらない善知識様は、あくまでも、仮の善知識様です。
易行にて、たちどころに救われる道があるはずだと、信じることのできる方は、
どうか今の世にまで救いの法が伝わっていると信じ、探しはじめてほしいと思います。
弥陀は決して捨て置きません。
必ず、導いてくださると思います。
南无阿彌陀佛
124:298
08/04/01 14:12:41 ttk7ixEp
◎しかれば今日よりのちは、他力の大信心の次第をよく存知したらんひとにあひたづねて、
信心決定して、その信心のおもむきを弟子にもをしへて、もろともに今度の一大事の往生を
よくよくとぐべきものなり(御文1-11)
125:298
08/04/01 14:22:26 ttk7ixEp
76様の主張によれば、
善知識様は、六字のいわれを説いてくださるのに、
行者に聞く耳がないので、
信決定しないということでしょう。
それでは、弥陀の救いが成就したと言いながら、
行者を責めていることには、ならないでしょうか?
成就しているなら、弥陀をたのめば、
信決定するはずなのではないでしょうか?
私が書いていることは、
行者に聞く耳がなければ、
善知識様は、六字のいわれを説いてくださらないということです。
「聞く耳がある」とは、「すべておまかせいたします」と、
法に頭が下がるのであれば、それで十分だと思います。
その気持ちが本物であれば、
法を伝えてくださると思います。
弥陀も、行者を救いたい。
善知識も、行者を救いたい。
真剣におたのみしても救ってくださらないのは、
おかしいと思っています。
何を信じるのかは、読んでいる方が決めれば良いことです。
南无阿彌陀佛
126:神も仏も名無しさん
08/04/01 17:46:43 DO9Kn/9S
>>120
たとえ清心起こせども水に描ける絵の如し。
あなたがどれだけ素晴らしい心境だと言っても所詮は自力のさとり。
報土往生の因にはなりません。
127:7
08/04/01 19:10:01 qEt91L69
>>120さま 素晴らしい心境を得た、ということを本とされず、「正行に帰するをもて本意」とされた、お聖教をご拝読願います。
128:神も仏も名無しさん
08/04/01 19:21:57 JkF7Vor3
>125横レスですが、
真剣にたのむ力無き衆生は助けられない阿弥陀さまなんでしょうか?
それならば、第18願文に、
「私(阿弥陀)に帰命する仕方を、釈尊より次第相承している善知識に教わって、
信心決定と言う体験を得た者をば浄土に往生させる。
もし然らざれば正覚を取らじ。」と、ちゃんと述べられておればいいけどね。
成就文もまた同じ。たとえ、そのような願いであったとしても、
仏名は、悟りの内容そのものを現わす名体不二だから、
阿弥陀仏じゃなくて、善知識にたのみ方教わった衆生を助ける仏、
っていうような名前にしないと、嘘になっちゃう。
そうした仏をたのむ人達の信心の体は、
南無阿弥陀仏じゃなくて、南無有量光仏という名号であれば問題ない。
機の方に過失があるとしても、機失の者は救えない仏なんだから、
やっぱり有量光仏だよね。阿弥陀仏とは言えないって事。
Q.E.D.南無阿弥陀仏
129:神も仏も名無しさん
08/04/01 19:23:18 JkF7Vor3
>120
どっちも駄目。南無有量光仏だよー。
130:神も仏も名無しさん
08/04/01 19:55:28 T+wsvcCP
76さん。歎異抄を読んで教えに興味を持った者です。
ズバリ信心決定するにはどうしたら良いか教えてください。
また、76さんはどのように信心決定されたのでしょうか、
お聞かせ下さい。最近興味を持ったド素人ですが、アドバ
イスお願いします。
131:7
08/04/01 20:23:03 qEt91L69
>128さま
「月影の いたらぬ里は なけれとも なかむる人の 心にそすむ」
法然上人のお歌です。 なかむる人に、なって欲しいと思います。
132:神も仏も名無しさん
08/04/01 20:25:20 W+D4ObW/
親鸞会に行くのに疲れてきた。
信心決定なんてものは、800年前の迷信ではなかろうか?
