08/01/22 05:37:57 1DWqDHkI
>>72
他力の救いというのは、自己暗示、もしくは、自己催眠ではないのだと思います。
では、人間を超えた霊的神的存在の働きかけによるものであるかと言えば、
そうも言えると思います。
ただ、「人間を超えた霊的神的存在の働きかけ」の意味するものは、
自力の心が想像するものでしょうから、結局他力とは異なってしまうと思います。
信前の機は問われませんので、どう考えていても良いのですが、
もともと、不可説不可称であり、わからないものなのですから、
「人間を超えた霊的神的存在の働きかけによる」のような捉え方を
している方のほうが、信を獲り易いような気もします。
教義的な話しを求められているかはわかりませんが、このようなところから、
二諦がかかわってくるのであって、真諦は凡夫には認識できませんので、
俗諦が必要になり、南无阿彌陀佛とは、弥陀の無上方便であると思います。
◎維摩経にのたまはく、「諸仏の国とおよび衆生とは、空なりと観ずといへども、
しかもつねに浄土を修して、もろもろの群生を教化す」と(安楽集)
79:神も仏も名無しさん
08/01/22 09:49:56 PeyBTitB
南無阿弥陀仏の救いは自己暗示では無い。
疑っても非難しても良いのだから。
80:神も仏も名無しさん
08/01/22 11:04:30 cpJtkTCP
>>78
安心しました。
どうも、最近の真宗のお坊さんは、文献学者の近代合理的解釈による仏教無霊魂説や、マルクス唯物論の影響で、
形而上や霊的世界、死後の世界を否定していらっしゃるようなので。
81:298
08/01/22 13:08:44 MatYAWBg
>>80
もはや道俗というのは、ほとんどの場合において、仏法から見たときに、
本質的な区分になっていないと思います。
そのような末法においても、すべての機を救えるのが南无阿彌陀佛ですし、
三宝帰依もできない凡夫に、三宝帰依の気持ちを廻向してくださるのも、
南无阿彌陀佛なのです。
無上方便というのは、真実であり、あくまでも仏法です。
82:298
08/01/22 14:54:40 MatYAWBg
>>65
たとえば、「正法を述ぶる善知識にむつぶ」と書いてあるとします。
ここに何が書いてあるか、書いていないか、というのは、
「正法」「述ぶる」「善知識」「むつぶ」の解釈によって異なると思います。
しかし、あなた様は、「私は、解釈無くしてお聖教を読むことができる」というお立場
ですので、そもそも、その部分から、私と違います。
解釈無くして読めるなら、智慧の眼によって、直接認識するということでしょう?
つまり、意によって法を認識すると。
そのような方が、いないとは思いませんが、それであれば、
あなた様は私の言うところもわかり、私に対して、対機で真理を説けるでしょう。
私からすれば、「解釈無くして読める」というのは、はなはだ仏教的でありません。
ですから、仏教をどう捉えているかも、かなり異なると思われます。
83:298
08/01/22 15:08:35 MatYAWBg
>>62
「ここに書いてありますよ」とこちらが言っても、「そこにはどこにも書いてありません」と
あなた様は、おっしゃるわけでしょう?
しかも、それでわかろうとしているようには見えないわけです。
あなた様は、不勉強だから私に質問しているとのことです。
そのようなことばも、むなしく響くのです。
たぶん、あなた様は、不勉強だから私に質問しているのではなく、
「知っている」と思って質問しているのではありませんか。
それでも「不勉強だから質問します」と、嘘を書いているのではありませんか。
あなた様のような方は、不勉強であるなら、まず勉強して下さい。
そもそも、不勉強なのに、「厳密に読める」など、あまりにも傲慢ではありませんか?
そのように、自らの思いを隠しながら、会話されているように見えるのです。
悪しき意図を持つのは凡夫の常ですが、宿善は要求されます。
疑いがあるのも凡夫の常ですが、宿善は要求されるのです。
私が間違っていて、論ずるに値しないと思われるなら、
あなた様から見て、素晴らしいと思われる方を見つけるなりして、
その方についてゆけば良いのではありませんか。
84:298
08/01/22 15:16:58 MatYAWBg
>>15
あなた様ご自身を離れた救いや、開悟に、意味がありますか。
それこそ、戯論ではないでしょうか?
自分事ではなく、他人事である仏法など、あるとは思えません。
この部分も、大分立場が異なると思います。
私からすれば、あなた様にとっては、あなた様が獲信することこそが大切なのです。
私は、私のことについては、もう解決しているのです。
獲信しなければ、地獄に堕ちてしまいます。
真宗に縁がありながら、教義を学びながら、法話を聴きながら、
弥陀をありがたがりながら、堕ちて行く。誠にむなしいことです。
これを、「聞いて堕ちるか、聞かずに堕ちるかの差」と申します。
もちろん、聞いて堕ちれば、宿善になるでしょう。
弥陀の名は聞きましたし、「今度こそ、弥陀に救われよう」と思うからです。
ですけれども、可能な方には、今生で、なんとか弥陀をたのんでほしいと、切に思います。
もちろん、あなた様からすれば余計なお世話でしょうけれども、
我らはそのように捉え、生活しているのです。
私は、誰を見るときでも、宿善の有無を常に気をつけています。
宿善がある機には、弥陀をたのんでもらわねばなりません。
娑婆の仕事は外相に過ぎません。弥陀に救い上げてもらうことこそ肝要です。
85:神も仏も名無しさん
08/01/22 15:42:47 PeyBTitB
阿弥陀仏様は、唯物論者だろうが霊界信者だろうが、差別しないからね。
全ての衆生を救うために南無阿弥陀仏となられた仏様が、阿弥陀仏様だから。
86:神も仏も名無しさん
08/01/22 17:04:20 cpJtkTCP
>>85
阿弥陀仏はそうかもしれませんが、
唯物論者は阿弥陀仏など信じないのですから、そういう人がお坊さんであるのは問題ですね。
87:神も仏も名無しさん
08/01/22 17:28:03 PeyBTitB
阿弥陀仏を人格的存在と見ずに、
法(ダルマ)の人格的表現と見る僧侶もいる。
そんな僧侶がいたって構わないと私は思う。
いずれにしてもお互いに凡夫である事には変わりが無い。
88:神も仏も名無しさん
08/01/22 17:32:34 YOu4ABoy
>69
直訳レベルとは如何なる意味なのでしょうか?
親鸞聖人(本件では覚如上人ですが)が
真実信心について書き残された書を直訳しようとする営みは、
他の方々に真実信心を得させたいと思っておられる298さんにとって、
最も尊重すべきことでしょう。親鸞聖人が心血注がれ、
真実信心を顕らかにされた書なのですから。
それとも、親鸞聖人の仰せより「自分が善知識だと信じているある方」の
仰せに依ると思っておられるのでしょうか?
お聖教に根拠がない事を自分中心に構築するのであるのならば、
298さんが善知識と認められる方の教えを旨とする宗であって、
親鸞聖人をご開山とする宗旨ではないのですから、
そう言ったスレでも立てて自己主張されるべきだと思いますよ。
298さんの経験を主とし、その主のお眼鏡にかなった範囲で、
親鸞聖人の教えをピックアップする事を旨とする宗として。
私はここは親鸞聖人をご開山とする浄土真宗のスレだと思っています。
故に、典拠はどこまで言っても親鸞聖人の仰せであります。
宗祖が開かれた浄土真宗の典拠を宗祖に求める。当たり前の態度でしょう。
89:神も仏も名無しさん
08/01/22 17:56:42 YOu4ABoy
さらに298さんへ
沢山レスを頂いておりますが、申し訳有りません。
私には誤魔化しにしか見えないのです。
あなたは過去スレであなた自身の手によって意訳をされました。
その意訳には、宿善の機=救いを求める者と書いてありません。
「書いてあるのにどうして読めないの」と繰り返されても、
ご自身の意訳にも書かれておられないのに、どうして読めるのでしょう?
脳内に、そう読めるように強制変換する装置でも
ついていれば、読めるかもしれまんが。
『改邪鈔』は、ノストラダムスの予言書のように、暗号読解しなければ、
理解できない文書なんでしょうか?
90:神も仏も名無しさん
08/01/22 18:37:40 cpJtkTCP
>>87
法(ダルマ)というのは、唯物論の枠組みで説明できるのでしょうか?
