【浄土真宗】妙好人と学ぶ6【信心獲得(決定)】at PSY
【浄土真宗】妙好人と学ぶ6【信心獲得(決定)】 - 暇つぶし2ch250:298
08/03/05 02:08:41 mKLPavVZ
>>249
>そして六字のいわれとは、何度も何度も蓮如聖人が御文章に
>書いてくださっていること以外には、ありません。

そうなのですか・・・

◎御文はこれ凡夫往生の鏡なり。
御文のうへに法門あるべきやうに思ふ人あり。
大きなる誤りなりと云々(聞書177)

御文のうへに法門があると思うのは、大きな誤りだと
思っていました・・・

251:298
08/03/05 02:10:37 mKLPavVZ
>>249
>ここでいう「当流の法」は、蓮如聖人がご文章の中で繰り返し明らかにされている、
>阿弥陀仏をたのむ一念で救っていただける、という、浄土真宗の教えにほかなりません。

◎しかれば宿善の機をまもりて、当流の法をばあたふべしときこえたり(御文4-1)

では、無宿善の機がいるかもしれない場所では、
「阿弥陀仏をたのむ一念で救っていただける」という教えは、
言わない方がいいんですね・・・

252:298
08/03/05 02:20:40 mKLPavVZ
>>249
>御文章を都合のよいように読み、何か特別な「いわれ」があるから、それを特別な人間から
>聞かなくては信心決定できない、というようにいうのは、
>「阿弥陀仏をタノム一念で、どんなものであろうと、必ず救い取る」と誓っておられる、
>阿弥陀仏の本願力を、疑っているのではありませんか。

では、善知識は、「特別な人間」では無いのですね・・・

もちろん、善知識も凡夫だとは思いますけれども、
そういう意味では、「特別な人間」とは言えないかもしれませんが、
誰でも善知識で、誰から聞いても、信心決定できるということなのでしょうか??

まわりをみわたしても、そのようには見えないものですから・・・

このようなスレが立つくらいですし・・・

253:298
08/03/05 02:22:53 mKLPavVZ
>>249
>「阿弥陀仏をタノム一念で、どんなものであろうと、必ず救い取る」と誓っておられる、
>阿弥陀仏の本願力を、疑っているのではありませんか。

たのみ方を教わると、どうして本願力を疑っていることになるのですか??

弥陀をたのめば救われると信じているから、
たのみ方を教わる気になるような気がしますが??

254:神も仏も名無しさん
08/03/05 02:26:57 r0slw9Dq
>>248
>では、五重の義は、時間的順序では無い、ということなのでしょうか・・・

宿善はすべての基となるものですから、その上に、すべてが重なっていきます。
信心決定の際に宿善開発となるためには、善知識からの聴聞は当然、必要です。

>「善知識にあひてそのをしへをうけて」の「て」というのは、
>この「て」をくぐり抜けるのが、なかなか大変ということですね。

善知識にあうことのも、教えるのも聞くのも難しいと
親鸞聖人も仰っています。

>蓮師はお気楽に「て」と書いていますけれども、
>たとえば、この「て」は、へたすると何十年もかかるということですか?

前に、298さんは御文章は一文字一文字が大変に大切なものだと言われましたね。
一文字の「て」であろうと、読み過ごしてよいものではないですね。

>ところで、「この南無阿弥陀仏の」とあるのですが、「この」とは、何なのですか?

「南無阿弥陀仏の六字の名号を無名無実にきくにあらず」の「南無阿弥陀仏」、
という意味での「この」です。同じ南無阿弥陀仏です。

>そして、その名号は、南無とたのめるそうなのですが、何か、勘違いしてますか?

ここでの「南無阿弥陀仏の名号」は「聞其名号 信心歓喜」の名号を指しますから、
「南無阿弥陀仏の名号」を、阿弥陀仏のお名前でありおはたらきそのものとしてみています。
なのでやはり、あくまでも、「南無とたのむ」のは阿弥陀仏です。

このあたりのこと、詳しく教えてくださるのが善知識です。


255:298
08/03/05 02:27:16 mKLPavVZ
>>249
>阿弥陀仏の本願には、余計な付属物や条件はまったく必要ありません。
>真剣必死に求めさせていただけば、必ず必ず、阿弥陀仏の真実信心におさめとられ、
>今生只今から、喜び一杯に生かされていくのです。

本願の説明を聞くのが、余計とは、思えないんです。すみません。

256:298
08/03/05 02:29:08 mKLPavVZ
>>254
>善知識にあうことのも、教えるのも聞くのも難しいと
>親鸞聖人も仰っています。

じゃあやっぱり、善知識は、「特別な人」なのでは?

257:神も仏も名無しさん
08/03/05 02:42:24 r0slw9Dq
>>250
>御文のうへに法門があると思うのは、大きな誤りだと
>思っていました・・・

私がそのようなことを書きましたか?

>では、無宿善の機がいるかもしれない場所では、
>「阿弥陀仏をたのむ一念で救っていただける」という教えは、
>言わない方がいいんですね・・・

蓮如聖人の時代ではそれが必要だったとお聞きしています。

>誰でも善知識で、誰から聞いても、信心決定できるということなのでしょうか??

狭い意味で言えば、真実の仏法を、聞くものにわかるように正しく教えてくださり、
自力をふりすてて弥陀をたのめ、と教えて下さる方が善知識です。
その意味で善知識は、特定の人をさすことはありません。
善知識は五重の義の一つであり、蓮如聖人の仰るように、五重の義が揃えば、信心決定させて頂けます。

そして実際には、なかなかおられない貴重な方だと思いますよ、善知識は。

>たのみ方を教わると、どうして本願力を疑っていることになるのですか??

「たのみ方」が自力そのものだからです。たのむことができる自分だと言う気持ちが消えていませんし、
むしろその「たのみ方」を持って、自分のちからで、たのもうとしているからです。

「このたのみ方でたのめば、救われる。」=「このたのみ方でたのまなければ、救われない。」と、
阿弥陀仏のご本願を疑っています。そのままこい、とお呼びくださる
阿弥陀仏のお力を疑っています。


258:298
08/03/05 02:44:46 mKLPavVZ
>>254
>善知識にあうことのも、教えるのも聞くのも難しいと
>親鸞聖人も仰っています。

◎善知識にあふことも
 をしふることもまたかたし
 よくきくこともかたければ
 信ずることもなほかたし

連想されるのは、この御和讃です。

これは、個人的な解釈を申し述べます。私の味わいです。

私はこれは、すべて善知識について述べているといただいています。

善知識に会うことも難しい。
善知識を知っていても、教えることも難しい。
善知識についての話を聞いても、それをよく聞くことが難しい。
しかも、そのような善知識の存在を、信じることは、さらに難しい。

このようにいただいております。
もちろん、証明のできるようなものではありません。

南无阿彌陀佛

259:298
08/03/05 02:49:02 mKLPavVZ
>>257
>「このたのみ方でたのめば、救われる。」=「このたのみ方でたのまなければ、救われない。」と、
>阿弥陀仏のご本願を疑っています。そのままこい、とお呼びくださる
>阿弥陀仏のお力を疑っています。

「一称の南无阿彌陀佛で救われる」と信じることが、本願を疑っていることになりますでしょうか?

本願を信じているからこそ、南无阿彌陀佛を一称したつもりでも救われないなら、
「本願相応の称名では無いのだろう」と思うのではないでしょうか?

では、「本願相応とは、どういうことか?」と疑問に思ったときに、
そこを教えてくださる尊い方が、善知識ではありませんか?

自己流では本願相応にならないからこそ、善知識から、
教えをいただくのでは、ないのでしょうか。

260:298
08/03/05 02:56:53 mKLPavVZ
>>257
>狭い意味で言えば、真実の仏法を、聞くものにわかるように正しく教えてくださり、
>自力をふりすてて弥陀をたのめ、と教えて下さる方が善知識です。
>その意味で善知識は、特定の人をさすことはありません。

ひょっとしたら、誤解があるのかもしれませんが、私は、
「次第相承の善知識は日本にただ一人」と言っているのでは、ありませんよ。

御開山一流のおいわれを守り、実語を守り、相承してきている方々は、
ある程度の人数いらっしゃるはずです。

それは、大切な大切な法だからこそ、守られてきたからです。

「南无阿彌陀佛は尊い」その本当の意味を、教えてくださる方々です。

261:298
08/03/05 03:04:21 mKLPavVZ
>>257
>「たのみ方」が自力そのものだからです。たのむことができる自分だと言う気持ちが消えていませんし、
>むしろその「たのみ方」を持って、自分のちからで、たのもうとしているからです。

念のために申し上げておきます。
「たのみ方」という言い方は、私がわかりやすくするために用いたもので、
正式なものではありません。
ですので、そのために誤解が生じたならば、お詫び申し上げます。

私が言うところの「たのみ方」には、「もろもろの雑行雑修自力のこころのふりすて方」が
含まれます。

つまり、「もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすて」るのは、
「たのみ方」を、教えていただいた後です。

この「たのみ方」を教わらずして、「もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすて」ることは、
めったにできないのであろうと思っております。

よくお考え下さい。

>自力をふりすてて弥陀をたのめ、と教えて下さる方が善知識です。

ここと、私は同じようなことを言っております。

私が言っているのは、「その具体的方法まで教えてくださる」ということです。

だから尊いのです。だからこそ、その尊さに涙し、
骨を砕きても、と思うのです。

262:神も仏も名無しさん
08/03/05 03:05:45 r0slw9Dq
>>255
>本願の説明を聞くのが、余計とは、思えないんです。すみません。

ご本願の説明は、真宗聖典のすみからすみまでに書かれていますよ。
隠された特別な「いわれ」というようなものは、余計なものです。

>>256
>じゃあやっぱり、善知識は、「特別な人」なのでは?

私が特別な人ではない、というのは、「次第相承の」(つまり特定の)善知識でなければ
ならないということは、ありえないということです。
正しく仏法を教え、弥陀をたのめとすすめてくださるかたならば、どなたであろうと、
五重の義でいう善知識足りえます。

私は298さんの善知識ではありえませんので、これ以上細かいことは遠慮させて頂きます。

とにかく、阿弥陀仏をたのむ一念で、金剛の信心、六字のお宝を丸ごと頂き、
阿弥陀仏の御懐に包まれることができるのです。

阿弥陀仏は、生死流転から逃れる術もなく苦しみ惑う私を、もったいなくも
一人子とお思いくださり、なんとか助けんとご本願をたててくださり、そして機法一体の
南無阿弥陀仏を成就してくださった。
そのやるせない御心を思えば申し訳なく有難く、常に光明に包まれてあるこの身の
幸せがあふれ出て、御恩報謝のお念仏となるのです。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

263:神も仏も名無しさん
08/03/05 03:15:14 r0slw9Dq
>>259
>「一称の南无阿彌陀佛で救われる」と信じることが、本願を疑っていることになりますでしょうか?

自分の力で称えることで救われる、というのなら、それは自力です。

>本願を信じているからこそ、南无阿彌陀佛を一称したつもりでも救われないなら、
>「本願相応の称名では無いのだろう」と思うのではないでしょうか?