私は生まれながらの障害者だが、因果の道理を押し通すために前世まで持ち出して
くることに憤りを感じる。
阿頼耶識とは脳の中の記憶物質のこと。それは遺伝子の受け継がれで続いていくのであって、
同一人物の業なんてものじゃないと思う。
それならば、地球の人口が増えているのはどうしてなのか?
畜生から、人間に生まれ変わる人が増えてきたとでもいうのか?
妙好人なんて嘘だ。そんなものは思い込みにすぎない。
133:神も仏も名無しさん
08/04/01 20:51:46 JkF7Vor3
>131
月影は、南無阿弥陀仏だね。至らない所はない。
至らない所が少しでもあれば、私を救えないからだよ。
眺める私の体験も心持ちも問わない。心にぞ住むその心こそ、
必ず救うの弥陀の真実心だったのさ。他力で読まず、
自力で読むと、虚妄分別心のとりこになっちゃう。
私の心には弥陀がちゃんと写ってるってな具合にね。
凡痴の心に写った月は、おぼろ月夜か、三日月か。
はたまた、ウサギの餅つきか?
ヒキガエルに見えるという地域もあれば、狼男に変身するお話もあり。
体験も、イニシエーションも、善知識と称される人によって、まちまちだねー。
我心もまた刹那消滅、刹那生起。まちまち、ちまちまの不定の体験あてにせず、
正定なる弥陀の本願、たのめ皆ひと。なんつってなー。
南無阿弥陀仏
134:298
08/04/01 21:46:17 0zzJ0NBZ
御文様や聞書を読んでいておもしろいのは、
門徒が先に信を獲る記述があるところです。
こういう部分を読むと、何か微笑ましいというか、
私は蓮師の愛情を感じます。
蓮師は、門徒から支持されていたのだなと感じます。
◎一。近年は、仏法繁昌と見えたれども、まことにもって坊主分の人に限りて、
信心のすがた一向無沙汰なりと聞こえたり。以てのほか歎かしき次第なり(御文4-7)
◎一。末々の門下の類は、他力の信心のとほり聴聞のともがらこれ多きところに、
坊主よりこれを腹立せしむる由聞こえはんべり。言語同断の次第なり(御文4-7)
◎一、ある御門徒衆に御尋ね候ふ。そなたの坊主、心得の直りたるをうれしく
存ずるかと御尋ね候へば、申され候ふ。まことに心得を直され法義を
心にかけられ候ふ、一段ありがたくうれしく存じ候ふよし申され候ふ。
そのとき仰せられ候ふ。われはなほうれしく思ふよと仰せられ候ふ(聞書117)
南无阿彌陀佛
135:298
08/04/01 21:51:31 0zzJ0NBZ
>>132
因果の道理は、人を批難するためのものではないと思います。
あくまでも、人を幸せにするためのものです。
真宗では、私たち凡夫は、とてつもない悪因を重ねてきたと捉えます。
しかし、どの悪因から悪果となって現れて行くか、
それも、凡夫にはわかりません。
今、目の前に現れている結果だけでは、どれくらいの悪業を積んでいるか、
判断ができません。
私たちは、皆凡夫なのですから、ひとりひとり、自らの業による悪果を持ち、
苦しんでいると思います。
それを批難するのではなく、どのようにしてお互いの苦しみを減らしていったらよいか、
協力し、助け合うことが、大切であると思います。
阿弥陀様は、どのような生命のしあわせも願いました。
悪魔のような生命をも救おうと、御修行なさった方です。
因果の道理にしても、自らの認識も、判断能力も超えていると感じ、
ではどうすればよいのかわからない衆生を救ってくださるのが、
阿弥陀仏であると思います。
その身、その心のままで、たのむ衆生をもれなく救ってくださいます。
南无阿彌陀佛
136:298
08/04/01 22:00:19 0zzJ0NBZ
◎我ばかりと思ひ独覚心なること浅ましきことなり。信あらば仏の御慈悲をうけとり申す上は、
我ばかりと思ふことはあるまじく候(聞書91)
信をいただけば、易行であるとわかりますし、同行もいらっしゃいますから、
「自分だけ」ということは、無いとわかります。
ご縁ある他の方もいただけるとわかりますし、
いただいてほしいと思います。
◎善知識の仰に随ひ信をとれば、極楽へ参る者なり(聞書99)
信をいただけば、極楽往生治定。本当に、ありがたいことであると思います。
南无阿彌陀佛