91:神も仏も名無しさん
08/01/22 19:00:31 PeyBTitB
法則を唯物論は否定しない。
仏になるための法則、それがダルマだ。
そんなに唯物論者の僧侶と議論したいなら、自分で探せばいい。
俺は本人じゃないからこれ以上は言えない。
92:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
08/01/22 19:42:05 q+8WJ9Ie
唯物論の坊主発見!! → 「蓮如!!」
のたまわく、南无の字は、聖人の御流儀に限りて、遊ばしけり。南無阿弥陀仏を泥にて
写させられて、御座敷に掛けさせられて、仰せられけるは、不可思議光仏・無碍光仏も、
この南無阿弥陀仏をほめたもう徳号なり。しかれば、南無阿弥陀仏を本とすべしと、仰せ
候なり(蓮如聞き書き)。
蓮如上人は言われた。南无という字は親鸞聖人の流派だけが使用している。普通、阿弥
陀仏の号(名前)は阿弥陀仏である。名号を掛け軸に書いて飾る場合、阿弥陀仏と書く。
しかし、親鸞聖人の流派だけは南無阿弥陀仏と書いて飾る。蓮如上人は南無阿弥陀仏と名
号を金泥で書写し、それをお座敷に飾った。そしてこのように言った。
善導大師はどうして偉かったのか。南無阿弥陀仏は尊いぞと教えてくれたから、偉か
ったのだ。法然上人はどうして偉かったのか。南無阿弥陀仏は尊いぞと教えてくれたから、
偉かったのだ。曇鸞大師はどうして偉かったのか。南無阿弥陀仏は尊いぞと教えてくれた
から、偉かったのだ。お釈迦様はどうして偉かったのか。南無阿弥陀仏は尊いぞと教えて
くれたから、偉かったのだ。
不可思議光仏・無碍光仏、いずれも「南無阿弥陀仏は尊いぞ」と称賛するための徳号
(名前〔道具〕)である。阿弥陀仏〔道具〕が尊いのではない。道具が示す南無阿弥陀仏
が尊いのだ。だから、もっとも尊い南無阿弥陀仏を掛け軸に書いて飾るのだ。
93:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
08/01/22 19:42:33 q+8WJ9Ie
唯物論の坊主発見!! → 「親鸞!!」
無上仏と申すは形もなくまします。形のましまさぬゆえに、自然とは申すなり。形まし
ますと示すときには、無上涅槃とはもうさず。形もましまさぬ様を知らせんとて、始めて
弥陀仏とぞ聞き習いて候う。弥陀仏は、自然の様を知らせん料なり(親鸞 末燈鈔)。
無上仏は形而下(有形)の存在ではない。形而上(無形)の存在である。架空である。
観念である。形而下の存在ではないからこそ、自然という概念が導かれてくる。形があれ
ば無上涅槃とは言わない。観念的・抽象的あり方を明らかにするため、一番最初に比叡山
で阿弥陀仏というものの講義を受けたとき、阿弥陀仏というのは、自然という概念を教え
るための資料であり。道具である。方法論であると教わりました。
94:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
08/01/22 19:52:09 q+8WJ9Ie
唯物論発見!!! → 親鸞
『菩薩戒経』に言わく、出家の人の法は、国王に向かいて礼拝せず、父母に向かいて礼拝せず、
六親に務えず、鬼神を礼せず、と。已上
僧は鬼神を礼拝してはいけない。
大智律師(元照)の云わく、神は謂わく鬼神なり。すべて四趣・天・修・鬼・獄に収む、と。
いわゆる霊的なものというのは、所詮、六道の中の天・阿修羅・餓鬼・地獄のいずれかに収ま
る。いずれも迷いの世界を免れない。
度律師(戒度)の云わく、魔はすなわち悪道の所収なり、と。
霊的作用など、所詮は悪道の一つである。
論語に云わく、季路問わく、「鬼神に事えんか」と。子の曰わく、「事うることあたわず。人
いずくんぞ能く鬼神に事えんや」と。
季路が孔子に聞いた。霊的な鬼神につかえることはいかがでしょうか。孔子は答えた。そのよ
うなことは不可能である。人がどうして鬼神につかえることができるだろうか。
(化身土巻)
95:神も仏も名無しさん
08/01/22 20:24:58 cpJtkTCP
>>94
唯物論者はあなたでしょ。
96:神も仏も名無しさん
08/01/22 21:23:00 ODpSiTY2
*・゜゚・*:.。*・゜゚・*:.。*・゜゚・*:.。.*・゜゚・*:.。.お掃除はいりま~す♪.。.:*・゜゚・*:.。*・゜゚・*:.。.*・゜゚・*:.。*・゜゚・*:.。
____
,/:::::::::::::::::::::\ ~プーン.
/::::::::::::::::::::::::::::::::::\ ~プーン.
|:::::::::::|_|_|_|_|_| ~プーン.
|_|_ノ∪ \,, ,,/ ヽ
|::( 6 ー─◎─◎ )
|ノ (∵∴∪( o o)∴)
| < ∵ 3 ∵> < 唯物論の坊主発見!!
.\\U ___ノ\
\\____) ヽ
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
↑この顔でプーンときたらキモヲタ童貞中年(50歳台後半無職童貞引きこもり川崎在住)
..。.:*・゚ ☆お掃除終了。でも、加齢臭とヲタ臭がひどいので、もうこの部屋は使えません。☆ ゚・*:.。.
97:298
08/01/22 22:57:47 MatYAWBg
>>88
>真実信心について書き残された書を直訳しようとする営みは、
>他の方々に真実信心を得させたいと思っておられる298さんにとって、
>最も尊重すべきことでしょう
「最も尊重すべき」とあなた様が思うなら、
あなた様が、直訳を出すことに精を出せばよいのです。
これまで、いかほどの量の御聖典を直訳なさいましたか?
1ページですか、2ページですか。
それとも、5巻ですか。
別に、私に量を報告する必要はありませんが、
私は、あなた様は実行もせずに、
アドバイスする方だと思っています。
あなた様は、お聖教を直訳して、「他の方々に真実信心を得させ」る
ことができたのですか?
その前に、ご自分は得ることができたのですか?
別にそれが誤解でも構いませんが、
とりあえず、自覚としては、信心を得ることができたのでしょうか。
もしできないならば、「他の方々に真実信心を得させるために
最も尊重すべきことは、お聖教を直訳しようとする営み」という
あなた様の論の、典拠はどこですか?
私からすれば、最も尊重すべきなのは、南无阿彌陀佛に決まっています。
典拠を宗祖に求めることを、私は問題視していません。
お聖教を読まなくても、弥陀をたのめば信心決定します。
98:298
08/01/22 22:58:15 MatYAWBg
>>89
>暗号読解しなければ、理解できない文書なんでしょうか?
これは、あなた様は理解しているという御主張でしょうか?
あるいは、他の方も、ただ読むだけで、すいすいわかるという
ご主張ですか?
そんなに皆様がすいすいわかって、次々に信を獲られるならば、
このスレの存在目的は、何なのでしょう。
私からすれば、信心いただかねば理解できない文書なのです。
ノストラダムスの予言書の暗号の解読について、
私は詳しくありませんから、よくわかりません。
あなた様は、お聖教を厳密に読むことができる上に、
ノストラダムスの予言書の暗号も解読できるのですか?
「南无阿彌陀佛のすがた」とは何か、わかりますか?
そして、信は獲れていますか?
有縁の求める方に、信を獲っていただくことはできますか?
相変わらず、HNも定めませんし、私の質問にも、
ほとんど答えないでしょう。
わかりたいのではなく、否定したいのでしたら、
なぜ、否定に精を出すのかを聞いているのです。
否定したら信が獲れるのですか?
99:298
08/01/22 23:00:17 MatYAWBg
>>89
>沢山レスを頂いておりますが、申し訳有りません。
>私には誤魔化しにしか見えないのです。
それが別に不思議だとは思いません。
これまでのあなた様の書き込みから察するに、
そのように見えるのではないでしょうか。
ですから、「ご自身の信じる道に従って、
信を獲られたら良いのではないですか」と申し上げています。
100:神も仏も名無しさん
08/01/22 23:09:47 F3iIEiHV
>>66
南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏
101:298
08/01/22 23:12:05 fX/L9DMg
>>89
私は、あなた様がお聖教を厳密に読める方だとは思っておりません。
私も、厳密には読めません。
それでも、お聖教の素晴らしさはわかります。
御開山を尊敬していらっしゃるならば、御聖典を繰り返し読んで、
どうすれば信が獲れるか、探されたら良いのではないですか。
(個人的には、御文様の方がわかりやすいだろうとは思います。)
お聖教を読んで信が獲れるとは思いませんが、
それが無駄であるとは思いません。
通らねばならぬ方は、通らねばならぬ道です。
わざわざ獲信者に聞こうとする方は、もうその段階は超えているはずです。
「厳密に読める」などとうぬぼれていないで、
あるいは、「自分の解釈をいれなくても読める」などとうぬぼれていないで、
きちんと原典と対座し、信を獲られたらよろしいと思います。
「解釈をいれなくても読める」というのは、真宗以前の、通仏教でもわかる
問題だと思います。
もちろん、真宗は、通仏教の話しを全く理解しない方でも救います。
102:298
08/01/22 23:30:33 fX/L9DMg
>>89
>「書いてあるのにどうして読めないの」と繰り返されても、
それに、これは私からすれば誤読なのです。
私は、「あなた様は、書いてあるのに読めない」とは言っていますが、
「どうして」と繰り返書いたかどうか、わかりません。
いくつか、その理由の推測をあげています。
1)そもそも、浄土門を求めていないのではないか?
2)正法についての理解が違うのではないか?
あるいは、まだ書いてはいませんが、
3)人間の意識がどうなっているかについての考え方が異なるのでは?