一称したつもりでも救われないのは、真実信心がないからです。自力のふらふら信心だからです。
自己流とかそういうレベルのものではなく、自分が称えるお念仏で助かろうと思う自力の心では、
とうてい助からないのだと教えてくださるのが、本当の善知識です。

>>261
>私が言うところの「たのみ方」には、「もろもろの雑行雑修自力のこころのふりすて方」が
>含まれます。

「ふりすて方」と仰いますが、自分で振り捨てることができるものではありません。


264:298
08/03/05 03:41:31 mKLPavVZ
>>263
「非行の行の方法を教わる」と聞けば、矛盾に聞こえることは、
よくわかります。

◎本願他力をたのみて自力をはなれたる、これを「唯信」といふ(唯信鈔文意)

◎専修とは、ただ仏名を称念して自力の心を離る(化身土巻)

これを我が身に体験できる方法(すなわち、真実行たる南无阿彌陀佛)があると、
私は思っていますし、それを体験したと思っているということです。

◎まづ能化・所化をたて、自力・他力を対判して、
自力をすてて他力に帰し、能化の説をうけて所化は信心を定得するこそ、
今師(親鸞)御相承の口伝にはあひかなひはんべれ(改邪鈔)

この「能化の説」がそれにあたると私は考えますが、
これだけでは、あなた様にとりましては、根拠が弱いことでしょう。

よく勉強されている方だと思いますので、私としては、
どうかして、弥陀の本願海に入る一味となってほしいと思う所です。

私の教学力の不足が残念です。

私が言う「たのみ方」というのは、「他力の行、非行の行」(に至るため)の方法であるということを、
これだけの根拠では信じていただけないとは思いますが、
印象にとどめていただけたらうれしいですので、繰り返し申し述べさせていただきました。

そして、万が一、そのような方法を求める気分になったときが来ましたら、
どうか私のところでも、他の方のところでも、遠慮なくお訪ねください。

ひとまず、あなた様にわかっていただくような言い方(典拠も含め)を、考えておくように致しますので、
しばらくしたら、またこのスレを見ていただけたら、うれしく思います。

265:けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU
08/03/05 08:01:23 K/COVVFf
>>241 「かならず」と書いてあることが間違いかも。

266:7
08/03/05 08:05:27 CwlwtZlA
おはようございます。本当に、御文章はありがたいと思います。蓮如上人の仰せにしたがってまいります。


267:神も仏も名無しさん
08/03/05 09:01:57 r0slw9Dq
>>264
>これを我が身に体験できる方法(すなわち、真実行たる南无阿彌陀佛)があると、
>私は思っていますし、それを体験したと思っているということです。

思っている、の信心では、生きているうちはまだしも、臨終に際したときには到底まにあいません。
死ぬときは、その「思っている私」を失うのですよ。

>私が言う「たのみ方」というのは、「他力の行、非行の行」(に至るため)の方法であるということを、

なんらかの方法があると思っているうちは、自力です。
すべて阿弥陀仏のおちからひとつによって、「他力の行、非行の行」にいたらせていただくのです。

それには、ただ、親鸞聖人、蓮如聖人の教えてくださったように、仏法を真剣必死に
求めさせていただき、宿善を求めさせていただくこと、ひとつです。
隠されたやりかたは、なにもありません。

そしてこれも、阿弥陀仏のお育ての光明のはたらきひとつによるものです。

阿弥陀仏のご本願力によって、自力がすたったとき、
本願海に帰入させて頂き、法然上人、親鸞聖人、蓮如聖人と全く同じ、
阿弥陀仏から賜る真実信心を頂いた身となれます。

「自力のわろき心」に早く気づかれて、どこどこまでも私たちのために
ご苦労してくだされた真実の親様の懐に、早く早く抱き取られてくださいますよう、
無常の大嵐の来ぬうちにと、阿弥陀仏の光明に照らされ、念じております。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

268:神も仏も名無しさん
08/03/05 09:51:04 UkLrXbHk
298氏の「思っている」は、たぶん客観的な意味あいでおっしゃっているのだと思います。
変な言い方かもしれませんが、客観的に見て決定した領解ができていたのであれば、
臨終に際して、いくらのたうちまわっても大丈夫なのではないでしょうか。
核心のところはよくわかりませんけど。

>267氏の信心と次第には、なるほど、と思います。
もしかしたら、そうかもしれないなあという気がします。
しかし、ひとつ問題に思うのは、そのとおりに信心を決定し、また領解するのは
私のような者にとっては、たいへんに難しいのではないかと感じることです。
方法論が確立している禅宗のほうが、まだしもやりやすいのでは、という気がします。
十人も百人ももらさず、というふうにはいかないかな、というのが少し心にひっかかった点です。

269:神も仏も名無しさん
08/03/05 11:26:38 UkLrXbHk
>それには、ただ、親鸞聖人、蓮如聖人の教えてくださったように、仏法を真剣必死に
>求めさせていただき、宿善を求めさせていただくこと、ひとつです。

私はこういうふうなことができる人間ではないのですが・・
ちゃらんぽらんでいい加減な男です。
開き直るわけではありませんが、「真剣必死」にはどうしてもなれません。
しかし、真剣必死に求めた後に決定したというのであれば、それもある意味
自力なのではないでしょうか?ちがうのかな。
凡夫がもろともに救われるには、真剣でもぼんやりでも、とりあえず「たのむ」ことが
できたなら往生する、というのが本当なのじゃないかな、と思ったりします。


270:神も仏も名無しさん
08/03/05 12:17:16 2ROQnj2l
全国に数人居ると謂われる、次第相承の善知識は、どの団体に属しているのか?
それぞれが、正統性を主張しているのだが、どれが本物でどれが偽者?

はっきり示してもらわないと、探せといわれても一般人は迷うばかり。

血脈相続の伝統教団、真宗十派の善知識(門主)。
内観やカウンセリングなどの心理学系の善知識。
真宗系新宗教の善知識。
各地に点在する講組織の善知識。
隠し念仏や無数の秘事法門の善知識。

271:神も仏も名無しさん
08/03/05 12:36:29 Qf0RCGDS
真剣、必死も要らないね。凡夫の真剣は、なまくらで刃こぼれしてるから、
怪我のもとだよね。豆腐も斬れない。利劔即是弥陀号だよ。
南無阿弥陀仏にゃかなわないぜー。バッサバッサと斬りまくる。
今日も斬られまくりさ。
あと、自分がちゃらんぽらんだって認識する事も要らないよ。
ちゃらんぽらんな人が、自分の事を私はちゃらんぽらんです、
って告白しても、ちゃらんぽらんの人の自己分析なんて所詮ちゃらんぽらん。
お悟り得た方が、汝は凡夫なりと言われるから、凡夫なんで、
自己認識ほど危ないものはないよ。ちゃらんぽらんなんだから。
納得して、これでいいんだも、面々のおはからい。
凡夫だからしょーがないじゃんも、面々のおはからい。
死ぬまで凡夫で抜けられないなら、凡夫の言うことに従っても、
あるのは迷いだけ。迷いないのは何だろう?
仏果を得られた若不生者のお誓いだよ。必ずたすける、必ず浄土に参らせる。
ありがとうございます、南無阿弥陀仏

272:神も仏も名無しさん
08/03/05 12:44:53 UkLrXbHk
>>271
>仏果を得られた若不生者のお誓いだよ。必ずたすける、必ず浄土に参らせる。
>ありがとうございます、南無阿弥陀仏

お誓いがあるから浄土に参れるといっても、どうしてそれが自分にもあてはまるのでしょうか。
ありがとうございます、というからには、お浄土参りができる体となったのでしょうね。
どうしてそれが認識できるんだろか?
・・なんていうと、凡夫に認識もなにもない!って言われそうだけど。
でも、なんらかの、信心を得る境い目的なものがなければ、それと思わないんじゃないかな。

273:笑いのマートル
08/03/05 14:01:54 AkW/WPoH
縁がなければ聞けない謂れ。
色々な団体があり、どの道を選ぶかもその人の縁。
鉄の下駄を磨り潰してでも捜せとも言われている。
自分の信じた道を進むしかないのがこの道の難しさ。
真実はひとつのはず。
信じただけでは救われないのが浄土真宗の謂れを聞くと言う事。
宿善の無い者には、謂れと言われても何の事だか見当もつかない。


274:神も仏も名無しさん
08/03/05 14:05:06 gIXrZPAI
>>273
大乗じゃないってことですね


275:神も仏も名無しさん
08/03/05 14:07:01 gIXrZPAI
はじめから救われる救われないが資質によって決まっている。
大乗の至極といわれる真宗とは別のオシエですよ、それは。

276:神も仏も名無しさん
08/03/05 14:10:39 gIXrZPAI
>>169
ちなみにわたしは法然はイエスの霊だと思いますね。

277:神も仏も名無しさん
08/03/05 14:18:20 UkLrXbHk
難中之難無過此難とおっしゃってるのですから、大乗のオシエでしょう。
生まれ変わり死に変わりする間に、仏に縁をむすんでもらって宿善つんで
やっと開発したときに信心決定、なのでしょうね。
常不軽菩薩ではないけれど、いつかはみんな仏果を得るのだとは思います。
ただ、それが今生であってほしい。
永劫の流転輪廻を思えば気が遠くなりますから。


278:298
08/03/05 14:31:03 1IRY/YW5
>>274
第十八願を聞くには、そのための宿善が要りますが、
第十九願、第二十願は、すぐにでも実践できますよ。

279:298
08/03/05 14:35:46 1IRY/YW5
>>277
「今生であってほしい」と思われる方は、自らに宿善あることを信じて、
探してほしいと思います。

◎もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば、かへつてまた曠劫を経歴せん。
誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ。

とある通りです。

280:298
08/03/05 14:37:27 1IRY/YW5
>>273
「鉄の下駄を磨り潰してでも」というたとえは、私も聞いたことがあります。
御文様を読みながら、探してほしいと思います。

281:298
08/03/05 14:42:00 1IRY/YW5
>>267
>思っている、の信心では、生きているうちはまだしも、臨終に際したときには到底まにあいません。
>死ぬときは、その「思っている私」を失うのですよ。

「思っている私」を失うからこそ、真実信心が相続して、
浄土に至り、滅度に至るのです。

南无阿彌陀佛

282:298
08/03/05 14:45:50 1IRY/YW5
>>267
>それには、ただ、親鸞聖人、蓮如聖人の教えてくださったように、仏法を真剣必死に
>求めさせていただき、宿善を求めさせていただくこと、ひとつです。
>隠されたやりかたは、なにもありません。

別に、隠されていないですよ。求める方には、開かれている教えです。
「仏法を真剣必死に求めさせていただき」という方であれば、
法に頭が下がるでしょうから、聞くことできると思います。

聞く話の内容が違うのだとは思いますが、
否定している場所が不思議な感じがします。

誰に教わるにしても、聞きに行かねば教われないのではないでしょうか。

ましてや、とても大切なことであれば、会いに行って聞くのは、
仏法に限らず、当たり前だと思います。

283:神も仏も名無しさん
08/03/05 15:09:42 2ROQnj2l
正々堂々と、
所属団体名を明かすべき。
それが出来ぬのなら、単なる惑わかし。
衆生救済の熱意のある正統な大乗仏教団体は皆オープン。
こそこそとケツの穴の小さいことではいけません。

284:神も仏も名無しさん
08/03/05 15:29:00 2ROQnj2l
法然聖人の正しい転生。

聖トマス(イエスの十二弟子、インドに布教伝道)→提婆菩薩(竜樹の弟子)→法然聖人

285:298
08/03/05 16:25:40 1IRY/YW5
>>283
探しているうちに、そのお姿を見て、お手引きくださる方がいらっしゃるのです。
283様が正統な大乗仏教団体と思われるところで、
求められたらよろしいかと思います。
おそらく、283様は、どちらの大乗仏教団体においても、求められていないのではないかと
思います。
それは、「正統」とは、本当は信じていないということなのではないでしょうか。
探しているうちに、そのようなことも、わかってくるのではと思います。
283様が「正統」と思われている大乗仏教団体は、どちらの団体ですか?
「皆」とおっしゃるくらいですから、複数あるのではないかと思います。
そして、そのうちの、どちらで法を求めていらっしゃるのですか?
もし、どこでも求めていらっしゃらないなら、「正統」と信じながらも、
求めないのは、どういうことなのでしょうか?

286:神も仏も名無しさん
08/03/05 16:25:51 Qf0RCGDS
>272
南無の二文字があるからね。共にご成就あそばされたのは、
お前と俺とは一心同体、弥陀の正覚すべてをなげうった誓いだから。
信心の体は南無阿弥陀仏だよ。凡心に体を求めたり、
凡心が創りだす体験に体を求めても、蛇蠍の毒しか出てこないよねー。
そーいうものによりかかってるのを自力って言うんでしょ。
骨折り損のくたびれ儲け。

287:298
08/03/05 16:31:16 1IRY/YW5
>>286
信心の体が南无阿弥陀仏だからこそ、凡夫の迷心は、
関係がありません。
往生ほどの一大事は、凡夫があれこれ詮索することではなく、
弥陀におまかせするということです。
南无阿彌陀佛

288:298
08/03/05 16:43:12 1IRY/YW5
>>286
南無の二字は、他でもあると思います。
阿弥陀仏は法であり、だからこその真宗であると思うのですが、
このあたりは、どのようにお考えでいらっしゃるのでしょうか?
また、南无阿彌陀佛は六字ですが、さらにちぢめれば、
阿弥陀の三字であり、このことは、多くの法話においては、
あまり強調されませんけれども、三字名号という考え方も、お聖教に出て参ります。
ここの領解は、どうなさっていらっしゃいますか?
阿弥陀仏も法であり、阿弥陀も法だということです。
そして、これは私の個人的な領解ですが、
名号を一字に縮めるならば、阿だと思います。
阿の字の法こそが、衆生を救う法の要だと思います。
そして、阿の字の法というのは、その指し示すところは、
阿の字ですら無いのですから、そこまで行けば、
名号は文字では無く、智慧なのです。
南无阿彌陀佛

289:神も仏も名無しさん
08/03/05 17:03:26 Qf0RCGDS
>287
全くそうだね。
>288
機法一体章だよ。あとは知らない、>287の通り。


290:298
08/03/05 17:25:32 1IRY/YW5
>>289
南無はたのむ機であり、また信ずる機でございますね。
そして、どちらの解釈にも、弥陀が入ってございます。

◎このゆゑに南無の二字は衆生の弥陀をたのむ機のかたなり(御文4-14)

◎しかれば「南無」の二字は、衆生の阿弥陀仏を信ずる機なり(御文3-7)

さらに私は、ここに、

◎うれしさをむかしはそでにつつみけり こよひは身にもあまりぬるかな(御文1-1)