137:298
08/04/01 22:07:15 0zzJ0NBZ
>>132
私にとりましては、信決定は、現実です。
今の世にまで救いの法が伝わっていると、
よろこんでおります。
これまで教わったことを、一端棚にあげまして、
なるべく文字通りに、御文様を読んでゆくことが
できましたら、道が見えてくるかもしれないと思います。
御文様に信決定への道が書かれていると信じることができるならば、
繰り返し御拝読いただければと思います。
そして、できれば、現代語訳ではなく、原典をお読みください。
南无阿彌陀佛
138:298
08/04/01 22:19:57 0zzJ0NBZ
そして、信決定をしても、人生はおわりません。
平生業成ならではのことです。
さらに、後世を歩んで参ります。
真宗の真価が実感されてくるのは、この後世にあると
思っております。
南无阿彌陀佛
139:神も仏も名無しさん
08/04/01 22:56:29 f4Ljetex
所詮、オカルト(霊や神を扱う学問)が駄目な人には、仏教も宗教も無理なのですよ。
そういう人は、数学でも勉強していなさい。
あ、でも、プラトニズム(オカルト)の入門試験は数学でしたね。
140:298
08/04/01 22:58:29 0zzJ0NBZ
>>139
数学は、人間精神の学ですから、
自らの心を観る力が育つと思います。
141:神も仏も名無しさん
08/04/02 00:00:01 h2zl7zRf
>132
大変だねー。しかし、障害って事自体、何なんだろね。
障害持ってる人が住みにくい社会を造ってきたのは、
そうした人たちを無視した理念に基づいて、今の社会を造ってきた健常者。
そうした社会って健常なんだろうか?って考えると、健常じゃないじゃん!
って事は、健常者だと思いこんで、こういう社会を造ってきた人こそ、
実は障害者なんじゃん!そして、そんな我欲の知恵によって造られた
社会生活に適応できるか、できないかによって、障害の有無が生まれる。
そんな凡痴の多数決によって社会が出来上がってる。
俺に障害無いのかと言えば、うーん怪しいぞ。そんな社会を構成してる一員だし、
またさらに窮屈な社会になったら、そんな生活むりーって、
適応出来なくなるかもしれないし。
ただ一つ、依るべき真は、何が何でもあなたを捨てない、
たとえ苦毒に沈もうとも、あなたを絶対に溺れさせてなるものかの、
摂取不捨のお言葉。すなわち南無阿弥陀仏。
親鸞会はよくない話を聞くから、やめといた方がいいと思うけど、
何事も業縁とはいえ、そんな人の言うこと、気にしない、気にしない。
信心はそんな所に無いしね。阿弥陀さまの「何があっても、
あなたを捨ておかないという真心」の他に、信心なんて無いんだから。
信心全く仏心なり。
信心決定もまたしかり。俺の空の財布は、どんなに探しても宝無し。
我欲でザ・ワールドを築き、人が傷つこうがお構い無し。
そんな本性が境涯の俺には、他の方便さらになし。
何処にいようが、何してようが、捨てないぞ、必ず救うぞの南無阿弥陀仏
もはや必ず助けるの本願の他に、頼りになるものないじゃん。
142:298
08/04/02 02:06:17 ER5O+Sl6
自力を否定する方が、真宗には多く、
そのために、以前いらっしゃっていたけちゃっぷさんのような方から見れば、
外道に見えるのだと思います。
真宗も、あくまでも仏道であり、自力は足りないだけであって、
ほんらい無量に近い善行をなさねばならないところ、
弥陀の廻向を受けたが故に、救われるのですから、
できないとしても、善行を心がけてゆくのが、
本来であると思います。
法蔵菩薩の御修行を思えば、
かたじけないのですから、
真似はできないにしても、
少しでも、近づきたいと思うと思います。
それでも無理ですし、
無理であるのに、横超で救ってくださることが、
かたじけないのです。
信を獲たらば、佛恩報謝が大切であると思います。
南无阿彌陀佛
143:298
08/04/02 02:09:47 ER5O+Sl6
弥陀に救われれば、何を為しても往生治定ですが、
だからと言って、不放逸になるのではなく、
あくまでも、自らを律してゆこうとすることだと思います。