とも思っています。これは、私が書いた「求める」の解釈を問題に
しています。
しかし、基本的にあなた様の態度は、話しを前に進めようとしている
ようには、見えません。
他にも、私はいくつかの理由を推測していますが、
あなた様が、あなた様について書きませんので、
よくわからないのです。
103:298
08/01/22 23:31:58 fX/L9DMg
>>89
ご自分の解釈を入れずに云々の話ですが、
私が書いている書き込みを、あなた様が、あなた様の
解釈を入れずに直接に認識してくださっているとは、
とても思えません。
104:神も仏も名無しさん
08/01/23 00:48:00 qLP+lhCT
298さん、お答えも出なさそうですし、
後日、祖師方が「宿善」について述べておられる所を挙げますね。
そこから、宿善の機=救いを求める者という定義が成立するか否か、
お聖教に問い尋ねてみましょうか。
戯言は本当に、時間の無駄です。私はあなたのお考えを別に否定するつもりはないんですよ。
お聖教上に、根拠が有るのか無いのか、
それだけを確かめようと試行しているだけです。
105:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
08/01/23 10:01:04 2p4ptP0l
>95
>唯物論者はあなたでしょ。
粗雑な言い方をここだけ許して貰えれば、僕は親鸞主義者だ。
貴方は心霊論者のようだ。
考え方の立場は、天地の開きがあるようだ
106:神も仏も名無しさん
08/01/23 11:28:06 bNtnFOt4
*・゜゚・*:.。*・゜゚・*:.。*・゜゚・*:.。.*・゜゚・*:.。.お掃除はいりま~す♪.。.:*・゜゚・*:.。*・゜゚・*:.。.*・゜゚・*:.。*・゜゚・*:.。
____
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/::::::::::::::::::::::::::::::::::\ ~プーン.
|:::::::::::|_|_|_|_|_| ~プーン.
|_|_ノ∪ \,, ,,/ ヽ
|::( 6 ー─◎─◎ )
|ノ (∵∴∪( o o)∴)
| < ∵ 3 ∵> < 粗雑な言い方をここだけ許して貰えれば、僕は親鸞主義者だ。
/\ └ ___ ノ 貴方は心霊論者のようだ。
.\\U ___ノ\ 考え方の立場は、天地の開きがあるようだ
\\____) ヽ
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI (自称親鸞主義者)
↑この顔でプーンときたらキモヲタ童貞中年(50歳台後半無職童貞引きこもり川崎在住)
..。.:*・゚ ☆お掃除終了。でも、加齢臭とヲタ臭がひどいので、もうこの部屋は使えません。☆ ゚・*:.。.
107:298
08/01/23 12:50:50 ggD3xGqV
>>104
その方が助かります。
上でも少し述べましたが、おそらく「いつ獲信するのか」についての
意見も異なり、それによって、わからなくなっている可能性もあります。
(これは、真宗についての理解、すなわち、あなた様が
獲信していないことによって、わからなくなっている部分です。)
「宿善」についてお聖教を全文検索すれば、いろいろ出てくるでしょう。
あなた様自身の論として
は、「宿善開発=信心獲得」となっていたと
思いますが、それについても、確認してみてください。
ただ、宿善がきちんと開発すれば、たしかに、信心獲得の直前には
来ていると思います。
108:298
08/01/23 12:54:20 ggD3xGqV
>>104
また、「否定するつもりがない」というのは、おそらく、
ご自身の心を観察する能力が低いからわからないだけです。
ご自分のことを不勉強だと思っているとすれば、
それも、ご自身の心を観察する能力が低いために、
自身の傲慢さを見落としていると思います。
あなた様は、真宗とは何かについての先入観をお持ちであり、
お聖教に基づいてではなく、あなた様の先入観に基づいて判断を下し、
私の意見を否定していると思います
109:298
08/01/23 13:07:43 ggD3xGqV
>>104
>それだけ
この「だけ」というのが、あなた様の言い回しの特徴なのです。
(参考>>55)
あなた様の過去の発言をご自身でご確認ください。
「だけ」ではない要素が、いろいろ見えてくると思います。
書く事の利点のひとつは、自分の考えを確認しやすくなることです。
そして、できましたならば、HNをお定めください。
過去の一連のご発言を確認してゆく上で、とても不便です。
あなた様は、HNも定めませんし、質問の多くも無視されています。
検討していただければ、気付きがあるかもしれないと思い、
質問しているわけですが、あなた様は無視されていますから、
今のところ、あまり考え方が変わっていないのではありませんか。
宿善を持っている方は、救いを求めますし、
救いを求める方には、宿善があるのです。
お聖教を検討するのは良いことですから、
よくよく検討し、信をいただいて、極楽往生治定してください。
お聖教も、それに従って信を獲ることができないなら、
単なる紙です。
読むだけ読んで、信を獲らず、自障障他を続けることを、
「聖教読みの聖教読まず」と申すのです。
110:298
08/01/23 13:42:13 ggD3xGqV
以前、「誹謗も縁になるのでは?」とおっしゃってくださった方が
いらっしゃって、>>2の書き込みもそうですが、
それらはやはり正論ですので、私も起動修正されて、
やる気が出てきますので、感謝しています。
真宗の法は、ほとんどの方が聞き入れませんので、
難信にして易行なのだと思います。
宿善ある機も、はじめは疑心を解消しようとしますが、
ある程度まで進めば宿善が響いて、
疑心あるままで、それはそれとして求め出し、
獲信まで辿り着いてしまいます。
これらすべて弥陀のお育てによるもの、
宿善によるもので、行者にしても、お手引きするにしても、
自分で、できることではありません。
111:神も仏も名無しさん
08/01/23 14:01:49 vGQN/KVg
>>110
横レスすみませんが、宿善・無宿善ってこちらからどうやって判断するのでしょうか?
私は自覚言語だと思っておりますので、他者をこのように判断して対応するのは何か変だなと思ってしまいます
獲信したものが自らを振り返って、宿善の機であったと初めていえるのではないかと思うのです
それとついでですが、「私は獲信したので、私の考えは正しいのだ」っていう立場で話されているように思うのですが、それだと話がかみ合わない場合が多いと思います
少なくとも私の尊敬する先生方にはそのような言い方をされる方はおりません
偉そうなことを言って恐縮ですが、法を自ら掴んで離さない立場を省みられたほうがいいのではないかと思いますよ
112:298
08/01/23 14:16:26 ggD3xGqV
>>111
そう見えることは、十分承知した上で、このような書き方をしています。
探せども正意が見つからず苦しんでいる方のために、
スレタイに共鳴して書き込みを続けています。
宿善・無宿善の判別については、お聖教には数カ所記述があります。
宿善の有無を見てから法を説く、ということについては、
御文様には、かなりの回数の記述があります。
尊敬する先生方についてゆくことが大切だと思います。
「おかしな事を言う、傲慢な奴がいる」ということで、私は構いません。
そう見えて仕方がないと思っているからです。
もちろん、少しでも心に響く様に、傲慢には響かない様に、
工夫は続けたいと思っております。
宿善の機が現す特徴は記載箇所が少ないですが、
宿善の有無を見てから法を説くことについては、御文様に幾度も出てきますので、
ぜひ御文様をご確認ください。
あなた様は、御文様を読んでいないか、蓮師を否定する立場の
方なのではないかと思います。
獲信しているかどうかは、人格の成熟でははかれません。
ですから、私の機を見て判断すると、間違えると思います。
したがって、上下を問わず聞かねばならないのです。
法の観点からすれば、どんなにすばらしい方でも、
信を得ていないならば、たよりにならないのです。
求める方が正意に出会って、半年以内に信を獲れないことは
ほぼ無いでしょうし、早い方であれば、1週間で信を獲れることもあるでしょう。
あくまでも易行です。
113:298
08/01/23 14:17:22 ggD3xGqV
>>112
判別の仕方について引かなかったのは、
より傲慢と思われることを恐れてのことです。
114:298
08/01/23 14:26:12 ggD3xGqV
>>111
私は、111様は、良い方であると思います。
難信之法ですので、良い方にも、受け入れていただけません。
そもそも、良い方は、「難信之法」ということ自体を、
受け入れないことが多く、難信ではなく、
自分にとってわかりやすいものを求める傾向があると思います。
良い方に話すのが心苦しいのは、弥陀を尊敬する心も
お持ちであることが多いからです。
ですけれども、その弥陀は、ご自分の心が想像したものに
過ぎないのです。
弥陀を尊敬し、弥陀から離れる。
往生治定を説く真宗に触れながら、堕ちて行く。
嘆く他ありません。宿善によって決まることですけれども、
嘆かざるを得ません。私がこのようなことを書いているのは、
宿善有る機の、開発の助けになることを願って書いています。
115:神も仏も名無しさん
08/01/23 14:28:05 8M1cvND7
吉本氏の内観法は、仏教的にも間違っていないし、信心を獲得することも可能だと思うのですが、異安心になりますか?
116:神も仏も名無しさん
08/01/23 14:30:53 vGQN/KVg
>>112
298氏の考えについては了解しました
個人的には覚如上人、蓮如上人等の教学についてはほとんど学んだことがないため、正直あまりわかりません
親鸞聖人自身は仰られていないと思うのですが、どうなのでしょうか?
また、信心の問題について「あくまでも易行です」という言い方には語弊があると思います
易行難信と仰られておりますので
>>113
傲慢だと言ったものの、こちらこそ傲慢なのでそんなに気になさらないでください
もしよろしければ後学のために、判別の仕方について引いてもらえないでしょうか?