を重ねまして、よろこんでおります。

うれしさにも、ふたつあるようでございます。

南无阿彌陀佛

291:笑いのマートル
08/03/05 17:26:37 AkW/WPoH
縁があれば、自然と法の方からのお誘いもあるでしょう。
捜し求めて辿り着く人もあれば、
何もしなくても生まれただけで謂れを聞けてしまう者も居るでしょう。
298さんと私の真宗は、知らない人には、
矛盾だらけの教えに聞こえると思います。
三度の食事は、この体を生かすために食していても、
百歳も二百歳も人間は生きられません。
ある意味、死に向かって生きていると云う事は、
いずれ死んで行く為に物事を消化している様なものです。
健康に長生きする為に食べている食事でさえ、
いずれそれも虚しく死んで行きます。
この世は、実は、矛盾だらけの世の中です。
なんだか哲学っぽくなってしまいました。

292:神も仏も名無しさん
08/03/05 17:37:02 Qf0RCGDS
>273
縁がなければ聞けないなんて、自力の囲いを作んないでよー。
それは、あなたの経験上の事に過ぎないのだから。
阿弥陀さまのお目当ては、無有出離之縁の私だよ。
縁もゆかりもない奴を取っつかまえて、永く捨てないよ、お前は私の一人子だから。
一子地の悟りは、もの足りない?摂取不捨では不足ですか?
正覚成じた金言に、凡情自力の毒を盛り、人迷わせて、困らせて、
我が意得たりとしたり顔。あなたはだあれ?お釈迦さま?
無有出離の凡愚なら、得体のしれない毒入りの
ミックスジュースを飲まそうとしないでよー。

293:298
08/03/05 17:44:02 1IRY/YW5
>>292
>縁がなければ聞けないなんて、自力の囲いを作んないでよー。

◎この宿善・無宿善の道理を分別せずして、
手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、
もつてのほかの当流の掟にあひそむけり(御文3-12)

とありますように、それは当流の掟なのです。

294:笑いのマートル
08/03/05 17:44:10 AkW/WPoH
月の光は照らせども、蓋ある井戸に月は宿らず。
皆が仏の教えを聞ける身でありながら、
心を閉ざしているのは他でもない自分です。


295:神も仏も名無しさん
08/03/05 17:48:54 Qf0RCGDS
>290
身にあまりぬるのは他力だからだよ。
「いやー、私は身にあまるうれしさで一杯です」って言っても、
実は、ちゃーんと身におさまってるんだよね。我が身がそう感じてるんだから。
身にあまりぬるのは、諸仏の喜びだから。凡夫の喜びはあてにならないよねー。
何か言われたら、すぐどっかいっちゃう。批判されれば、消えていく。
喜びにも、凡情のぬか喜びと、
弥陀仏のお徳を称讃する諸仏のお喜びじゃ、月とすっぽん。
喜びは消えて逃げるよ。消えぬお慈悲が南無阿弥陀仏

296:笑いのマートル
08/03/05 17:54:35 AkW/WPoH
昔のジャンヌが懐かしい。

297:298
08/03/05 17:56:08 1IRY/YW5
>>295
よく読んでください。

◎正雑の分別をききわけ、一向一心になりて、信心決定のうへに
仏恩報尽のために念仏申すこころは、おほきに各別なり。
かるがゆゑに身のおきどころもなく、をどりあがるほどにおもふあひだ、
よろこびは身にもうれしさがあまりぬるといへるこころなり(御文1-1)

まず、「正雑の分別をききわけ」、
次に、「一向一心になりて」、
そして、「信心決定」。

その上に申す念仏ですから、これは、信決定後の、
御恩報謝のお念仏ですよ。

本当に、格別なものです。

早く、このよろこびを、ご縁ある方に、味わってもらいたいものです。

南无阿彌陀佛

298:298
08/03/05 17:56:33 1IRY/YW5
>>296
そうですね。良い時期に見れたと思います。

299:神も仏も名無しさん
08/03/05 18:06:42 Qf0RCGDS
>297
そー受け取ると、『歎異抄』と矛盾するよねー、蓮如上人のお喜びは。
私の体験したこの喜びをあなたにも味わってほしいです
って言うお勧めなのかな?


300:神も仏も名無しさん
08/03/05 18:07:02 2ROQnj2l
たくさんある講組織にも、それぞれ善知識がいる、とのことだが、
客観的にどの講に次第相承が伝わっており、どの善知識が本物なのか?
その判断基準がわかりかねる。



301:298
08/03/05 18:13:34 1IRY/YW5
>>299
歎異抄の、どの部分と矛盾するとお考えですか?

>>300
客観的に分かりきることは、できないのではないかと思います。
「よきひとの仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり」(歎異抄)とある通りです。
そして、ここで大切なことは、「仰せを信ずる」では無いということです。
御文様や、お聖教を御拝読し、そこに書いてあることと符合する信心を探して行くことだと思います。
「ひとりのしのぎ」たる由縁だと思います。
尋ね歩いているうちに、見えてくるものがあるだろうと思います。

302:神も仏も名無しさん
08/03/05 18:16:59 Qf0RCGDS
>301
唯円房のご不審のところだよ。

303:神も仏も名無しさん
08/03/05 18:39:56 Qf0RCGDS
>293
俺も、他宗他派の人に対して、特に法華系の人、また、宗教嫌いの人、
喧嘩になりそうな人に、あえてお話したりはしないよ。
興味もってるよーなら、お話するけど。でも、縁がなければ聞けないなんて事は
一言も言わない。阿弥陀さまはそんなこと仰っておられないから。
大体、宿善・無宿善の判別能力無いし、もしその判断が誤りだったら、
大変じゃん。大体、凡夫は自分ひいきだから、
多分、自分の意にかなう者を宿善有りと判断しそうだし。
一向一揆が起こるような時代背景がないなら、
この『御文』を積極的解釈するのは、利己主義に陥るリスクが高いね。
だから、宿善無宿善に関しては、親鸞聖人のお手紙等に即して
解釈すべきだよって、君の善知識さんに伝えといて。
蓮如上人も親鸞聖人には頭上がらないからね。蓮如上人だけでは
どーにもわからんって時は、親鸞聖人に還るといいと思うよ。


304:神も仏も名無しさん
08/03/05 18:45:18 2ROQnj2l
>>301
どの善知識が本物?

血脈相続の伝統教団、真宗十派の善知識(門主)。
内観やカウンセリングなどの心理学系の善知識。
真宗系新宗教の善知識。
各地に点在する講組織の善知識。
隠し念仏や無数の秘事法門の善知識。



305:神も仏も名無しさん
08/03/05 18:57:45 Qf0RCGDS
>301
あと、付け加えるなら、自分が体験した狂喜を人に勧めるって事は、
凡夫の転倒した喜びを勧めている事とも言えるよね。
凡夫が喜ぶも喜ばないも、そこには煩悩が介入してない所はない訳です。
まかり間違えば、凡夫の喜びと言う煩悩をあてたよりにする信心
それを求める宗旨ってことになっちゃうよ。
それってもはや外道ですよね。

306:けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU
08/03/05 19:25:30 K/COVVFf
>>284 勢至菩薩の化身

307:神も仏も名無しさん
08/03/05 19:39:40 aV10mSdk
祝! けちゃっぷさんと初めて意見が合った!

308:神も仏も名無しさん
08/03/05 19:52:08 aV10mSdk
スレ違いかもしれないけどね。
うちの近辺に法然上人の旧跡がいくつかあるのよ。
で、たまにドライブがてらにそこへ行ったりしてね、
「ああ、800年の昔、法然さんはこんな辺地へやってきてご先祖たちを済度してくれたんだなぁ」
なんて、ぼんやり思ったりするわけです。
先日、浄土宗発行の小冊子に、まだ私の知らないご旧跡がいくつか載ってました。
春になったら、法然さんの足跡を探しに、カメラでも提げて出かけようかなって思ってます。

309:神も仏も名無しさん
08/03/05 20:12:50 aV10mSdk
>>305
そりゃあ、狂喜する人もいるかもしれないし、なんともない人だっているかもしれない。
喜ぶ喜ばないは煩悩でも、いただくものが他力の南無阿弥陀仏ならいいのでは?
どう感じるかは人それぞれです。でも、南無阿弥陀仏はみんな一緒です。

310:298
08/03/05 21:24:56 NkmxqUeR
>>309
南無阿弥陀仏がみんな一緒って、ほんとうに、いいですね。

311:298
08/03/05 21:25:07 NkmxqUeR
>>301
たとえば、真実信心いただいて、「こよひは身にもあまりぬるかな」とよろこんだとします。
やっぱり、永年求めていた方とか、とてもよろこばれるだろうと思います。
(もちろん、何もわからない方もいるだろうと思います。)
ですけれども、あんなにおおよろこびしたとしても、凡夫ですから、
とっても素晴しいものをいただいたはずなのに、
よろこべない時がある。
そういうときの、ご不審について、お尋ねになったのではないでしょうか。

聖人も、

◎ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしいかな、西蕃・月支の聖典、東夏・日域の師釈に、
遇ひがたくしていま遇ふことを得たり、聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。
真宗の教行証を敬信して、ことに如来の恩徳の深きことを知んぬ。
ここをもつて聞くところを慶び、獲るところを嘆ずるなりと。

とよろこんでおられます。聖人ですら、自らのよろこびの心は、揺れるわけです。

聞書にも、

◎時々懈怠することあるとき、往生すまじきかと疑い嘆くものあるべし、
しかれども、阿弥陀如来をひとたびたのみまいらせて往生決定の後なれば、
懈怠多くなることのあさましや、かかる懈怠多くなるものなれども、
御助けは冶定なり、ありがたやありがたやと喜ぶこころを
他力大行の催促なりと申すなりとおおせられ候なり(聞書)

とあります。よろこびの心は、揺れます。ですから、歓喜正因は異安心とされるのだと思います。
「よろこべ」ではなく、あくまでも、「たのめ」なのです。

◎弥陀の名をききうることのあるならば 南無阿弥陀仏とたのめみなひと(蓮如聖人)

312:神も仏も名無しさん
08/03/05 21:28:58 r0slw9Dq
>>269
>私はこういうふうなことができる人間ではないのですが・・
>ちゃらんぽらんでいい加減な男です。
>開き直るわけではありませんが、「真剣必死」にはどうしてもなれません。

ああ、真剣必死って、なろうとしてなれるものではないですね。
どうしてもこうなりたい、こうしたいと言う気持ちが強ければ、
真剣というかたちで外に現れるのであって。

どんなものぐさ者でも、寝ているところをたたき起こされて
「家が火事だ!」と言われれば外に飛び出すでしょう。…多分。

最終的には、「真剣必死になれない自分」めあての
阿弥陀仏のご本願なのですが、他力信心いただくまでは自力なので。
後生の一大事が心にかかってくれば、世間並みの真剣必死にはなります。

>凡夫がもろともに救われるには、真剣でもぼんやりでも、とりあえず「たのむ」ことが

「たのむ」身になったら、もちろん往生します。
阿弥陀仏のご本願まことですから。


313:298
08/03/05 21:48:27 NkmxqUeR
>>303
>俺も、他宗他派の人に対して、特に法華系の人、また、宗教嫌いの人、
>喧嘩になりそうな人に、あえてお話したりはしないよ。
>興味もってるよーなら、お話するけど。でも、縁がなければ聞けないなんて事は
>一言も言わない。阿弥陀さまはそんなこと仰っておられないから。

明言していないだけで、結局、同じようなことをやっているように思えるのですけれど・・・

お話しないのは、誹謗を恐れてのことです。

誹謗の果は、ご存知でしょう? そのようなリスクを、相手の方に負わせるわけに
行かないのです。


>だから、宿善無宿善に関しては、親鸞聖人のお手紙等に即して解釈すべきだよって、

これは、どの消息のことでしょうか?