これは、善行を足そうとするのではなく、
佛恩報謝でやることだと思います。
南无阿彌陀佛
144:76
08/04/02 11:25:11 Kp5K6Ub9
>>130
歎異抄を読まれて浄土真宗に興味をもたれたとのこと、尊い素晴らしいこととお喜び申し上げます。
お尋ねくださり、ありがとうございます。
ずばり信心決定するには…阿弥陀仏の本願を、真剣に、真剣に聞いてください。
自分を本当の幸せに生かしてくださる、功徳の宝がそこにあるのだと信じて、
お聖教に説かれている信楽の世界、他力信心の不可思議なる、とほうもない、
人間の生死をこえた喜びの世界があるんだと信じて、聞き求めてください。
そして、聞いたら聞くだけでなく、真剣に仏法の教えに従い、毎日を、一瞬一瞬を生きてください。
仏法は人を幸せにする教えです。それに従い、力いっぱい、幸せを求めてください。
そうやって真剣に聞き、真剣に仏法に生きようとすればするほど、一切、真剣になっていない自分、
仏法に従って生きて幸せになることが、到底できない自分が見えてきます。
そうなって初めて、阿弥陀仏しか私をすくうことができないと、気持ちが、
阿弥陀仏に向くのです。一向専念無量寿仏になろうと、こころがさだまるのです。
そうして、お念仏を一心に称え、ますます必死に仏法を聞き求めるのですが、
阿弥陀仏に一向専念であろうとすればするほど、全然そちらを向かない自分が見えてきます。
こうなってくると、聞くなといわれても仏法聞かずにいられなくなります。
聞いても聞かなくても堕ちる自分がみえてまいりますと、ますます聞かずにいられなくなります。
そして、どう聞いてもどう信じても何ともならぬ、助かりそうにない自分がわかってまいります。
145:76
08/04/02 11:38:44 Kp5K6Ub9
>>144つづきです。
けれど、そのような、聞く耳もたぬ、見る目をもたぬ、
尊い南無阿弥陀仏の功徳を受け取る能力の一切ない、わたしをこそ、
必ず救う阿弥陀仏だったのです。だから、「凡夫」そのままのお救い、悪人正機というのです。
若不生者のお誓いまことです。必ず必ず、宿善開発、信心開発の一念がきます。
南無阿弥陀仏が私のなかに飛び込んで、仏様の智慧で、暗いくらい心を
明るく照らしぬいてくださいます。
そのとき「とても地獄は一定すみか」とわかり、
「弥陀五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに「わたし」一人が為であった」とわかり、
「罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします」とわかり、
わたしは「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて往生を遂」げるのだ、とわかるのです。
南無阿弥陀仏と一体にならせて頂けば、地獄一定のままが、極楽一定、現世にいるいまから、
こころは浄土にあそぶなり、浮世の空をかるがると、六字の風につつまれて飛ぶ鳥になれるのです。
一切のいのちが無量の光明に照らされて輝いていることがわかり、まことのいのちの喜びの中に
生きさせて頂くということです。
仏様の智慧とお慈悲の光明に包まれずしては、「私が私が」「取った、取られた」「得た、失った」と
一喜一憂、一つ得れば一つ失い、無くて苦しみ、あって苦しみ、一切が苦で、安心、幸せということは、
もうありません。ですから、死ねば苦しい心のまま、苦しみの限りない世界へ行くしかないのです。
ですが、ひとたび摂取の光明に包まれれば、一切がお他力の中に生かされていることがわかりますので、
煩悩即菩提、苦しみのままが不思議不思議と喜びに転じ変わるのです。そのあかるい心のまま
一息切れれば、無量光明のお浄土、寂静無為の都に生まれることができるのです。
どうかそこまで、阿弥陀仏のお育てのままに、進んでください。
他力の本願海に出るまで、諦めずに、進んでください。お願いいたします。
阿弥陀仏はわたしたちのようなものを、決して諦めることなく、常にいまも、お呼びくださっています。
私が信心決定させて頂いたのも、ここに書いたことの他にはありません。