聖典の箇所を教えてくれることを傲慢だなんて思いませんよ
117:神も仏も名無しさん
08/01/23 14:36:49 vGQN/KVg
>>114
>自分にとってわかりやすいものを求める傾向があると思います
まさにそうだと思います
自分を良い人間だとは思いませんが
実際は先生方が言われることに素直に頷いていけない反逆児です(先生方が自分にとって分かりやすいことを言われているわけではないので)
聞法していくしかないですね」
118:神も仏も名無しさん
08/01/23 14:40:16 R67bZQO5
宿善がない!と言われたところで
救われないままでいるわけにはいかない
119:神も仏も名無しさん
08/01/23 14:47:44 vGQN/KVg
>>118
それはその通りなのですが、御同行(または仏教に縁を持たない人)を法を根拠にして見下げるような姿勢には違和感があるのです
120:298
08/01/23 15:24:42 ggD3xGqV
>>116
ご親切にありがとうございます。
宿善の判別について、その具体的な指針として、
私が把握しているものが二カ所ありますので、
今晩、お書きしようと思います。
(もし、今晩間に合わなくても、なるべく早く調べてお書き致します。)
私は、親鸞聖人もおっしゃっていると思うのですが、
それを「ここですよ」と書いた場合、「なぜですか?」という問いを
誘発するようなものだと思っています。
易行難信につきましては、「難信」の「難」とは何が難しいのか、
つまり、「信」とは何なのか? によって、解釈が大分異なると思います。
この「難」とは「希」と解した方が、わかりやすいように思います。
互いに傲慢なのは、避けられない所です。
この傲慢さ自体に取り組んでゆくのは、聖道を歩む尊い方々ですので、
私のような凡夫には及びも参りません。
121:298
08/01/23 15:25:35 ggD3xGqV
>>118
法を求める方は宿善があるのですから、そのようなことは
実際には起こらないと思います。
すなわち、杞憂であると思います。
法を求めているのに宿善が無いと見なす論に
問題があるのです。
122:298
08/01/23 15:30:07 ggD3xGqV
>>119
「見下げる」ことについてですが、たとえば、阿弥陀如来は如来でしょう?
私は、凡夫です。
三宝帰依もできないような凡夫でした。
弥陀如来が、私を哀れんで救ってくださることを、
私はよろこんでいます。
それは、私は私を凡夫と思い、もう自分ではどうにもならぬと思ったからです。
つくづく傲慢ですからね、自分で滅度に至れると思ったら、
弥陀をたのまずに、自分でやろうとしたと思います。
おそらく、過去生にはそんなことを試みて、正法も誹謗して、
流転していたのではないかと自身を思っています。
123:神も仏も名無しさん
08/01/23 15:32:18 vGQN/KVg
>>120
ありがとうございます
それでは期待して待たせていただきます
>私は、親鸞聖人もおっしゃっていると思うのですが、
>それを「ここですよ」と書いた場合、「なぜですか?」という問いを
>誘発するようなものだと思っています。
これは解釈によって分かれる文であるということなのでしょうか?
「それは違う」などと絡む気は一切ありませんし、私がそう読めなくとも298氏の考え方がはっきりしますので、できたらそこもお願いいたします
124:298
08/01/23 15:41:14 ggD3xGqV
>>115
内観法で信を獲ることはできませんし、「異安心」というよりは、
「内観法で真実信心いただきました!」という方が、
そもそもいらっしゃるのでしょうか?
あくまでも、心理療法のひとつとして把握しています。
寝ている間も南无阿彌陀佛を唱える程になったとしても、
それでも、南无阿彌陀佛が無ければ自力の信なのです。
もちろん、信をいただいた以上、その恩を感じ、
御恩報謝のお念仏をつづけてゆくことが、
望ましいです。ですけれども、私も、不断に口称できていません。
(この「口称」は、発声器官の口称のことです。)
南无阿彌陀佛が南无阿彌陀佛を称える、という意味では、
無間に相続されているはずです。
信前も信後も機を問わないとは言え、
できないなりに、善行しようとするのだと思います。
真宗から南无阿彌陀佛を取り除いて、
残ったもので獲信することはあり得ません。
南无阿彌陀佛だけを残すなら、獲信できます。
125:神も仏も名無しさん
08/01/23 15:47:25 vGQN/KVg
>>122
阿弥陀様は十方衆生に呼びかけて下さっていますし、親鸞聖人は逆謗闡提さえも救われると示してくださっています
そう考えると、阿弥陀様がそんな条件をつけて救おうとされているとは思えないのです
安楽房は念仏者を弾圧する後鳥羽上皇を無宿善の機だと見捨てずに念仏を勧めて殺されていったではないですか
後鳥羽上皇はその後、念仏者になられたと聞きました
私が聴聞し始めるきっかけとなった先生の法話に「念仏者は阿弥陀様との関係が開かれることによって、
阿弥陀様が呼びかける十方衆生を見出すのです。本当に人間を信頼できるようになるのです。
人間とは意識するしないに関わらず浄土を求めているんだということがはっきりするのです。」とあって、私はそれに感動したのです。
法話ですから、教学的にどうかということは私には言えないのですが、「この人は無宿善の機だ」という判断を凡夫が下すのが念仏者の態度なのかということは、
私にとっては本当に大きな問題なんです
126:298
08/01/23 15:48:18 ggD3xGqV
>>123
親鸞聖人は、とにかくすごい方なのです。
御本典を読んでいても、わけのわからない部分もたくさんあります。
これは、意地悪ではなく、もし、私の考えを知りたいということでしたら、
信を獲った上で、親しく数年以上お話してゆかねば無理だと思います。
これはなぜそう思うのかというと、私の体験で言えば、
たとえば、ある方に古典文法を教えて行くとします。
それでも、ある程度のお話をするのに、実際に数年かかります。
ですから、このような話題であれば、もっと時間がかかっても、
おかしく無いのです。
さまざまな前提をすりあわせ、そこから領解を合わせてゆく作業も
必要だと思います。
ひとまず、わかりやすいと思われる箇所を示しますので、
そこと、その周辺をご自分でご確認してご判断いただければと思います。
そこをご覧になって、どのように感じられたか、お知らせいただけたらうれしいです。
また、期待しても、たいしたことはありませんので、失望されるかもしれないと思います。
獲信ですら、期待しない方が良い面もあるのです。
あまりにもすごいことだと、凡夫には、価値が認識できないこともあるからです。
127:298
08/01/23 15:59:39 ggD3xGqV
>>125
これは、私の書き方が悪いです。お詫び致しますと同時に、
問うていただけましたことに、感謝致します。
続きをお書きしますが、わかっていただけるかわかりません。
ご不審があれば、また問うていただければうれしいです。
宿善の有無を見るというのは、「無」というのは、「開発前」も含むのです。
そして、無宿善の機に正雑二行の沙汰をしないというのは、
「南无阿彌陀佛が何か」を伝えないということです。
もちろん、一般の法話は致しますし、示談も致しますし、
見捨てるわけではないのです。
見捨てるどころか、信を獲ってほしいと望んでいるのです。
凡夫が下すとは言っても、明らかに知れるようになっていますから、
間違いはめったに無いと思います。
それに、間違いがあったとしても、次第相承の善知識もひとりではありません。
(基本的に、間違いは無いとは思いますが・・・)
凡夫が下すというよりも、弥陀が明らかに示してくださると
お考えいただければと思います。
だからこそ、佛智不可思議と実感できるのです。
これは見事に、分かれるのです。
自他の宿善の有無は、信前にはわかりません。
開発されているかどうかは、わかります。
開発というのは、宿善の機が、その生において、開発するのです。
ご不安は、理解できると思っていますが、求める方は、
信をいただけるのですから、心配要らないと思います。
宿善の機は、生涯のどこかで、その宿善が開発され、
法を求め、信をいただき、生涯一度の回心を致し、極楽往生が治定致します。
128:神も仏も名無しさん
08/01/23 16:00:06 vGQN/KVg
>>126
そうですか、わかりました
たしかに教行信証は親鸞聖人の意図がつかめない部分が多くて、私なんかは歯が立ちません
残念ですが、掲示板では限界もありますしね
場所だけでも教えてほしいと思うのは、無宿善の機について書かれているのが覚如上人や蓮如上人の場合は特別親しみがないため、
「親鸞聖人は言われていないじゃないか」と私の意に沿わない場合は無視できてしまうからなんです
だから私の思いは破れないと思うのです
ですからできれば親鸞聖人が仰られている場所だけでも教えてほしいのですが、やっぱり難しいでしょうか?