314:神も仏も名無しさん
08/03/05 22:02:11 r0slw9Dq
>>271

信後のかたがこのように言われたら、うつくしく他力信心を獲たる姿ですね。
信前のかたが同じように言われたら、信心を心得顔の単なる怠け者ですが。

>>282
>否定している場所が不思議な感じがします。

わたしもずっとずっと不思議に思っていました。けれど、鬼が
仏と遇わせて頂く、本願力の不思議にくらべたら、ぜんぜん不思議ではないですね。

それにつけても、あい難き善知識にあい、聞き難き仏法を聞かせて頂き、
南無阿弥陀仏に生かされて往く、このうれしさ、よろこび。

   「「後生を助けたまへ」とたのみ申せば、
   この阿弥陀如来は深く歓びましまして、その御身より
   八万四千の大なる光明を放ちて、その光明の中に
   その人を摂め入れておきたまふべし。」(御文章 二帖目十三通)

その上は、泣くも笑うも、生きるも死ぬも御六字の中とは……
ただ仏恩の深さに泣き、お念仏称えさせて頂くばかりです。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。


315:298
08/03/05 22:09:11 NkmxqUeR
>>311
このお話は、以前少し議論になった深心のお話にもつながると思うのですが、
歓喜そのものは、信心のひとつの相であって、これは凡夫の意業ではないわけです。
ですけれども、それが凡夫の三業にあらわれてくることがあって、
これがいわゆる「よろこび」です。このよろこびは、出たり消えたり、揺れます。
それでも、よろこべるほうが、凡夫はうれしいですからね。
御恩報謝のお念仏を続けたり、後念相続をしたりしていれば、
よろこびやすくなってくると思います。
これをたとえ話で、「真宗のデザート」と幾度か書いています。
楽しい日暮しのための、おまけですけれども、凡夫にとっては、大切なものです。
阿弥陀さまの、細やかな心遣いがわかります。
ですけれども、所詮は凡夫の心ですから、何かあれば、ゆらぐのです。
この凡夫の意業のよろこびが往生の因ではありませんから、
往生にとって、必要なものではないのです。

316:298
08/03/05 22:21:31 NkmxqUeR
>>282
>>否定している場所が不思議な感じがします。
>わたしもずっとずっと不思議に思っていました。けれど、鬼が
>仏と遇わせて頂く、本願力の不思議にくらべたら、ぜんぜん不思議ではないですね。

私が不思議と書いたのは、
善知識にお話を聞きに行くことを、「隠されている」と否定していると
思ったからです。
求める方は聞けるお話なのですから、「隠されている」と表現することもできなくはないと
思いますけれども、あえて、そのような言い方をすることはないんじゃないかと
思います。

「大切にしている」という方が近いんじゃないかと思います。

「真髄は、直接、善知識に会いに行って、面会して、
お願いした上で教えてもらうことです」ということを、私は言っているわけです。

317:神も仏も名無しさん
08/03/05 22:28:35 r0slw9Dq
  「われわれの地獄におつることは、いまさらのことではない。あたりまえのことじゃ。
   その地獄におつるものを、おみとおしあそばして、必ずたすけるとおおせらるるが
   阿弥陀如来さまの勅命じゃが、それでもそなたは、地獄へ行くのか。」
                              (香樹院徳竜)

  「称えさせてくださるお方がなくて、この罪悪のわが身が、どうして仏のみ名を
   称えることができようか。称えさせるお方があって、称えさせていただいている
   お念仏であると聞けば、そもそもこの南無阿弥陀仏を如来さまは、何のために
   ご成就あそばされたのか、何のために称えさせておられるのかと、如来さまの
   み心を思えば、これがすなわち称えるままが、つねに御本願のみこころを
   聞くことになるではないか。」
                              (香樹院徳竜)


  「ありがたや、ひとり子を、一人でおきたまわぬが親のお慈悲なりけり。」
                              (一蓮院秀存)

  「弥陀をたのむとは、向きをかえるなり。「華山に向いて花を見、明月に向いて明月を観る」
  というごとく、機の方にむかわずして、必ずたすけてやろうとある大悲にむかう一念が、
   「後生たすけたまへと弥陀をたのむ」こころなり。」
                              (一蓮院秀存)

318:神も仏も名無しさん
08/03/05 22:41:31 r0slw9Dq
>>316
>私が不思議と書いたのは、
>善知識にお話を聞きに行くことを、「隠されている」と否定していると
>思ったからです。

わたしは、298さんが、
「特定の善知識に、特定のいわれを聞かなくては信心決定できない」
「たのみ方を聞く」「他力の行、非行の行」(に至るため)の方法を聞く」
と言われていることに対して、ちがう、と申し上げました。

仏法を正しく教えて下さる善知識にお会いして、聴聞させて頂き、
御本願のとおりに阿弥陀仏をたのむすがたとなったとき、信心決定するのです。

真宗聖典に書かれてあるとおりです。
そのほかに、「百発百中」信心決定させていただく、特別な方法があるのではありません。
なにか特別・確実な方法があるように言って、ひとの心を迷わせるのは、よくないことです。

>「真髄は、直接、善知識に会いに行って、面会して、
>お願いした上で教えてもらうことです」ということを、私は言っているわけです。

「真髄」が、真宗聖典に書かれてあること以外にあると言われるのであれば、
ちがう、と申し上げます。

319:298
08/03/05 22:50:44 NkmxqUeR
>>318
>「真髄」が、真宗聖典に書かれてあること以外にあると言われるのであれば、
>ちがう、と申し上げます。

私の言う「真髄」というのは、それを聞いた後で、お聖教を読み直してみれば、
「なるほど、書いてあった、読めていないだけだった」とわかるようなものです。

「領解を合わせる」ことについて、繰り返し書いています。

真髄と言っても、お聖教を離れたものではありません。

「補完するもの」という言い方であれば、近いと思います。

あるいは、扉を開ける鍵のようなものです。

それにより、お聖教を読めるようになるので、正統性を自覚することができます。

この過程が、後念相続に含まれます。

◎この文どものこころは、おもふほどは申さず、よからんひとにたづぬべし(親鸞聖人)

320:298
08/03/05 22:52:52 NkmxqUeR
>>319
「補完」という言い方は、よくないかもしれませんね・・・

◎重宝(ちょうほう)の珍物(ちんぶつ)を調(ととのえ)へ経営(けいえい)をしてもてなせども、
食(じき)せざればその詮なし。同行(どうぎょう)寄合(よりあ)ひ讃嘆(さんだん)すれども、
信をとる人なければ、珍物を食(じき)せざるとおなじことなり(聞書230)

同じ物を食べた者同士であれば、話が合うような感じに近いかもしれません。

「親鸞聖人と同じだ」「蓮如聖人と同じだ」と、話が合いますので、
うれしくなるのです。

321:298
08/03/05 22:57:58 NkmxqUeR
私がこの一連のスレに書いてきたことは、
お聖教と比べるべくもなく、ひどいものですけれども、
こんなものでも、その「真髄」を聞き、弥陀をたのんだ後で読んでみれば、
「なるほど~」と、あちこち領解が合うはずです。

信前には、わからなかったことが、あちこち、「なるほど、なるほど」と
うなずけるようになるのです。

私がHPに書いていることもそうです。

しかし、信後の方だけを対象に書いていては、お導きになりませんので、
わからないところを残しつつ、お導きになることを意識しています。

わからなかったところが、信を獲たら、わかるようになった。

このようなことも、つまらないことかもしれませんが、「同じ信を獲たようだ」と傍証になるのです。

私と同じ信を獲ても、たいしたことないかもしれませんが、
御開山や蓮師と同じだと感じられれば、うれしくもなるでしょう。

信心そのものがわかりませんからね。方便です。

322:298
08/03/05 23:08:53 NkmxqUeR
>>318
>真宗聖典に書かれてあるとおりです。
>そのほかに、「百発百中」信心決定させていただく、特別な方法があるのではありません。
>なにか特別・確実な方法があるように言って、ひとの心を迷わせるのは、よくないことです。

真宗聖典に書かれている、百発百中の方法があるわけです。
もちろん、大経にも書かれていますし、往生要集にも書かれていますし、
選択集にも、行巻にも、書かれています。

ですけれども、凡夫が読んでも、わからないのです。

これを、わからせてくださる方が、善知識です。

「わからせてください」と、御願いして、はじめて聞ける話があるのです。
(このセリフの通り言わなければならない、という意味ではありませんよ。)

「読んでもわからぬ自分である」とわかるまでは、弥陀をたのむ以前に、
善知識にたのむこともできなければ、
念仏行者にたのむことも、できません。(後二者の「たのむ」は、「お願いする」の意味です。)

そして、弥陀をたのめば、一枚起請文も領解文も、とてもよくわかって、
さらにうれしくなるわけです。

南无阿彌陀佛

323:298
08/03/05 23:13:42 NkmxqUeR
良いたとえかわかりませんが、たとえば、物理の本に、

F=ma

と書いてあるとします。そして、「これで物体の運動が予測できるのだ」と書いてある。

しかし、これだけでは、凡夫には、わからないのかもしれないのです。

ですけれども、わかる方に教わって、問題を解いて、計算もできるようになってみれば、
「なるほど、書いてあった」ともわかります。

同時に、十分な情報でなかったこともわかりますね。

教えてくださる方が必要なレベルの情報量になっているわけです。

それで、本だけを読んでいる方は、「Fというのは、ファイト、すなわち攻撃のことであり、
この攻撃によって、の『よって』が『=』であって、それによって、
向き(m)が、明らかになる(a)のである」のような、
知っている方から見れば、実にとんちんかんなことを言ったりしています。

324:298
08/03/05 23:22:09 NkmxqUeR
私は、これからしばらくの間、真宗が広がるだろうと思っているのですが、
そうすると、輪廻から抜けて、極楽浄土に救い摂られてしまう方が増えます。
信じない方からすれば、荒唐無稽なお話ですけれども、
私には、とても不思議な感じがします。
信じない方が知らぬ間に、易行にて、救われてしまう方々が出て来る。
とても不思議です。
そして救われた方は、厭離穢土になり、心も次第に丸くなる。
一般の方は、欣求穢土なので、それを見ていると、ますます不思議だし、
穢土はそもそも思い通りにならないのだから、苦しむに決まっているし、
こんな自分が、そんな不思議な教えを信じたことも不思議だし、
不思議がたくさんです。

325:神も仏も名無しさん
08/03/05 23:40:46 Qf0RCGDS
>313
よく読んでねー。同じ事じゃないよ。それから、謗法の罪が重いと言うのは、
阿弥陀さまが唯除の文でその重さを殊に誓って下さってますね。
でもね、自分の事については気をつけようと注意する事は出来るけど、
他人に謗法の罪を造らせないようにしようなんて、凡夫風情が何言ってんの?
って感じ。業縁に流されて、何でもしてしまう私が、
他人に謗法罪を造らせないようにとはからうこともおこがましいよね。
明日、自分だって、業縁もよおせば謗法罪さえ平気な顔して造ってしまうかもしれない。
そのために、念押しに「唯除」と誓われてあるんじゃないかな。
籠は、弥陀の智願海水に漬けておくのが一番って言われる所以だよね。
漬けとかなけりゃ、驕り高ぶる凡夫風情は何やらかすかわからないからねー。
いやいや、何やらかすかわからんから、漬けておけとのお勧めですね。
つくづくあてになるのは、若不生者のご本願だなー。南無阿弥陀仏


326:神も仏も名無しさん
08/03/05 23:51:31 Qf0RCGDS
>324
ご消息読んでね。仏法がひろまるひろまらないも、仏天のおんはからいだよ。
これからひろまるよーって、凡夫風情で胸張られてもねー。
仏天のおんはからいだよ、何事も。凡夫の思いはあてにならないなら、
沙汰する価値もないって事だね。
仏天のおんはからい以外に、余計な事を付け加えるから、珠に傷なんだよね。


327:298
08/03/05 23:56:32 NkmxqUeR
>>318
>そのほかに、「百発百中」信心決定させていただく、特別な方法があるのではありません。
>なにか特別・確実な方法があるように言って、ひとの心を迷わせるのは、よくないことです。

「最勝の直道」という表現がございます。
「凡夫直入の真心」という言い方もございます。
「愚鈍往き易き捷径」とも申しますね。

「あくまで凡夫直入の真心」というのは、聖人ならでは、ということではなく、
聖人も、自らを、あえて愚鈍の身となしまして、
私ら凡夫と同じようにして、弥陀をたのまれたのだと、
私は思っております。

これも、証明のできることではございませんが、
「直道」「直入」「捷径」あるいは、「極速」これらの表現を見ますときに、
凡夫にとっても、よっぽど早いものであろうと思われます。

「頓中之頓」ともおっしゃっております。

◎さればその信心をとるといふは、いかやうなるむつかしきことぞといふに、
なにのわづらひもなく、ただひとすぢに阿弥陀如来をふたごころなくたのみたてまつりて、
余へこころを散らさざらんひとは、たとへば十人あらば十人ながら、
みなほとけになるべし。このこころひとつをたもたんはやすきことなり(御文3-3)

蓮師も、実にやさしいとのお言葉です。これが、詭弁であっては、
おかしいと思うのです。

南无阿彌陀佛

328:298
08/03/06 00:01:39 NkmxqUeR
>>326
これから広まると思うのは、私のはからいです。
凡夫のはからいですから、はずれても当然です。
目の前の方が、お話を聞いてくださるかどうかが、
仏のおはからい。
目の前の方に、宿善があるかどうかが、仏のおはからいです。
お話を受け入れてくださるか、受け入れてくださらないかを、
私がはからっても仕方がないということだと思います。
私は、目の前のことをやるだけです。
この掲示板に書いている私のことばは、誰が読んでも同じです。
それでも、受け入れる方もいれば、拒絶する方もいます。
そこを、私がはからっても仕方ないということだと思います。
そして、幾人の方が受け入れてくださるかが、仏のおはからい。
人数少なければ、事務的には、あまり作業が増えません。
人数が増えれば、またやることが変わってきます。
そこに文句を言うのは、おかしい、ということだと思います。
私は、淡々と、仏の手足となるべく、はたらくだけです。
少なかろうが、多かろうが、歩んでゆくのです。

329:神も仏も名無しさん
08/03/06 00:02:53 r0slw9Dq
>真宗聖典に書かれている、百発百中の方法があるわけです。

ええと…五重の義のこと、宿善の話はどうなりましたでしょうか?