129:神も仏も名無しさん
08/01/23 16:01:53 8M1cvND7
吉本伊信「法味道しるべ」
「死んで生き返った人もなし、有るとか無いとか言っても、共に不明の事、不解の話と片附けて忘れ去りたいのが私の心ですが、
一体、人間死ねばどこへ行くのであらうかと、真剣に真面目に求め尋ねるのと、少しも心に止めないのとで、
人間としての偉大さが決まる分水嶺かもしれない。
釋尊をはじめ古来幾多の高僧聖人は、この死についての解決を求め、後生知りたさに道をたどり、安心立命、
大悟徹底された事実は誰もよく知っておりながら、自分自身の後生について真面目に大事をかける人は少い。
真宗七高僧の一人で恵心僧都(源信和尚)はその著『往生要集』にはっきり、地獄、極楽の有様を詳しく教へて下さってはあるが、
『あれはいましめの為に、かりにたとえての想像であろう』と笑いながら、絵のみを見るのが私の姿である。(中略)
夏生れて夏死ぬ蝉は、春も秋もあるんですが知らんだけです。私等にも、地獄もあれば極楽もありますが、ただ知らぬだけのことです。
自己究明、反省、内観、身調べの結果、現在の自分は、地獄行きの種を沢山造って居るか、極楽行きの種を沢山持ちあわして居るかを知ることによって、
御自分の後生は極楽行きか地獄行きかが知れるんです。
(中略)反省の徹底により罪悪感、無常観が熾烈になり、三定死の境に到り、二河白道の旅人様の御跡を歩む人のみ往生要集を読まなくても、
自らの内心を見るだけではっきりはっきり存在の事実を体感されるのではなかろうか。その地獄行きの自らを知る人だけが、
極楽の実在をも体感出来る一歩前と思う。火と水のそのなかみちを行けよ人 こいよ行けよのこえをたよりに」
130:298
08/01/23 16:04:08 ggD3xGqV
>>125
教学的にどうこうというのは、真宗に於いては、あまり重要では無いと
私は思っています。
素朴な感覚こそが大切であり、だからこそ、示談が奨励されているのだと
思います。
131:神も仏も名無しさん
08/01/23 16:05:23 vGQN/KVg
>>127
そうですか
納得できました
私の無宿善の機の了解がずれていたんですね
先日「あいつは一闡提だから駄目だ」と言われる御同行に出合ってショックをうけたので、同じようなことを言われているのだと勘違いしてしまいました
ありがとうございます
132:298
08/01/23 16:05:46 ggD3xGqV
>>126
なるほど、そういうことなのですね。
なるべく努力したいと思います。
もしできましたならば、私が述べている宿善・無宿善について、
どのように解釈していらっしゃるか、
そして、ご自身の現在の考えと照らして、
どこがおかしいと思われていらっしゃるか、
教えていただけないでしょうか。
133:298
08/01/23 16:09:39 ggD3xGqV
>>131
私のことばなど、不正確なものなのです。
ですので、示談を重ねたりして、
お互いに思うところを明らかにしてゆかねば、
互いに間違えてしまうと思います。
掲示板という場所は、不便な面もありますが、
地理的時間的距離を短くし、示談ができるという
大きな利点があります。
間違いがあるのは、凡夫ですから当たり前なのですから、
間違いを恐れるよりも、思うところを明らかにしてゆき、
信を獲る方を増やすことが肝要だと思います。
>「あいつは一闡提だから駄目だ」と言われる御同行
これはやはり、おかしいです。
易行だからこそ、皆が救われるとわかるのです。
どんな悪人でも、掌を返すように簡単に獲信し、
便同弥勒になるのです。
134:298
08/01/23 16:11:16 ggD3xGqV
>>133
>どんな悪人でも、掌を返すように簡単に獲信し、便同弥勒になる
補足ですが、「急に善人になる」という意味ではありません。
135:神も仏も名無しさん
08/01/23 16:16:54 vGQN/KVg
>>132
私が298氏の宿善・無宿善理解だと思っていたもの
宿善 自ら法を求める人のみにあるもので、これがあるものにだけ法を説くべき
無宿善 法を求める素因がないもので、法を説くべきではないし、救われないから見捨てるべき
このように言われているものだと思っていました
127を見て対機説法のようなものかなと思いました
読んだ直後は納得したのですが、やっぱりちょっと疑問がわいてくるのでもう少しお相手してほしいです
でもやっぱり無宿善の機は救われないのでしょうか?
そして信心獲得した人はそれを見抜けるのでしょうか?
書き終えて見ると前に書いたことの返事が来ていてちょっとタイムラグがでちゃいますねw
136:298
08/01/23 16:24:24 ggD3xGqV
>>135
私はお相手するのは、時間の許す限り、いくらでも致します。
「法を説く」の「法」に種類があるのです。
最後の最後、信をいただく直前に説かれる「六字の謂れ」が法の要です。
これが「教」の中身であり、南无阿彌陀佛です。
これに基づいて「行」が行われ、そのとき「信」をいただきます。
教が行に至るときに、体が用と働き、信をいただきます。
法の要に至る前、方便として、さまざまなことが説かれます。
しかし、そのすべては、南无阿彌陀佛を指し示しています。
これが、諸佛が指しており、垂迹するのも、そのためです。
最後は弥陀をたのむしか無いのです。
ただし、これは、我ら真宗門徒が思うことであり、
他宗に説くべき内容ではありません。
見捨てるのではなく、説く内容が異なるのです。
我らからすれば、八万四千すべての法門は、
弥陀の救いを指し示しております。
137:298
08/01/23 16:30:13 ggD3xGqV
>>135
残念ですが、無宿善の機が、今生で信をいただくことは叶いません。
ですから、もし、あなた様が信をいただいて、近い縁の方が
信を得なくても、あなた様の責任ではありません。
難信之法なのです。あくまでも宿善ですので、
誰もお手引きしない方よりも、ひとりでもお手引きした方が偉いということは、
ありません。できる範囲で、できることをした時に、何かしらの結果が出るだけで、
そこは、凡夫がはからうことではないのです。(はからってしまいますが・・・)
しかし、あなた様が浄土に参ったとき、神通をいただき、
有縁の方がいつどこでどのようにして信をいただくか、
知ることができます。
ですので、その経路のどこでどのようにして自分が宿善、あるいは、開発の助けに
なるかもわかり、さまざまな姿として生まれ、お導きするのです。
南无阿彌陀佛
138:神も仏も名無しさん
08/01/23 16:40:30 vGQN/KVg
>>136
それは理解できます
私がこだわっているのは
でもやっぱり無宿善の機は救われないのでしょうか?
そして信心獲得した人はそれを見抜けるのでしょうか?
この二つの問題なんです
>求める方は、信をいただけるのですから、心配要らないと思います。
と言われますが、真宗は個人だけでなく、我らを救わんとする教えだと思うのです
どんなきっかけで法を聞こうとするか分かりませんし、もし無宿善の機は救われないもので獲信したものにはそれがわかるとすれば、やはり阿弥陀様の救いからもれるものがいるということだと思うのです
私にはそれこそはからいに見えてしまいます
可能性を判断できるというのはやはり今の私には納得できません
私が知る限り親鸞聖人はそのように言われていないと思います
私の考えが絶対正しいわけではありませんし、もし親鸞聖人がそのように語られている場所があれば教えていただきたいと思います
(覚如上人、蓮如上人の語られている場所も知りたいです)
ここで分かったとはいえませんが、その箇所を教えていただければ自分でもう一度考えてみたいと思います
139:298
08/01/23 16:46:39 ggD3xGqV
>>138
引用するには手元に資料を揃えねばなりませんので、
今晩になってしまいます。
特に、御本典のどこを引くのが良いかを考えるために、
ご意見をお伺いできればと思ったのです。
弥陀のお誓いは、「すべての衆生を今生で救う」のだと
理解されていらっしゃるのでしょうか?
もし、「すべてを今生で」でなければ、今生においては、
救われる機もいれば、救われない機も出てきます。
まだ、地獄に堕ちる機もいらっしゃるのです。
ですけれども、他の苦しみを望まないのが仏教です。
地獄に堕ちるのを、望むのではありません。
「悪人だから地獄に堕ちろ」は世間の考えであり、
仏説ではありません。
自業自得は仕方がありませんので、弥陀をたのむという無上善を
為してもらって、それによって救い摂るのです。
地獄に堕ちる機を、我々凡夫は救えませんし、
そもそも、自分をも自分では救えませんから、自分の救いも、
他の救いも、弥陀にたよるのです。
140:138
08/01/23 16:46:40 vGQN/KVg
訂正
どんなきっかけで法を聞こうとするか分かりませんし、もし無宿善の機は救われないもので獲信したものにはそれがわかるとすれば、やはり阿弥陀様の救いからもれるものがいるということだと思うのです
私にはそれこそはからいに見えてしまいます
↓
どんなきっかけで法を聞こうとするか分かりませんし、もし無宿善の機は救われないもので獲信したものにはそれがわかるとすれば、やはり阿弥陀様の呼びかけに応え得ないものがはっきりしてしまう
(やはり私には見捨てるように見えます)
私には「この人は無宿善だ」という判断こそはからいに見えてしまいます
141:神も仏も名無しさん
08/01/23 16:50:25 vGQN/KVg
>>139
ちょっと自分でも問題がある表現だと思いました
少なくとも今生で救われる契機、可能性はみなに開かれているのだと思っています
信後の人には「可能性がない人がはっきり分かる」というのに違和感があるのです
それは凡夫の分限を超えていると思うのです
142:298
08/01/23 16:50:42 ggD3xGqV
>>140
その時点では、正雑二行の沙汰ができないだけです。
なんとかわかってもらおうと、働きかけは続けてゆきます。
まだ実感はできないかもしれませんが、
望まないというのは、あくまでも、ご本人が望まないのです。
求める方を、拒否するわけではありません。
求める機が希なのです。
宿善の機が、生涯のある時点において、法を聞こうとしないとします。
これは、まだ開発前だからです。
ところが、宿善の機であれば、その後、何かしらの縁によって、
宿善が開発され、法を求める時節が至るのです。
143:298
08/01/23 16:52:11 ggD3xGqV
>>141
例をあげれば、わかりやすいでしょうか。
赤子の獲信ということが言われますが、
宿善開発前の赤子はどうなるかと言いますと、
泣き叫んで法を聞くことを拒否します。
明らかに知れます。
144:298
08/01/23 16:54:38 ggD3xGqV
>>141
今現在、真宗に興味を示さない方がいらっしゃるとして、
その方が宿善が無いかと言えば、そうは断言できません。
開発されているかどうかがわかるだけなのです。
宿善開発前の機にも、宿善の機と、無宿善の機がおります。
開発されていれば、はっきりとそれがわかり、
六字の謂れを聞き開くことになります。
145:神も仏も名無しさん
08/01/23 17:06:53 vGQN/KVg
>>144
少し確認したいのですが、「無宿善の機は絶対に今生では救われないもので、信後の人にはそういう人を見分けることができる」ということだと思って聞いていましたが、違うのでしょうか?
開発されることによって宿善の機だと自覚できる、開発されているもの同士は相手が開発されているということがよくわかるという話なら納得できます
信後の人は「あの人は無宿善だから駄目だとわかる、可能性がない奴だと判断できる」ということに違和感を感じていたのですが、それは私が勘違いして聞いていたんでしょうか?
146:298
08/01/23 17:14:29 ggD3xGqV
>>145
無宿善の機を見分けるには、獲信だけでは足りません。
法相続だけでも足りないはずですから、次第相承の善知識にも、無理だと思います。
聖道門をかなり進まれている方には、わかる方もいらっしゃるかもしれません。
開発されても、自覚はできません。成人であれば、
「宿善が無かったらどうしよう」と不安になることが多いと思います。
開発されていれば、善知識から見て分かります。
善知識でなくとも、獲信の方から見ても、かなりの程度まで分かります。
宿善あるかもしれないと見れば、信後の方が、善知識のもとにお連れします。
しかし、宿善無い機(あるいは開発前の機)は、途中で恐くなってしまうのです。
これは、魔が働くからです。
ですから、第十九願、第二十願によって、守られねばならぬのだと思っています。
147:298
08/01/23 17:16:43 ggD3xGqV
>>145
146で確認になりますでしょうか?
148:神も仏も名無しさん
08/01/23 17:18:57 vGQN/KVg
>>146
やはり私が勘違いして聞いていました
いろいろありがとうございました
149:298
08/01/23 17:28:31 ggD3xGqV
>>148
私の表現が足りないのです。
聞いてくださって、ありがとうございます。
150:神も仏も名無しさん
08/01/23 18:01:10 ilrin2kt
罪悪感をいくら深めたところで、
それはただの自己満足に過ぎない事を
知る人は少ない。
本当に自己の罪悪を見たと思う人がいるなら、
それはただの思い上がりに過ぎない事を知るべきだ。
151:神も仏も名無しさん
08/01/23 18:04:26 ilrin2kt
念仏の教えを聞いて、身の毛のよだつ思いがし、
後に喜ぶ心起こる人は、宿世に仏道を為した人である。
念仏の教えを聞いて何も感じず、馬鹿にする思いが起こる人は、
三悪道から生まれて来た人である。
152:7
08/01/23 18:10:52 wg7F033m
私も宿善についてはとても不安に思っておりました。今はまだ信前ですから、その不安が完全になくなったわけではありませんが、
もう求めいく他はないな、という結論に達しました。298さん、他の皆様のおかげです。感謝しております。
>>150
そうですね、自分も罪悪感と無常感を深めていけば、三定死に至って、窮まったところで突然信心決定出来ると思ってました。
凡夫にはとてもとても罪悪観やら無常観やら、そんな能力を持ち合わせた自分か?と考えますとゴールがやたら遠のいたものです。
全然話が変わりますが、二河白道の例えが信後の姿であることはここがきっかけで知ることが出来ました。ありがとうございます。
153:神も仏も名無しさん
08/01/23 19:08:14 ilrin2kt
まさに知るべし。
生死の因縁不可思議なり。
薄徳にして聞くことを得る。
その縁を知ること難し。
烏豆衆のごとし。
154:神も仏も名無しさん
08/01/23 20:16:02 8M1cvND7
心を開けば、宗教体験は得られると思うのです。
しかし、不退転とは言いつつも、実際には、信後にも、疑いや、快楽、絶望、魔の誘惑に敗れることもあると思うのですが?
155:神も仏も名無しさん
08/01/23 22:39:55 ilrin2kt
臨終の一念までは、自らは煩悩の地体なりと思うて、
かかる我等がための大悲の本願成就なりと
彌陀仏を仰いで念仏申すばかりなりと心得べし。
156:神も仏も名無しさん
08/01/23 22:52:39 ilrin2kt
〉298さんへ
「救いを求める者=宿善の機」という意味合いの親鸞聖人の文章は、まだ見たことは無いが、
念仏の教えを聞いて喜んだ人達、または誹謗したりする人達が、
宿世(過去世)において仏道を修していたか、三悪道から
生まれて来たのかによって、そのような違いが現れてくる、
という文章を七祖の著作や言動から書いておられるのは、読んだ事がある。
しかし、298さんは独自に親鸞聖人の著作から文章を発見したかもしれないから、今はまだ言わないでおく。…
157:298
08/01/24 00:47:48 CUW3PUVd
宿善について、例の名無しの方の書き込みも、わくわくしています。
安楽集には、次のごとしです。
◎第二に『大智度論』にいはく、「聴くものは端視して渇飲のごとくせよ。
一心に語議のなかに入り、法を聞きて踊躍し心に悲喜す。
かくのごとき人にために説くべし」と。(安楽集)
158:298
08/01/24 01:51:19 CUW3PUVd
お昼の方にもともと引こうと思っていた箇所とは違うものもあるのですが、
今は、これを引きます。ご参考になれば幸いです。
◎宿世の時、仏を見たてまつる者、楽〈この〉んで世尊の教を聴聞せん。
人の命、まれに得べし。仏、世にましませども、はなはだ値〈もうあ〉いがたし。
信慧ありて致るべからず。もし聞見せば、精進して求めよ。
この法を聞きて忘れず、すなわち見て敬い得て大きに慶ばば、
すなわち我が善き親厚なり。これをもってのゆえに道意を発せよ。
たとい世界に満てらん火とも、この中を過ぎて法を聞くことを得ば、
かならず当に世尊と作りて、将に一切生老死を度せんとすべしと(行巻、平等覚経)
◎且は宿世値遇の善縁に酬い、且は垂迹多生の調熟に依りて、
今、正法に帰して生死を出でんと欲す(六要鈔)
◎しかれば信心をおこして往生を求願するとき、
名号もとなへられ光明もこれを摂取するなり(執持鈔)
159:298
08/01/24 01:52:45 CUW3PUVd
昼間の時点で引こうと思っていたのは、たとえば、ここです。
◎十方衆生のなかに、浄土教を信受する機あり、信受せざる機あり。いかんと
ならば、『大経』のなかに説くがごとく、過去の宿善あつきものは今生にこの
教にあうてまさに信楽す。宿福なきものはこの教にあふといへども念持せざれ
ばまたあはざるがごとし。「欲知過去因」の文のごとく、今生のありさまにて
宿善の有無あきらかにしりぬべし。
しかるに宿善開発する機のしるしには、善知識にあうて開悟せらるるとき、
一念〔も〕疑惑を生ぜざるなり。(口伝鈔)
160:298
08/01/24 01:56:48 CUW3PUVd
>>154
いわゆる宗教体験と、弥陀の救いは、異なるような気がします。
「気がします」というのは、「いわゆる宗教体験」の方を、私はよく知らないからです。
>実際には、信後にも、疑いや、快楽、絶望、魔の誘惑に敗れることもあると思うのですが?
敗れることもあるどころか、敗れ、踊らされるばかりではないでしょうか。
凡夫ですから。
161:298
08/01/24 03:37:09 CUW3PUVd
近頃思うのは、「他力の中の自力」ではなく、「自力の中の他力」がある
ということです。
他力の中の自力は第二十願ですが、自力の中の他力は、
単なる想像であり、思い込みであり、「衆生の欲の投影」と揶揄されるものであり、
他力をいただいたと言いながら、むなしく堕ちて行く他力です。
聖道門でもなく、浄土門でもなく、外道である他力です。
162:298
08/01/24 04:27:08 CUW3PUVd
たとえば、宿善開発の行者が善知識に会い、六字の謂れを聞き開くならば、
「たちどころに他力摂生の旨趣を受得し、あくまで凡夫直入の真心を決定」
これを我が身に体験できるのです。ありがたき上にもありがたきこと。
罪悪深重の惑染凡夫には、もったいなき事。
しかし、そのような凡夫のための本願です。ますますもったいなき事です。
163:298
08/01/24 05:32:09 CUW3PUVd
>>116
◎自以所見問斯義耳(教巻)
164:298
08/01/24 06:21:45 CUW3PUVd
◎努力勤精進修善、願度世。可得極長生。(大経)
◎当求度世、抜断生死衆悪之本。(大経)
165:298
08/01/24 15:38:43 CUW3PUVd
カンタンなチェックリストを作りましたので、領解を確認する助けに
していただけたらと思います。
信前の方は、
・「弥陀をたのむ」とはどういうことか、わからないはずです
・「六字のいわれ」も、わからないはずです
・「易行」と言われても、わからないはずです
・「非行の行」と言われても、わからないはずです
・「他力の行」と言われても、わからないはずです
・「自力の心をふりすてて」と言われても、どうすれば良いか、わからないはずです
・「六字のすがた」もわからないはずです
・「南无阿彌陀佛の主になる」も、わからないはずです
・「一文不知の愚鈍の身になして」も、わからないはずです
信をいただけば、これらすべてがわかります。
166:神も仏も名無しさん
08/01/24 18:01:26 M6ijMP/+
>>160
>敗れることもあるどころか、敗れ、踊らされるばかりではないでしょうか。
>凡夫ですから。
信後にも、信仰を手放した場合、浄土へ行けず、地獄に堕ちることもあるわけですね。
因果の理法をくらますことはできないのですから。
167:神も仏も名無しさん
08/01/24 18:54:18 D9jK1PYu
地獄必定が凡夫。
それを、それゆえに
往生決定と為すが南無阿弥陀仏。
168:神も仏も名無しさん
08/01/24 21:55:31 D9jK1PYu
一度、南無阿弥陀仏の光明に摂取されたら、
後は、こちらが南無阿弥陀仏を忘れようが
非難しようが、決して光明から離れる事は無い。
だからこそ不退転であり、重ねて誓われた
光明名号・南無阿弥陀仏の救いなのだ。
他の仏様は見離しても、阿弥陀様は離さぬ。
南無阿弥陀仏様は私達を決して離さぬ!