人それぞれ、宿善の厚い薄いがあり、信心決定は、その本人と、
阿弥陀仏の間のことです。
ですので、とある方法をとれば全員が百発百中、確実に
信心決定できるということは、ありえません。

また、その方法が「たのみ方」などでしたら、自分のほうであれこれ頑張って、
信心いただこうとしていることになります。
「そのまま来いよ」のお勅命を無視しているわけですから、
他力信心は何時までたっても頂けません。

宿善の厚い薄いを無視し、阿弥陀仏のそのまま来いのお呼び声を無視して、
なにかそれっぽいような心を得たと思っても、またもしそれが真宗聖典に
書かれていることと合致していても、それは
阿弥陀仏から賜る真実信心ではないですよ。


>「読んでもわからぬ自分である」とわかるまでは、弥陀をたのむ以前に、

まさかこれを、「自力まにあわなかった」という体験だと思われていませんよね?


330:298
08/03/06 00:03:18 ztmHD2Ya
>>325
その凡夫風情が、私にお説教をするのは、どういうことですか?

331:298
08/03/06 00:05:44 ztmHD2Ya
>>329
>人それぞれ、宿善の厚い薄いがあり、信心決定は、その本人と、
>阿弥陀仏の間のことです。
>ですので、とある方法をとれば全員が百発百中、確実に
>信心決定できるということは、ありえません。

ここの理屈が、よくわかりません。
全員が信決定できないならば、「凡夫直入」とは言えないような気がします。

直ではなく、まだ間に何かが必要ということになりはしませんか?

宿善の厚薄については、善知識に会うまでの時間だけでなく、
他にもいわれがあります。

332:298
08/03/06 00:09:55 ztmHD2Ya
>>329
>「読んでもわからぬ自分である」とわかるまでは、弥陀をたのむ以前に、
>まさかこれを、「自力まにあわなかった」という体験だと思われていませんよね?

いわば、「(浅い)自力間に合わぬ」ということですね。
真実信心のひとつの相である「機の深信」の前に、
信前の凡夫の意業に「機の深信のようなもの」が現れることが多いのと似ています。

「自力まにあわぬ」ときちんとわかるのは、弥陀をたのんだ後です。

他力信と明らかに知られたことにより、自力まにあわぬとわかるのです。

そして、自力がすたるのは、弥陀に信心をいただくときです。

あくまで弥陀からいただく信心でありますので、
自分の心をどうこねくり回そうが、どうにもならないということです。

333:298
08/03/06 00:14:28 ztmHD2Ya
>>329
>宿善の厚い薄いを無視し、阿弥陀仏のそのまま来いのお呼び声を無視して、
>なにかそれっぽいような心を得たと思っても、またもしそれが真宗聖典に
>書かれていることと合致していても、それは阿弥陀仏から賜る真実信心ではないですよ。

よく意味がわかりません・・・
どうやって、判別しているのですか?

それに善知識は、「宿善の厚薄」を無視しませんし、
阿弥陀仏のそのまま来いのお呼び声も無視しませんよ。

「そのまま」を否定しているのは、あなた様なのでは・・・

「聴聞が足りない」を、私たちは、「そのまま」とは申さないのです。

本当に、その身その心のままで、すぐに信心決定できます。
何も、むずかしくありません。凡夫直入の真心です。

334:神も仏も名無しさん
08/03/06 00:18:39 q141IIic
>全員が信決定できないならば、「凡夫直入」とは言えないような気がします。

凡夫直入とは、聖道門とくらべてのことであり、「直」は、間に何かさしはさまないことを示すのではないです。
ともあれ、どんなものをもすくう阿弥陀仏の御本願ですから、全員がいつかは
信心決定するのは疑いないことです。

ただ、宿善の厚薄によって、あとさきがあるということ。

宿善が熟して開発しなければ、信心決定はできません。
宿善厚薄が人それぞれなのに、必ず信心決定できるとは、よもや宿善を
速やかに熟させる方法でもある、と考えているのですか?
それを、仏様でもない凡夫が行うのでしょうか?


335:298
08/03/06 00:20:01 ztmHD2Ya
以前、どなたかが書いていましたけれども、
真宗に興味を示すだけで、興味を示さない方よりも、
(真宗で言うところの)宿善は厚いのです。
念仏行者に会えた方は、会えない方よりも、
宿善は厚いのです。
次第相承の善知識に会えた方は、会えない方よりも、
宿善が厚いのです。
法に頭の下がった方は、下がらぬ方よりも、
宿善が厚いのです。
六字のいわれを聞けた方は、聞けぬ方よりも、
宿善が厚いのです。
そして、弥陀をたのんだ方は、たのまぬ方よりも、
宿善が厚いのです。

宿善の厚薄はあります。
この掲示板で、私の同じことばを読んでも、
受け入れる方も、拒否する方もいらっしゃいます。

受け入れる方にも、早い遅いがあります。
宿善の厚薄があることが、わかるではありませんか。

なぜ、無視していることになるのでしょうか?

336:298
08/03/06 00:22:21 ztmHD2Ya
>>334
>宿善厚薄が人それぞれなのに、必ず信心決定できるとは、
>よもや宿善を速やかに熟させる方法でもある、と考えているのですか?

次第相承の善知識に値い奉り、六字のいわれを聞き開けた時点で、
もう、宿善は、かなり開発されているのです。

宿善が開発されているからこそ、六字のいわれが聞き開けるのであって、
宿善を開発して、聞かせるのではありません。

あくまでも、ご本人が選択されることです。

既に、宿善の開発がなされている方に、
法を伝え、その最後の導きがなされるだけです。

337:298
08/03/06 00:27:54 ztmHD2Ya
>>334
>ただ、宿善の厚薄によって、あとさきがあるということ。

わかりやすいように、具体的に申しますね。

たとえば、私を尋ねてきた方がいらっしゃるとします。AさんとBさんとします。
メールをくださった方でもいいです。

仮に、Aさんの方が早く尋ねてきたり、メールをくださったとしても、
それでも、Aさんの方が早く弥陀をたのめるかと言えば、
そうではないのです。

あれこれ、やり取りはするけれども、疑っていれば、
先に進めないでしょう。

「宿善の有無を見る」というと、私が裁判官のように感じる方が多いかもしれませんが、
そういうことではありません。

先方が疑って、断るだけです。

一方、Bさんは、Aさんの半年後に来たけれども、
すぐに善知識に会いに行って、すぐに信決定したならば、
この狭い時間範囲の中でも「あとさき」があることになります。

ましてや、本来の意味における「あとさき」というのは、
永劫の流転を考えているのです。

338:神も仏も名無しさん
08/03/06 00:43:30 q141IIic
>>337
>「宿善の有無を見る」というと、私が裁判官のように感じる方が多いかもしれませんが、
>そういうことではありません。
>先方が疑って、断るだけです。

つまり断らなかったかたは、宿善開発しているとするわけですか。
実際のところ、宿善開発は自分も他人も、確かなところがわかるものではないし、
であれば、断らなかった方にも宿善開発していないひとがいたかもしれない。

その人に「法を伝え、その最後の導きが」なされたときでも、やはり百発百中、
信心決定させることができるとするのであれば、それは人が作り上げる信心ですよね。
URLリンク(www.nanzan-u.ac.jp)

このような、善知識の導きの元に一定の儀式をとりおこない、
それをもって他力信心いただけた、とみなすということでしょうか。
阿弥陀仏から信心いただいたつもりになった、自力信心だとおもいますが。

そうでなくても、お話を聞けば聞くほど、人の介在する余地が多すぎます。
ひとがこねあげた信心と、ますます疑わしくなります。

本来は、呼んでくださる阿弥陀仏と、それをすすめる善知識、よばれる自分の三人ですむはずなのです。

339:298
08/03/06 00:55:11 ztmHD2Ya
>>338
>であれば、断らなかった方にも宿善開発していないひとがいたかもしれない。

むしろ、「断った方にも、宿善開発していた人がいたかもしれない」ということでは
ありませんか。

というのも、正法を伝えるところは、一カ所では無いからです。

宿善あっても、その方が、どこで法をいただくかまでは、わかりません。

しかし、いずれにしても、開発された時点で、
どこかで、次第相承の善知識に会い、六字のいわれを聞き開くはずだと思います。


>その人に「法を伝え、その最後の導きが」なされたときでも、やはり百発百中、
>信心決定させることができるとするのであれば、それは人が作り上げる信心ですよね。

この論理が繰り返されていますが、なぜそうなるのかが、わかりません。
弥陀からいただく信心です。人が作り上げるようなものではありません。

繰り返しになりますが、

◎さればその信心をとるといふは、いかやうなるむつかしきことぞといふに、
なにのわづらひもなく、ただひとすぢに阿弥陀如来をふたごころなくたのみたてまつりて、
余へこころを散らさざらんひとは、たとへば十人あらば十人ながら、みなほとけになるべし。
このこころひとつをたもたんはやすきことなり。ただ声に出して念仏ばかりをとなふるひとは
おほやうなり、それは極楽には往生せず。この念仏のいはれをよくしりたる人こそ
ほとけにはなるべけれ(御文1-11)

このように、簡単なことなのであって、十人が十人であり、
「いわれをよく知る」ことが重要です。

340:298
08/03/06 00:57:38 ztmHD2Ya
>>338
>であれば、断らなかった方にも宿善開発していないひとがいたかもしれない。

そして、宿善開発していない方は、結局どこかで断ると思いますし、
どこかで、求められなくなると思います。

弥陀をたのめば信決定するのですから、信決定まで至れば、
宿善開発されたことは確実だと思います。

341:神も仏も名無しさん
08/03/06 01:02:39 q141IIic
>>298
>この論理が繰り返されていますが、なぜそうなるのかが、わかりません。
>弥陀からいただく信心です。人が作り上げるようなものではありません。

宿善開発ということがないのに、信心決定はありえませんよね。
断らなかった方で宿善開発していなかったかたがいたとする。
それにもかかわらず、「百発百中信心決定した、獲信した」というのであれば、
それはほんとうの信心決定ではなく、阿弥陀仏の真実信心を頂いていないということです。


どうしてこんなにややこしく奇妙な儀式になるのでしょうね。
なかなか信心決定できずに苦しんだ人が、ともかく自分の力でできそうな「方法」を
考え出してしまったのでしょうか。

信心決定とは、
ただ、阿弥陀仏の御本願ひとつ、腹底に聞き開かせていただくのみ。
必ずたすけるぞ、の阿弥陀仏のお勅命に、ハイと答えさせて頂くだけのこと。

そうして真実の親様の、暖かき懐に抱き取って頂いた後は、逃げるもかなわず
身に余る歓喜の中で、吸う息、吐く息、南無阿弥陀仏と生きさせて頂けるのです。


342:298
08/03/06 01:03:31 ztmHD2Ya
>>338
>そうでなくても、お話を聞けば聞くほど、人の介在する余地が多すぎます。

これは、どこを指しているのですか?

獲信者を探す→次第相承の善知識を紹介してもらう
→次第相承の善知識に会う
→六字のいわれを聞き開く
→弥陀をたのむ

あなた様が想定している本来の真宗と比べて、
どの部分に、「人の介在する余地が多い」のですか?

あなた様のまわりで獲信している方と比べて、
どの部分に、「人の介在する余地が多い」のでしょうか?

他所でも、これくらいは、人が介在するように思いますけれども。

それに、人が介在しては、いけないのですか?

どのような典拠があるのですか? 善知識が必要なことと、善知識が「ひと」であることには、
典拠があります。

343:298
08/03/06 01:09:53 ztmHD2Ya
>>341
>断らなかった方で宿善開発していなかったかたがいたとする。

法を聞くところまで進んで、宿善開発していないというのは、おかしいです。

行巻にも、

◎ただ清浄に戒を有てるもの、いまし還りてこの正法を聞く

◎宿世のとき仏を見たてまつれるもの、楽んで世尊の教を聴聞せん

とあります。

そして、

◎もし聞見せば精進して求めよ

とありますように、善知識あることを聞けば、あるいは、見るならば、求めねばならないのです。

344:298
08/03/06 01:11:13 ztmHD2Ya
>>341
>信心決定とは、ただ、阿弥陀仏の御本願ひとつ、腹底に聞き開かせていただくのみ。
>必ずたすけるぞ、の阿弥陀仏のお勅命に、ハイと答えさせて頂くだけのこと。

これは、あなた様も、あなた様のまわりの方も、
「ハイ」と答えて、獲信しているということでしょうか?

345:298
08/03/06 01:13:43 ztmHD2Ya
>>341
>信心決定とは、ただ、阿弥陀仏の御本願ひとつ、腹底に聞き開かせていただくのみ。

これは、とても大切な部分についてのことだと思いますが、
典拠はございますか? 特に、「腹底」の意味を知りたいです。

また、聞き開くのは、「いわれ」ではなくて、本願なのですか?

346:298
08/03/06 01:17:05 ztmHD2Ya
>>341
>吸う息、吐く息、南無阿弥陀仏と生きさせて頂けるのです

二河白道のたとえと、大分領解がずれてはいませんでしょうか?

347:298
08/03/06 01:19:41 ztmHD2Ya
>>341
>そうして真実の親様の、暖かき懐に抱き取って頂いた後は、逃げるもかなわず
>身に余る歓喜の中で、吸う息、吐く息、南無阿弥陀仏と生きさせて頂けるのです。

これでは、二河など無く、また、白道は大道のようですね。

この広々とした感じは、私には、無人空きょうの沢を連想させます。

そこから踏み出して、細い白道を歩み始めねばならぬと思います。

348:神も仏も名無しさん
08/03/06 01:21:11 q141IIic
>>342
原点に戻りましょうか。

「六字のいわれ」=「たのみ方」は、信心決定において全然、必要ではありません。
こちらの側の「たのみ方」はすべて自力。
自力による信心決定は不可能です。

それを聞かなければ、決して信心決定できないということはなく、
それを聞いたからと言って、必ず信心決定できると言うこともありません。

「たのみ方」が自力だからです。

349:298
08/03/06 01:26:51 ztmHD2Ya
>>348

(他力に至る)たのみ方であると、幾度も書いているわけですが・・・

あくまでも、他力によって信決定するのです。

ですけれども、そのようなものの存在は、認められないということですよね。

では、原点に戻るとして、348様のところでは、善知識から、何を聞くのですか?
なぜ、善知識が必要なのですか?

348様のところの獲信者の方は、
善知識から、何を教わっているのですか?

348様のところでは、たとえ真剣な方でも、
真剣な方が善知識の話を聞いても、
獲信できないということでしょうか?

私は、「百発百中」と書いています。348様のところでは、
どれくらいの確率なのですか?

350:298
08/03/06 01:31:16 ztmHD2Ya
>>348
>「六字のいわれ」=「たのみ方」は、信心決定において全然、必要ではありません。

「六字のいわれ」が「たのみ方」なのかはともかく、

◎されば南無阿弥陀仏の六字のいはれをよくこころえわけたるをもつて、
信心決定の体とす(御文3-7)

「体とす」なのですから、六字のいわれは必要ではありませんか?

351:神も仏も名無しさん
08/03/06 02:22:06 q141IIic
>>344
>これは、あなた様も、あなた様のまわりの方も、
>「ハイ」と答えて、獲信しているということでしょうか?

私の周りも何も、信心決定とは、阿弥陀仏のそのまま来いよのお呼び声に、
素直にハイと答えさせて頂くまでのこと。すべて、本願他力のおひとりばたらきです。

>>345
>典拠はございますか? 特に、「腹底」の意味を知りたいです。

仏法は身体で聞けと言われますが、上の心(頭)でなるほどと納得していても、
腹底には違う心がある。そこに仏法をよくよく聞かせなければなりません。

適切な典拠ではないかもしれませんが、ご参考に。

「一心にふたごころなく、弥陀一仏の悲願にすがりて、たすけましませと
おもふこころの一念の信まことなれば、」(御文章第一帖三通)

>>347
>これでは、二河など無く、また、白道は大道のようですね。
>この広々とした感じは、私には、無人空きょうの沢を連想させます。

大慈大悲の阿弥陀仏の光明のうちに、摂取不捨と抱きとられてみれば、

「しかれば大悲の願船に乗じて、光明の広海に浮びぬれば、至徳の風しずかに衆禍のなみ転ず。」

生死の大海の苦しみが、煩悩即菩提と苦が楽に転じてくだされる。
そして仏凡一体とならせて頂いた身は、もうけっして、一人と言うことはありません。


352:神も仏も名無しさん
08/03/06 02:34:51 q141IIic
>>349>>350
>(他力に至る)たのみ方であると、幾度も書いているわけですが・・・

ここでは「たのみ方」を問題にしています。
「他力にいたるにはどうすればいいか」を、あれこれするのは自力タノム心ですよね…
その自力タノム心でもって、他力に至ろうとするのは、これは無理です。
あくまでも阿弥陀仏のお力ひとつで、他力に至るのですから。

>では、原点に戻るとして、348様のところでは、善知識から、何を聞くのですか?
>なぜ、善知識が必要なのですか?

何度も書いてきましたが、正しい仏法を聞かせて頂きます。
善知識がいなければ、自分流に真宗聖典を読んでしまい、誤る事もありますから。

>348様のところでは、たとえ真剣な方でも、
>真剣な方が善知識の話を聞いても、
>獲信できないということでしょうか?

まことに宿善まかせ、とのお言葉の通りです。

信心決定されたかたは私の知っている範囲では、多くはおられません。
「往き易くして人なし」といわれたお言葉の通りです。
「なったつもり信心」獲得のかたが多くおられるよりは、よきことと思います。


353:298
08/03/06 02:57:16 ztmHD2Ya
>>352
>ここでは「たのみ方」を問題にしています。
>「他力にいたるにはどうすればいいか」を、あれこれするのは自力タノム心ですよね…
>その自力タノム心でもって、他力に至ろうとするのは、これは無理です。
>あくまでも阿弥陀仏のお力ひとつで、他力に至るのですから。

そうですか・・・

如来は、為物身でもあるわけですが・・・

◎云何なるをか実の如く修行せずして、名義と相応せずと為る、
謂く、如来は是れ実相身なり、是れ為物身なりと知らざればなり(論註)

354:298
08/03/06 03:05:50 ztmHD2Ya
>>352
>信心決定されたかたは私の知っている範囲では、多くはおられません。
>「往き易くして人なし」といわれたお言葉の通りです。
>「なったつもり信心」獲得のかたが多くおられるよりは、よきことと思います。

獲信者は、全体から見れば、ごくわずかです。

「ガンジス川の砂の中の一粒」のたとえのとおりです。

易行であり、すぐにでも獲信できるものですが、
信じる方がおりません。

正に、「往き易くして人なし」

受け入れる方が、めったにいないのです。

私のまわりにも、あまりいません。説得できる類いのものではないからです。

ひとりが信決定すれば、多くの仏菩薩が祝福すると言われます。

それ程価値があることです。

そして、インターネットにより、「希」な方を探せる可能性が高くなると私は思っています。

また、獲信者同士の交流も、これから、より容易になってゆくでしょう。

355:298
08/03/06 03:13:49 ztmHD2Ya
>>351
>仏法は身体で聞けと言われますが、上の心(頭)でなるほどと納得していても、
>腹底には違う心がある。そこに仏法をよくよく聞かせなければなりません。

これは、その通りであると思います。
そこに「仏法をよくよく聞かせ(る)」方法を、
善知識が教えてくれるかどうかの違いのようですね。

そして、351様は、「そのような方法など、そもそも無い」というお立場のようです。

では、称名正行については、どう解釈されるのですか?

◎しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、
よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。
正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。
南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。(行巻)

五念門とは、真実信心いただく行なのでは、無いのでしょうか?

五念門については、どう教えられていますか?

356:298
08/03/06 03:22:06 ztmHD2Ya
>>351
>信心決定とは、阿弥陀仏のそのまま来いよのお呼び声に、素直にハイと答えさせて頂くまでのこと

信心決定については、たくさんの御文がありますのに、
この言い方を用いられることには、何か意図があるのですか?

また、351様の「受け入れる/受け入れない」と、私の「受け入れる/受け入れない」は、
少し意味が異なるようですね。

私が言う、「受け入れる/受け入れない」とは、
「受け入れる」方には、さらに次の話があり、さらに次の話があり、
とお話が続いて行き、求める方、すなわち、「わかりました。御願いします」と、
次々求めてゆかれる方は、易行道にて、獲信にまで至るわけです。

351様の場合には、お話にうなずいている方でも、
「受け入れる/受け入れない」があるようですね。

つまり、上の心でうなずくだけでは、先に進めないということですね。

私が言っているのは、「上の心でうなずく」方は、先に進んで次の話を聞くことができ、
そして、「腹底の心」(ここでは、根源無明の意味とします)に仏法を聞かせる方法を
教わることができるということです。

そして、その通りにするならば、「誰でも」腹底の心に仏法を聞かせることが
できると主張しています。

そして、「その通りにする」ことも、誰でもできると主張しています。
それは、難行ではなく、易行だからです。

351様の考えでは、上の心では「受け入れている」つもりの方も、
そこでとどまってしまうことになってしまいませんか?

357:298
08/03/06 03:55:54 ztmHD2Ya
こんな自分に用はない
こんな自分は投げ捨てて
如来の信に飛び乗って
自分は捨てて往生す
自分のことが他人事
如来の視線が南无阿彌陀佛

358:298
08/03/06 04:34:19 ztmHD2Ya
>>318
>仏法を正しく教えて下さる善知識にお会いして、聴聞させて頂き、
>御本願のとおりに阿弥陀仏をたのむすがたとなったとき、信心決定するのです。

これについても、全く異論はないのです・・・

やはり、「御本願のとおりに阿弥陀仏をたのむすがたとな(る)」には、どうしたら良いのか、
そこを教えてくださるかどうかが、違いのような気がします。

359:298
08/03/06 05:00:12 ztmHD2Ya
>>263
>自分が称えるお念仏で助かろうと思う自力の心では、
>とうてい助からないのだと教えてくださるのが、本当の善知識です。

これも、異論がないんですよね・・・

「自分が称えるお念仏で助かろうと思う自力の心では、とうてい助からない」で
とどまるのか、では、実際にどうすれば良いのかを教えてくださるのかが、
やはり違いのようですね。

ですけれども、一般向けの法話では、正雑二行の沙汰はなされないのですから、
263様が、「では、どうすれば良いのですか?」と尋ねていないだけかも
しれないですね。

「不審は尋ねるように」と、蓮師もおすすめです。

◎また同座をもしてあらば、不審なることをも問へかし、
信をよくとれかしとねがふばかりなりと仰せられ候ふなり(聞書40)

蓮師は、高台からではなく、このように同座をしてくださいます。
善知識のあるべきすがたを、お示しだと思います。

どうか、263様も、ご縁のある善知識に、遠慮なく、ご質問されたら、良いと思います。

善知識様は、それをお待ちでいらっしゃると思います。

360:けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU
08/03/06 08:25:46 2ACfQi46
298さん、妙好人って、そんなに理屈っぽくない気がします。
お聖教から切り張りしたような
型にはまった説明じゃなく、
直感的な298さんのお言葉を聞かせて欲しいです。

361:298
08/03/06 08:51:47 ztmHD2Ya
>>360
直感的なことも、いろいろ書いてますよ。

(形式としては、主に短い詩のような感じで。)

すごく、簡単に言えば、この世のことは、どうでもいい。

どうでもいいけど、煩悩があって、それはやっぱり普通の欲です。

ですけれども、「どうでもいい」が基盤にあるから、
ぐっと楽になりました。

だから、普通の欲が、普通でない。信心が染み込んでいる欲なのかなと思ったりします。

欲が重たくない。あっさりしてきた感じがします。

362:298
08/03/06 08:54:28 ztmHD2Ya
それと、これはよく言われることですが、
次第に世界がはっきりして、明るくなってきました。

私の場合は、信をいただいて、半年以上たってからのことです。

心の苦しみは、明らかに軽くなりました。

これは、獲信して、一気に軽くなり、それからは、徐々に軽くなってきています。

地獄に行く気がしなくなりました。

363:298
08/03/06 08:57:07 ztmHD2Ya
あとは、全体的に、楽しい気分になってきたことですね。

いろいろと、現世的なことも、前よりこだわりがない分、
楽に処理できているような気がします。

よく、なんでもかんでもなむあみだぶつ、のようなことを聞くのですが、
たしかにそんな感じです。

口に出すお念仏は、信前よりも、親しみ感じて言うようになりました。

ですけれども、こういうのは、あくまでも個人的な経験で、
人によって、違うのだろうと思います。

ある程度、似た傾向はあると思いますけれども。

364:298
08/03/06 09:01:01 ztmHD2Ya
信をもらうのは、「娑婆の葬式」と聞いてましたから、
「あー、死ぬんだな、死んでもいいや、もうこんなのは」と思ってました。

「こんなのは」というのは、自分のことです。

捨てたくても捨てられない自分でしたから、もうどうなってもいい、
捨てれるものなら捨てたい、と思ってました。

365:298
08/03/06 09:04:12 ztmHD2Ya
そして、これも定番だと思いますが、私の場合も涙が出てきました。

心のどこがよろこんでいるのか、わからないんですけれども、
うれしく、ありがたく、心のどこかがよろこんで、涙が出て来る。

信をいただいた後でも、心のどこかがよろこんでいる感じがあって、
これが、うれしさやたのしさのもとになっていると思います。

「根源無明」という言い方を、事前に聞いていたせいかもわかりませんが、
心の大きなトゲ抜きをしたような感じです。

366:神も仏も名無しさん
08/03/06 09:39:53 q141IIic
298さん、下の心こそ、自力で法をきかせようとしても、到底きいてくれるものではありません。
他力になるには、他力によるしかないのです。

「このようにすれば下の心に聞かせられる。このようにすれば他力になれる」
そのこころが自力です。自力でなろうとしても、他力になれるものではありません。
すべて、阿弥陀仏のおひとりばたらきなのです。

自力のこころが腹底にいすわるうちは、法を聞いても他人様のこと、
わたしのことではよもやあるまいと思っているから、
御本願が、親様の命がけのお呼び声が、届きません。

それが届いてくださったとき、ああ、
御本願に間違いなかった、おちる私に間違いなかった、
その私を助けてくだされる阿弥陀様に間違いなかった、と
知らせて頂き、有難さと申し訳なさと、
真実の親様に遇えた嬉しさに、ただただお念仏称えさせて頂く身になるのです。

すべて、阿弥陀仏の命がけの御本願、光明のおひとりばたらきです。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

367:神も仏も名無しさん
08/03/06 10:03:24 xKFQ8ZeP
全国に数名いる法然から伝えられたという次第相承の善知識は、三宝帰依をした僧侶では無い。
しかも、どこの誰かも秘密にされる善知識から直接教えを受けない限り、信心を得ることは、不可能だという。

いい悪いを抜きにして、これはもう普遍宗教、仏教ではなく、民間信仰の類であろう。


368:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
08/03/06 11:51:25 fZbqgYrf
>213
>阿弥陀仏をたのむ一念で救いとってくださいます。たのむ一念、とはどういう一念なんでしょう?