169:神も仏も名無しさん
08/01/24 21:59:30 D9jK1PYu
彌陀をたのむ心が無い凡夫の私を
そのまま救う南無阿弥陀仏の有り難さよ。
170:神も仏も名無しさん
08/01/24 22:00:58 D9jK1PYu
この有り難さ、は他力回向の信楽である。
我が妄念にあらず。
171:神も仏も名無しさん
08/01/24 22:11:15 2Eh+7IJ3
南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏
172:神も仏も名無しさん
08/01/24 22:33:06 M6ijMP/+
信心決定ということにこだわると、神秘主義だといって否定する人もいますね。
173:神も仏も名無しさん
08/01/24 23:00:53 D9jK1PYu
否定したけりゃすればいい
南無阿弥陀仏は差別せぬ
ただ私達を光明遍照摂取している
174:sage
08/01/24 23:04:50 jep8gs8o
摂取不捨というからには、すでに決定した人はその後いくら敗れ、踊らされても地獄に堕ちることはないんじゃないでしょうか。
175:神も仏も名無しさん
08/01/24 23:08:03 D9jK1PYu
地獄は煩悩の事だと私は受け止めています。
命尽きる時、煩悩(地獄)は転じて涅槃(浄土)となるのでしょう。
南無阿弥陀仏の力によって!
176:神も仏も名無しさん
08/01/24 23:13:18 D9jK1PYu
それじゃおかしいな…
やはり煩悩と地獄は別かな…
煩悩の元が地獄って感じかなぁ
だから横超(本願力・南無阿弥陀仏)によって地獄との縁が絶たれる訳だ。
177:神も仏も名無しさん
08/01/24 23:46:11 M6ijMP/+
>>174
それでは、仏教の因果の理法に反します。
原始仏典中部第百十経『チューラプンナマ経』
「修行僧たちよ、世間において、不善なる人は次のような見解を抱いています。すなわち、
『布施は無意味である』『供犠は無意味である』『献供は無意味である』
『善くなされたものであれ、悪しくなされたものであれ、もろもろの行為にはその果報というものが、報いというものがない』
『来世は存在しない』『化生の生きもの(霊)というものは存在しない』
『この世と来世とを、みずからの身をもって知り、直接的に知って、それを説くような、
正しく歩み、正しく行っている道の人・バラモンは、この世には存在しない』
というものです。修行僧たちよ、このように、不善なる人は、不善なる人の抱く見解を抱くのです。・・・
修行僧たちよ、不善なる人というものは、このように不善なる属性を具え、不善なる人に睦び仕え、不善なる人のもつ考えをもち、
不善なる人のもつ思念をもち、不善なる人の語ることばを語り、不善なる人のする行為をし、不善なる人の抱く見解を抱き、
不善なる人の行う布施をして、肉体の滅びた後、死後には、不善なる人たちの赴く所へ生まれ変わるのです。
修行僧たちよ、不善なる人たちの赴く所とはなんでしょうか。
地獄、あるいは畜生です。」
178:298
08/01/25 00:26:05 W4UC9HIh
>>166
>信後にも、信仰を手放した場合、浄土へ行けず、地獄に堕ちることもあるわけですね。
>因果の理法をくらますことはできないのですから。
いいえ、そういうことは、ありません。凡夫に手放せる信ではありません。
弥陀の本願をさまたげるほどの悪は無く、また、それ以上の善も無き故に、
生涯ただ一度の廻心により、極楽往生が治定致します。
179:298
08/01/25 00:29:44 W4UC9HIh
>>177
無論、因果の理法は、破れません。御本典では、論註が引かれています。
◎問うて曰わく、『業道経』に言わく、業道は秤のごとし、重き者先ず牽くと。
180:298
08/01/25 00:34:58 W4UC9HIh
>>177
たとえ話を申します。平生において、大きな悪を為した方がいるとします。
たとえば、殺人を為しました。
この方が、臨終の際、自分の罪を、ちょっとですが、悔いました。
「何も、あんなことをしなくてもよかったのではないか」
このような方は、悪も為し、善も為しました。では、没後どうなるのでしょうか?
実はこれは、凡夫にはわからないのですが、しかしそれでも、因果の理法に照らした場合、
いくら臨終に多少良い念を出したとしても、平生における大罪によって
地獄に堕ちても、首肯できるのではないかと思います。
同じ様に、平生において、弥陀をたのむという無上善を為した方は、
そのあまりにもすばらしい善行を過ぎる悪が無き故に、
極楽往生が治定致します。
181:神も仏も名無しさん
08/01/25 00:41:38 5U1X8fmA
>177
末法濁世の私がまさに赴く所ですね。快と不快とを捨て、清涼となり、無執着でもなく、
諸欲を捨て、諸欲に打ち勝って生き、生死の終わりを知り、
円かなやすらぎに帰し、清涼なること湖水の如くなることもなく、
正しい智恵によって解脱し、寂静に帰した、そのような人の心は静かであり、
言葉も静かであり、行いも静かであることが微塵もない、
そんな私は、業報が地獄であれ、畜生であれ、天であれ、
未来永劫、輪廻の束縛から逃れることは無いでしょう。
たとえ、人界よりよい境涯に生まれても、その境涯に驕り高ぶり、
次生は地獄でありましょう。
地獄に生まれても、苦を受けることが自身の蒔いた種の報いとは
受け入れず、不当な結果と文句を繰り返し、不平と驕りと怒りに満ちて
その境涯から逃れることもできないでしょう。
ただたのむべきは弥陀如来。この方便がたとえ嘘であっても、
自業自得で地獄しか赴くところはない私なのですから、
受けるべくして受ける報い、仕方がありません。
南無阿弥陀仏
182:298
08/01/25 00:48:48 W4UC9HIh
>>181
しかし、仕方がないと諦めきれるなら、凡夫ではないでしょう。
183:298
08/01/25 00:54:34 W4UC9HIh
>>181
私は性根が悪いですからね、自分が原因で致し方ないことも、
頭でわからないでもありませんが、
それでも、地獄には堕ちたくありません。
だからこそ、弥陀をたのんだのです。
184:298
08/01/25 00:55:27 W4UC9HIh
>>181
これでもし地獄に堕ちたら、弥陀に文句を言いまくりますね。
185:神も仏も名無しさん
08/01/25 00:58:04 Ez6dcgcr
>>180
それは解ります。
しかし、こういう場合ではどうでしょうか?
若いうちに、信心を得て廻心された方がいたとします。
しかし、その後、その方は世相にのまれて、無神論唯物論のマルクス主義に洗脳されてしまいました。
その後、神や仏、来世、死後の世界は人を惑わすアヘンだといって憎むようになり、仏を誹謗中傷するようになってしまいました。
その後、暴力革命運動と反宗教活動のうちに一生を終えてしまいました。
こういう方でも、極楽に往生できますか?
それともやはり、一度真実信心を得たかたは、その確信が揺らぐことはないのでしょうか?
186:神も仏も名無しさん
08/01/25 00:58:56 5U1X8fmA
凡夫とは何をもって凡夫と言えるのか、私にはわかりません。
そして、何がわかった所で凡夫の浅智で理解しただけのこと。
私は釈迦牟尼世尊のお言葉を信じ、阿弥陀如来の願力にはからわれるばかりです。
凡夫の浅智はよりどころにはならないですから。
187:298
08/01/25 01:01:22 W4UC9HIh
>>185
それは、自力の信と他力の信を混同されていらっしゃると思います。
凡夫がどう思考しようとも、瞑想しようとも、読書しようとも、
根源無明をいかんともできないことは、なんとなく感じられますでしょうか?
同じ様に、凡夫がどう考えようとも、弥陀の信心をどうすることもできません。
一度治定した往生は、揺らぐことはありません。
188:298
08/01/25 01:03:41 W4UC9HIh
>>185
通常の人の考えからすれば、いわゆる普通の人生と、
185で例にあげられているような人生とでは、大きな差があるのです。
しかし、法の観点からすれば、凡夫の枠内に収まります。
人間から見て、ミジンコ同士の差がよくわからないようなものです。
189:神も仏も名無しさん
08/01/25 01:05:16 Ez6dcgcr
>>188
若いうちに、信心を得て廻心された方がいたとします。
しかし、その後、その方は世相にのまれて、無神論唯物論のマルクス主義に洗脳されてしまいました。
その後、神や仏、来世、死後の世界は人を惑わすアヘンだといって憎むようになり、仏を誹謗中傷するようになってしまいました。
その後、暴力革命運動と反宗教活動のうちに一生を終えてしまいました。
こういうケースでも極楽浄土へ行けるということですか?