 他力というは、弥陀をたのむ一念のおこるとき、やがて御たすけにあずかるなり。
他力というのは、阿弥陀仏を頼む一念が起きるとき、やがて御たすけが受けられてくる。

「頼む」(広辞苑)
(1) 手を合せて祈る意からか。自分を相手にゆだねて願う意。力を貸してもらえるよう、相
手にすがる。
(2) あてにする。それを力とする。
(3) ゆだねる
(4) 信用する。
(5) その人を主人として一身を託する。
(6) 武士などが、他家を訪れて案内を請う言葉。たのもう。
(7) 懇願する。

 頼むとはどういう意味か。ここに混乱があるようだ。頼むには、「信用する」「主人として一
身を託す」「他家で案内を請う<たのもう!>」「懇願する」という意味がある。蓮如の言う
「頼む」がこれらの意味でないことは文意から明らかだろう。争いはないと考える。
 「相手にすがる」という意味と「力とする」という意味が残る。両者は内容が違う。はき違え
てはいけない。

 頼るという場合、「-に頼る」という表現と、「-を頼る」という表現とがある。蓮如の御文
の中に、「阿弥陀仏に頼る」という言い方は一箇所もないはずだ。全て「阿弥陀仏を頼む」とい
う言い方をしている。相手にすがるという意味であれば、「阿弥陀仏に頼る」という言い方にな
る。「神にすがる」「神に頼る」という言い方になる。「神にすがる」という意味の場合、「神
を頼る」という言い方をしない。では、「阿弥陀仏を頼む」とはどういう意味か。これは、「阿
弥陀仏を力とする」という意味だ。ゆだねるには、(1)に近い場合と(2)に近い場合とがあ
ると考える。

369:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
08/03/06 11:53:55 fZbqgYrf
 「阿弥陀仏を力とする」とはどういう意味か。考えよう。大工さんに頼んだと言えば、大工さ
んに仕事を丸投げしたということになるだろう。家の新築工事のすべて委ねるとき、「家の建築
を大工さんに頼んだという」言い方をする。確かに、「大工さんを頼んだと」いう言い方もある。
この場合には、家の新築に当たり、たとえば自分(依頼人)は「電話をした」、「呼んできた」
というような意味がある。
 「家の建築を大工さんに頼んだ」と言えば、大工さんは、電気配線工事、排水工事などについ
て大工さん以外の請負業者に裁量で仕事を下請けさせることができる。つまり大工さんは全権委
任を受けている。
 一方、「大工さんを頼んだ」といえば、大工さんは、大工さん以外の請負業者に電気配線工事、
排水工事などを勝手に依頼できない。大工さんには全権委任がない。「大工さんを頼んだと」い
う場合には、依頼主にも主体的な行動がある。あくまでこれは部分委任である。行動の一次的な
主体は依頼主にある。依頼主はそのとき眠っているなり何もしないでぼーとしているという意味
ではない。

 阿弥陀仏を頼むとはどういう意味か。全権委任か、部分委任か。果たして丸投げという意味だ
ろうか?。阿弥陀仏を頼むとは「すがる」という意味ではない。むしろ「(部分的に)あてにす
る」、「(部分的に)力にする」という意味で考えるべきである。「あてにする」、「力にす
る」とはどういう意味か。水先案内という言葉が一番近いと考える。

 外国船が東京湾に接近すると、湾外で外国船は水先区水先人会に無線連絡をする。水先人は、
入湾する船にパイロットボートで急行し、そこに乗り込む。船長から船の性能など操船に必要な
情報を入手し、船長に対しては港や水域の状況及び航行計画について説明し、航路を決定する。
水先人はあくまで操船上のアドバイザーであり、操船上の最終責任は船長が負う。船長は、水先
人の技能を力にし、水先人の技能をあてにしてそのアドバイスを受け、操船する。水先人に操船
を丸投げするという概念はない。岩礁に乗り上げ、あるいは他船と衝突して沈没すれば、最終責
任は水先人ではなく船長が持つ。これが「水先人を頼む」という意味である。



370:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
08/03/06 11:55:51 fZbqgYrf
 建築中で大工さんが毎日出入りしてる現場で夜、火事が起きれば、それは大工さんの責任であ
る。建築主は、大工さんに金銭支払い義務を負うが、それ意外は火気管理、盗難管理も含めてす
べて大工さんに委ねる。「大工さんに頼む」という意味との大きな違いである。

 二河白道で、東の岸では「決定してこの道を尋ねて行け」という声がある。西の岸では、「汝
一心に正念にして直ちに来れ」という声がある。釈迦と阿弥陀は何をしているのか。釈迦と阿弥
陀は担架に乗せて行者を搬送するというのか。そうではない。水先案内をしているのだ。行者に
は水先案内に従うか従わないかという選択権がある。水先案内を選択する上では、選択上の責任
は行者本人にある。その道を西に進んでいってその結果で酷い目にあっても、その責任は、釈迦
や阿弥陀の技能をあてにした行者に、自己責任として被ってくる。そういう状況背景の下で、行
者は水先案内を釈迦と阿弥陀に委ね、その水先技能をあてにして西に向かったのだ。行者にはこ
のとき、釈迦と阿弥陀の水先技能があてにできるという判断があり、水先案内をあてにしようと
いう決意があり、選択があり、前進歩行という実行行為がある。判断・決意・前進歩行する行者
は自力の行者だろうか、他力の行者だろうか。他力はどこにあるのか。他力は、判断と意思決定
過程の中に、知恵として内在している。東京湾で、水路はこの道を進もうという判断の決定過程
に、水先人の知恵、技能が生きて内在している。

 阿弥陀を頼むとは、阿弥陀の水先技能をあてにすると言う意味だ。阿弥陀はどのように水先案
内をしているのか。それが二十願だ。

 設い我仏を得たらんに、十方の衆生、我が名号を聞きて、念を我が国に係けて、もろもろの善
本を植えて、心を至し回向して、我が国に生まれんと欲わん。果遂せずは正覚を取らじ、と。

371:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
08/03/06 12:06:43 fZbqgYrf
 二十願の場合の我が国に生まれんと欲わんの我が国はどこか。大会衆門(正定聚)であるか、
宅門以降(大涅槃)であるか。

定散自力の称名は 果遂の誓いに帰してこそ 教えざれども自然に真如の門に転入する

 これは大会衆門(正定聚<真如の門>)というのが宗祖の判断である。つまり、必ずや至心・
信楽・欲生心を起こさせるだろうと言っていると解すべきだ。念を我が国にかけつまり一心不乱
(阿弥陀経)に、もろもろの善本を植えるつまり念仏を称えれば、必ずや至心・信楽・欲生心を
起こさせる、果遂せずはつまり多少時間がかかってももしそれで結果が出なかったら、水先案内
が失敗だったら、自分は大乗仏教が言う仏つまり真の教育者になったことにならない。阿弥陀仏
は、教育者としてつまり大乗の仏として行者に道を示している。水先案内をしている。水先案内
の内容は、一心不乱に念仏を称えよということである。
 阿弥陀仏は、二十願で信前の不定聚に、念仏を称えよと示している。この水先人の言葉にをあ
てにし、阿弥陀仏の技能を力に自らが念仏を称えていくと言うこと、これが阿弥陀を頼むという
意味である。そのように認識すべきであろう。

 「一念」についてはなお、続く。

372:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
08/03/06 12:54:07 fZbqgYrf
>370
誤 「大工さんに頼む」という意味との大きな違いである。
正 「大工さんを頼む」という意味との大きな違いである。

誤 水先人の知恵、技能が生きて内在している。
正 水先人の知恵、技能が生きて内在している。その裏には相互
の信頼関係つまり、「信」が生きているのだ。互いの信頼がなけれ
ば水先案内はできない。

373:神も仏も名無しさん
08/03/06 13:12:11 qpyxfWqV
>361
嘘だー。臨終の夕べまで怒り嫉み腹立つ心は絶えないよ。
絶えないから、弥陀が常に摂めとり護って下さるんだよ。
欲が出なくなった、この世の事がどうでもよくなったも、凡夫の欲。
業縁もよおせば、コロコロ変わっていく。
業縁もよおせば、ひょこっと不安が顔を出す。
変わらないのはお悟り成就の上のお言葉だね。
阿弥陀さまのかならずたすけるのお言葉が真なんだよ。
自分の心得を相手にして、うなづいているのは、
凡夫が自分のまわりに防御壁を囲って、
自分に都合のよい事だけを壁の内側に集めて、
いつも、私は信心得たから大丈夫って自分に言い聞かせてるだけ。
そして、壁を強固にする事が金剛心だと思ってる。
これも一種の疑城胎宮かもね。

374:神も仏も名無しさん
08/03/06 13:32:14 oQ/8OGSO
信心決定したからといって、三毒煩悩は絶えないでしょうね。
でも、心の落ち着きを得た人も、当然いるはずだし。
凡夫は凡夫のままですが、法を深く味わいながら生きていけるなら言うことは
ないじゃないですか。そんでもって目が閉じればたちまちにして往生安楽国。
これに過ぎたる幸せはないです。
それに、疑城胎宮っていうけど、自力の念仏でここに行くのだってとっても難しいと思いますよ。
それにひきかえ、他力でいく極楽のなんとやさしいことか。
信じることはとびきり難しいのかもしれないけど。

375:298
08/03/06 14:42:31 ztmHD2Ya
>>373
>阿弥陀さまのかならずたすけるのお言葉が真なんだよ。

「かならず」とのことですが、

>自分の心得を相手にして、うなづいているのは、
>凡夫が自分のまわりに防御壁を囲って、
>自分に都合のよい事だけを壁の内側に集めて、
>いつも、私は信心得たから大丈夫って自分に言い聞かせてるだけ。

こういう人は、助けないということなのでしょうか。
よくわかりません・・・

376:298
08/03/06 14:52:29 ztmHD2Ya
>>366
他力をいただくその前までは、自力であること、もちろんのことです。
どのような方法で他力をいただくにせよ、その直前までは、
自力があるはずです。

>自力でなろうとしても、他力になれるものではありません。

これは、第二十願の化益が難しいことをおっしゃっているのでしょうか?

第十八願は、あくまでも易行です。それは、所行であるからです。
能行は第十七願です。

他力のいただき方があるからこその、愚鈍往き易き捷径です。

たとえ一代の教をよくよく学すとも、自らを愚鈍の身になせる方は、
法をいただき、如実に修行することができることでしょう。

ここでも、注意しなければならないのは、「鋭利往き易き捷径」では無いことです。

如実修行相応の称名により、信をいただけるはずです。

377:ニュー大谷
08/03/06 15:40:00 ZYrwAs48
自力だなんだと言って、結局は
念仏を称えていないひとの言い訳でしょう。



378:298
08/03/06 18:05:15 ztmHD2Ya
>>366
◎謹んで往相回向を案ずるに、大行あり、大信あり。
大行というは、すなわち無碍光如来の名を称するなり。
この行は、すなわちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。
極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。故に大行と名づく(行巻)

とあるのですから、行はあるのではないでしょうか。
しかも、極速円満する行です。

極速であり、しかも、それによって、足りています。

南无阿彌陀佛

379:298
08/03/06 18:15:23 ztmHD2Ya
◎若し人、無量生死の罪濁ありと雖も、
彼の阿弥陀如来至極無生清浄宝珠名号を聞きて、
これを濁心に投ぐれば、念念の中に罪滅し、心浄くして即ち往生を得(論註)

なんと尊い名号かと思います。

380:神も仏も名無しさん
08/03/06 18:18:40 qpyxfWqV
>374
心の安定を得たって、真宗だったら他力じゃなきゃ意味ないんじゃない?
どんな宗教だって心の安定安心を得ている人はいるだろうし、
それをもって、真宗だとは言えないよね。
真宗は弥陀にまかせまいらせるのであって、
自分の安心にまかせるんじゃないね。心が落ち着きました、
もういつ死んでもいいですなんて、造りと造る悪業煩悩を棚に上げて、
信心決定したと確信してる自分に酔ってる状態で良しとしてしまってるんじゃないかな。
自分の殻を造って、過去の体験にお籠もりするんだから、
疑城胎宮と言えるんじゃない?自力信で弥陀をはからっているのは、
称名を多功徳多善根と信じてそれを積み上げて、
それと引き替えに浄土に参ろうと、はからっている事と、
若不生者の誓いをはからっている点では同じ事だからね。
自分はどこまでも常没流転の凡夫ならば、
この世のことなんてどうでもいいなんて、
なま悟りの様な、そんな偉そうなこと言えないよ。
何思っても、何言っても、何一つあてにならない、
そんな不定不浄の我執の心を述べるより、
弥陀はかならず救います。我が心あてにせず、弥陀のお心を
常によりどころにして生きていこーよ、いつ死ぬかわかんないけど、
悪業煩悩毎日造って地獄しか逝く所ないだろうけど、
皆、阿弥陀さまが引き受けて下さるって仰ってる。我が身まかせず、
弥陀におまかせしましょう、南無阿弥陀仏と言う具合に、
お勧めすべきなんじゃないかなー。

381:298
08/03/06 18:25:03 ztmHD2Ya
>>380
まあ、いろいろな解釈があっても、いいのではないでしょうか。
私は、弥陀をたのんだと思って、満足してますし、
尋ねてきた方も、弥陀をたのんだと思ってくだされば、
うれしいのです。
現状、真宗にも、いろいろあるということですね。
満足しているのが、よっぽど気に入らないようです。
それも、また、不思議なことです。
如来に生かされるよろこび。
南无阿彌陀佛

382:298
08/03/06 18:26:29 ztmHD2Ya
>>367
きっと私は民間信仰なのでしょう。
私は、この民間信仰を、気に入っているのです。
南无阿彌陀佛

383:298
08/03/06 18:29:53 ztmHD2Ya
疑い深い私のはずなのに、どうしてこの教えは、信じる事ができたのか。
とても不思議です。はじめから、ホントと思い、そのままでした。

384:298
08/03/06 18:32:25 ztmHD2Ya
未安心のときも、御文様を読んでいましたが、私は、信後の方が読みました。
信心いただいた気はするけど、ホントにいいのか? と確認するために、
お聖教様にお相手していただいて、鏡になっていただきました。
時代順にさかのぼって読み、パーリ仏典の現代語訳まで読んで、
自分なりに納得しました。ひとりひとり、道は違うのだと思います。
南无阿彌陀佛

385:298
08/03/06 18:35:25 ztmHD2Ya
この教えがすごいのは、信をいただいても凡夫、
善知識様も凡夫だということです。
ですから、あんまり期待して獲信者や善知識様に会いにゆくと、
失望もするんじゃないかと思います。
獲信しても、あまり変わらない。
内輪でよろこんでいるだけに、見えるんでしょうね。
まさに、お遊びです。そんなお遊びが、私は好きなんですね。
南无阿彌陀佛

386:298
08/03/06 18:40:10 ztmHD2Ya
易行で極速。忙しい現代人に、ピッタリですね。
南无阿彌陀佛

387:298
08/03/06 18:42:55 ztmHD2Ya
それにしても、どうして南无阿彌陀佛で救われるのか。
本当に、ワケがわかりません。あっと言う間、凡夫の心が早変わり。
変わって称える南無阿弥陀仏。凡夫のままの南无阿彌陀佛。

388:笑いのマートル
08/03/06 18:42:56 MY5263zl
南無阿弥陀仏の称名も阿弥陀仏にさせて貰うから他力なんだけれど、
この意味が判る人はまず居ないでしょうね。
298さんは、判りますか?

389:298
08/03/06 18:43:53 ztmHD2Ya
>>388
わかってるつもりなんですが、「わかってない」と言われつづけている感じです。
わかってないのかもしれません。

390:298
08/03/06 18:50:19 ztmHD2Ya
わかってるつもりで、わかってないのかもしれなくて、
でも、いろいろ読んでいると、「この方には教わりたいなあ」「この方は、ちょっと・・・」のように
自分に判断が出てきます。「さすがにそれは・・・」と思うことが多いですが、
自分が間違っているかもしれません。だから今でもこうして、
信心の沙汰をつづけています。

391:298
08/03/06 18:57:04 ztmHD2Ya
なぜ、わかっているつもりなのかもしれないかというと、
ことばには、いろいろな解釈が可能だからです。
ですから、「文字どおりに読め」というアドバイスが、とても大切だと思います。
それでも、ことばには限界があり、「どこまで文字どおりなのか」という判断が、
なかなかできないと思います。
同じことばを読んでいても、ならっている解釈で、別の意味になってしまいます。
私としては、なるべく文字どおりに納得できる解釈を採りたいと思っています。
ですから、今の自分が考えている解釈よりも、さらに文字どおりと思える解釈があれば、
「ああ、なるほど」と思うと思います。
南无阿彌陀佛

392:神も仏も名無しさん
08/03/06 19:00:34 lGWCw9zM
>380
>皆、阿弥陀さまが引き受けて下さるって仰ってる。我が身まかせず、
>弥陀におまかせしましょう、南無阿弥陀仏

見事な自力での解釈ですな。
弥陀におまかせできない人が、おまかせさせていただける法なんですが・・・意味が分からない人はどうぞ獲信を求めてください。
獲信したら「なーるほど、そういうことね」って分かるようになりますから。


393:298
08/03/06 19:02:03 ztmHD2Ya
>>380
仮に他力信をいただいていないとして、それでも、すごく楽になっているので、
自分としては、進展している感触があります。
そして、こうしてあれこれやり取りさせていただいて、
お聖教にふれあってゆけるのは、ひとりで読むより、ありがたいこと。
批判されるにも理由があるはずだから、よくスレを読み返して、
考えています。
もし、間違っていたとしても、こうしてコミュニケーションしているほうが、
本物に出会いやすいような気もします。それも結局、ひとりのしのぎ。
いろいろな意見を読めることは、たのしいし、感謝しています。

394:298
08/03/06 19:05:05 ztmHD2Ya
>>392
>弥陀におまかせできない人が、おまかせさせていただける法なんですが・・・
>意味が分からない人はどうぞ獲信を求めてください。
>獲信したら「なーるほど、そういうことね」って分かるようになりますから。

これは、「南無阿弥陀仏の称名も阿弥陀仏にさせて貰うから他力」(>>388)よりも、
よくわかる気がします。

392様は、同じようにわかりますか?

私の場合は、「なるほど度」に差がある感じがします。(392と388を読んだときの
自分の気持ちを見た場合。)

395:298
08/03/06 19:11:59 ztmHD2Ya
とりあえず、一枚起請文と領解文については、おそらく一文字残らず
うなずけていると思います。
まだ、この掲示板はそこまでの段階に進んでいないと思いますが、
いずれ、掟を守りながらも、信心の沙汰ができる場所になっていったら、
おもしろいことです。

396:298
08/03/06 19:26:33 ztmHD2Ya
「阿弥陀仏が法である」ということは、よくよくわかるのですが・・・

397:神も仏も名無しさん
08/03/06 21:36:59 q141IIic
夢の世に 称えるまこと 南無阿弥陀仏 大慈大悲の 親あればこそ

「たのみ方」を教わっても、たのめはしません。
寝ている人が、夢の中で、こうやれば起きるぞ、とおそわっても、
例えば自分をひっぱたいて起きたつもりになっても、寝たままです。
夢から覚めて、ほかの夢に入るばかり。
起こして下されるのは、阿弥陀仏のお呼び声のみです。

よそ見せず、寄り道せず、自力の安心に腰掛けず、ただひたすらに、
一向専念無量寿仏。
ほかには、何も要りません。

何事も、宿善まかせ、ですけれど…
それにしても、仏様の慈悲は、誰より重い荷をもつ私に、誰より深くかかってくださる。
大慈大悲の阿弥陀仏の光明のうちに、照らされ守られ通しとは、
なんという幸せ者かと、喜ばずにいられません。

(利井鮮妙)
  「南無阿弥陀仏のすがたとは、お慈悲のこころということじゃ。
  もっとわかりやすくいえば、親心というものじゃ。
  親というものは、わが子がどんなに愚かなものであっても、よう見捨てぬものじゃが、
  大悲の親さまは、私どものような煩悩ばかりをおこしている浅ましい凡夫を、
  どうしてもみすてることはできぬ、ほかの仏さまや菩薩さまが、
  見放してしまわれたこの私を、どうかして救うてやらねばならぬとねがいたち、
  『われたすけずんば、またいづれの仏のたすけたまはんぞとおぼしめして』
  私をたすける親さまとなってくだされた。
  それが南無阿弥陀仏さまじゃで、きっとおたすけくださることは、さらさら
  疑いのないことである。何がまちがっても、こればかりは決してまちがわぬ。
  このようにこころえることを『南無阿弥陀仏のすがたをこころうる』といわれたのじゃ。」


398:神も仏も名無しさん
08/03/06 22:51:02 l59mK9LA
>>397
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

399:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
08/03/06 23:58:15 fZbqgYrf
>371
頼む一念

 他力というは、弥陀をたのむ一念のおこるとき、やがて御たすけにあずかるなり。そののち念
仏ともうすは、御たすけありたるありがたさありがたさと、おもうこころをよろこびて、南無阿
弥陀仏に自力をくわえざるこころなり。されば、他力とは、他の力というこころなり。

 東京湾を航行するには、船長は水先人との信頼関係が重要になる。水先人とケンカするようで
は東京湾を航行できない。外国船の船長は、見知らぬ日本に仮に初めて訪問し、初めて出会った
ような水先人ともケンカしてはならない。水先人と船長との間で最も重要なものは、互いの信頼
関係だ。たのむ一念の一念とは、念仏を称えよと水先案内してくれる水先人とのこうした信頼関
係だろう。

 水先人と船長との間の信頼関係は、一念で成立させたいものだ。この場合の一念は、時克の極
速を表す。つまり、信頼関係は一瞬で結ぶ。信頼関係が一念で生まれれば、それで十分だろうか。
「水先人さん。信頼関係ができましてので、どうぞ安心してお帰り下さい」などと、こんな馬鹿
な話はない。水先人とは一念で信が生まれれば、その後乗船を続けて仕事をして貰う。本番は信
頼後である。一念とは、づっと続く不二の継続の信頼関係である。

 船長が水先人を信頼すれば、水先人も船長を信頼する。その中で信頼関係が持続する。水先人の
技能は操船する船長の頭脳の一部に滑り込む。
 水先人の技能は、操船する船長の技能の本質的一部となり、やがて安全操船を実現する。念仏
者が阿弥陀仏との信頼関係を構築すると、阿弥陀仏の知恵と慈悲は、念仏者が称える念仏そのも
のとなって念仏者に作用する。これを、自力をくわえざる他の力と言う。

400:298
08/03/07 01:37:45 JlTik73c
>>397
よろこべてるなら、しあわせなことですね。
私たちを助けてくれるお姿が、南无阿彌陀佛であって、
そのような姿になってくれたおかげで、
我らも弥陀をたのめることが、うれしいことです。
南无阿彌陀佛

401:298
08/03/07 01:41:29 JlTik73c
>>397
>「たのみ方」を教わっても、たのめはしません。

五念門は、むなしいことなんでしょうか・・・
法然聖人からの一流では、無いんでしょうね。
お念仏にも、いろいろあるんだと思います。

402:298
08/03/07 02:19:30 JlTik73c
◎弥陀仏の本願念仏は、邪見・?慢の悪衆生、
信楽受持することはなはだもつて難し。難のなかの難これに過ぎたるはなし

「邪見・?慢」にとっては、本当に難しいのですから、
「たとひ一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、
尼入道の無智のともがらにおなじくして、智者のふるまひをせずして」が
大切なのだと思います。


◎難行の陸路、苦しきことを顕示して、易行の水道、楽しきことを信楽せしむ

易行の水道なのですから、本当にラクなものです。


◎弥陀仏の本願を憶念すれば、自然に即の時、必定に入る

「自然に」で他力がはたらくと、私は考えます。
「憶念弥陀仏本願」は、「自然に」の前だと思います。

南无阿彌陀佛

403:298
08/03/07 02:46:43 JlTik73c
>>380, 397
このおふた方は、選択を押し進め過ぎて、正行までも捨てられてしまったような気がします。
正雑も、専雑もありますけれども、正も専もあるのであって、
廃立というのは、廃だけではなくて、立もあるのだと思います。
五念門が「弥陀のたのみ方」でないなら、
五念門とは、一体何なのでしょうか?
何のために、正雑を考え、選択があるのでしょうか。
選び取られた行を行えば、獲信するのではないのですか。


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