190:298
08/01/25 01:05:36 W4UC9HIh
>>186
いえ、仕方がないと諦められるなんて、何てすごいのだろう、と、
尊敬の念で申したのです。
私には、とても無理ですので・・・
やはり、世の中には、すごい方がいるものだと思います。
私など、信心いただいていても、死ぬ直前には、
「死にたくないー!」と娑婆への執着が吹き出して、
バタバタしてもおかしくないくらいの泥凡夫ですから。
191:298
08/01/25 01:07:48 W4UC9HIh
>>188
「信心を得て、廻心されて」いるのですよね?
それであれば、極楽往生治定です。
信前の姿も、信後の姿も、問われません。
問われませんけれども、もし可能であるならば、なるべく善行しようと
試みるまでのこと。
それでも、あくまでも我らは凡夫ですから、追いつめられれば何でも
するかもしれないのです。
192:神も仏も名無しさん
08/01/25 01:08:20 5U1X8fmA
>183
弥陀をたのみまいらせるとよいですよ。
往生にはかしこき思いを具せずして、ただほれぼれと
弥陀の御恩の深重なること、つねはおもいだしまいらすべし
しかれば念仏も申され候ふ。これ自然なり。
わがはからわざるを自然と申すなり。これすなわち他力にてまします。
南無阿弥陀仏
193:298
08/01/25 01:09:49 W4UC9HIh
>>191
もちろん、この「信心」というのは、弥陀をたのんで、弥陀からいただいた、
真宗で言うところの、真実信心を指して言っています。
194:298
08/01/25 01:12:03 W4UC9HIh
>>192
こんなどうしようもない私でも救ってくださったのだなあ、と
よろこんでいるのです。
南无阿彌陀佛
195:神も仏も名無しさん
08/01/25 01:26:36 Ez6dcgcr
>>193
>問うて曰わく、『業道経』に言わく、業道は秤のごとし、重き者先ず牽くと。
一度の廻心(善)>仏を誹謗する&暴力行為&間違った思想〈悪見〉を世に広める(悪)
とても、こうは思えません。あの世までいって追跡調査しないと解らないのではありませんか?
196:298
08/01/25 01:30:20 W4UC9HIh
>>195
思えないのが当然ですので、難信之法であり、また、真宗が誹謗されてきた原因でもあります。
ちょこっとお話して、この感じ方が伝わるとも思えませんが、我らにとりましては、
弥陀をたのむのは、無上の善であり、我らにとりましては、
娑婆に生まれてきた目的を果たしたと考えているのです。
つまり、
一度の廻心(善)>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
仏を誹謗する&暴力行為&間違った思想〈悪見〉を世に広める(悪)
このような感じになります。凡夫が為す悪など、全く問題になりません。
197:神も仏も名無しさん
08/01/25 01:33:40 5U1X8fmA
>194
ある時には、こんなどうしようもないと思い、
ある時には、自分こそ本物であると思う、無明煩悩に流されて
刹那刹那消滅する心に翻弄されるお互いなのですから、
そんなあてならぬ心を真実と誤認するより、弥陀の五劫思惟にまかせまいらせましょう。
自余の行もはげみて仏に成るべかりける身が、念仏を申して
地獄にもおちて候わばこそ、すかされたてまつりてという後悔も候わめ。
いづれの行もおよびがたき身なれば、地獄ぞ一定すみかぞかし。
弥陀の本願まことにおわしませば、釈尊の説教虚言なるべからず。
南無阿弥陀仏
198:298
08/01/25 01:34:17 W4UC9HIh
>>195
私は実際、>>196のように考えていますが、ここは本来、他派他宗外道には、
あまり言わない方が良いところなのです。
なぜなら、誤解されるからです。悪を奨励しているのではありません。
後念相続により、御恩報謝の気持ちを開発し、できる範囲で善行する方が良いのです。
しかし、凡夫の悪は、極楽往生の障りにはなりません。
199:298
08/01/25 01:37:30 W4UC9HIh
>>195
それともうひとつ。これはあくまでも思考実験であり、妄想の世界のお話です。
実際には、因果の理法がありますから、そのような極端な事態は、
よっぽどの因がある方でなければ、起こらないでしょう。
それだけの因を持っている方であれば、致し方ないことです。
弥陀はそんなことで、捨てたり致しません。
ゆっくりとした変化ではありますが、信を得てからしばらくすると、
以前から考えれば、驚くほど丸くなる方がいると聞きます。
200:298
08/01/25 01:39:24 W4UC9HIh
>>197
私は疑い深いので、「自分は本当に弥陀をたのんだのか?」
「これが真実信心なのか?」「思い込みではないのか?」と
考えてしまうのです。
201:神も仏も名無しさん
08/01/25 01:42:11 Ez6dcgcr
>>199
納得しました。
202:298
08/01/25 01:45:39 W4UC9HIh
>>201
こんな短い説明で、ある程度でも納得できるなら、
かなりの可能性で、弥陀に縁のある方であると思います。
有縁を辿り、弥陀をたのんでください。その、生涯ただ一度の廻心により、
極楽往生が治定致します。
我らが廻心するための無上方便が、南无阿彌陀佛です。
203:神も仏も名無しさん
08/01/25 02:02:18 5U1X8fmA
>200
我思うゆえに我ありという言葉があります。この我を凡夫と置き換えたらどうなるでしょう。
凡夫思うゆえに凡夫あり。虚仮不実の凡夫が思う故に虚仮不実の凡夫あり。
正にパラドックスです。虚仮不実の私が疑ったことが、
正しい解答を導きことが出来るでしょうか。
疑うも、凡夫の思い。真実だと思うも凡夫の思い。
真実を凡夫の内に求めることが可能でしょうか。
もし可能でないならば、もはや真実は悟りの言葉に求めるしかなくなります。
若不生者不取正覚とは仏の言葉でありました。
凡夫の疑いなど、何様のものでしょう。悟りの言葉の前には、
閉口するより他ありません。
204:298
08/01/25 02:09:19 W4UC9HIh
>>203
疑ってばかりの凡夫を救う、弥陀の本願です。
凡夫の信など、全くたよりになりません。
南无阿彌陀佛という、はっきりとしたものがございます。
この六字のいわれを次第相承の善知識より聞き開き、弥陀をたのむまでは、
極楽往生は治定致しません。
どれほど救われたと思い込んでも、いたずら事ですし、
弥陀をたのんだのであれば、どんなに疑っても、極楽往生治定に変化はありません。
疑おうが、疑うまいが、どちらでも良いのです。ですけれども、凡夫であれば、
疑うのが通常です。そして、疑っても、障りにはなりません。
どんなに疑っても、地獄には堕ちません。極楽往生治定です。
閉口するも、しないも、どちらでも良いのです。弥陀をたのんだかどうかが肝心です。
205:298
08/01/25 02:12:45 W4UC9HIh
>>203
>若不生者不取正覚とは仏の言葉でありました。
これも、信をいただく前に信じろと言っても、無理でしょう。
信をいただいたからこそ、「仏説まこと」とわかるのです。
お聖教一文字も読まずとも、弥陀をたのめば信心決定致します。
206:298
08/01/25 02:20:24 W4UC9HIh
これは私の領解ですけれども、まずはとにかく信心為先であって、
弥陀から信心をいただき、それからお聖教を読みますと、
「仏説まこと」とわかりますし、お聖教と違わぬ信心をいただいたことが、
うれしくてうれしくて、ありがたくてありがたくて、となるものだと思います。
207:298
08/01/25 04:41:11 W4UC9HIh
>>201
仏の目から見れば、私たちが殊勝な心、良い心を起こしたつもりでも、
それは地獄往きの悪業であるのです。
良い心を起こしたつもりでも、名利も潜みます。
いわゆる悪人と自分を比べて、本当に自分が善人であるかということです。
つくづく、自分でもどうにもならぬので、弥陀をたのむのです。
208:神も仏も名無しさん
08/01/25 13:02:58 Ez6dcgcr
仏教では、新米出家者は、必ず先輩出家者(和尚)の弟子にならなければいけなかったし、
善知識という存在は、どの宗派でも、重要視されますね。
やはり、宗教は知識や学問とは違い、神秘主義的側面があるので、
覚者からの直接の口伝や、その人格を通じて霊的感化力にふれることで、覚醒が促されるということなのでしょう。
209:神も仏も名無しさん
08/01/25 20:58:17 TSJI4IdC
そのような場合もあるでしょうね。
そのように霊的現象を見させて導く事もあるでしょう
宿善ある人にそのように如来が回向してくださるのでしょう
短絡的に如来と書いたが、十方諸仏・諸菩薩方が縁ある人を見逃さないのでしょう
諸仏・諸菩薩方が十八願へと導くのでしょう
その謂れを人が受け入れた時、世界感は反転し、なにものにも妨げられない境地をも頂くのでしょう
210:298
08/01/26 04:51:49 hpPaAQGK
>>50
>問題を複雑化しているのは、298さんご自身だとは思いませんか?
問題の発端は、あなた様のご主張が、「(私の書いていることが)わからない」ではなく、
「(私の書いていることが)誤っている」という内容であることにあると思います。
「誤っている」ということであれば、そして、あなた様のように出拠にこだわる方であれば、
矛盾する出拠を書くことができるのではないでしょうか。
もし、出拠が無いのであれば、そして、「わからない」と感じるのではなく、
「間違っている」と感じるのであれば、あなた様の心の中に、是とされる教義があり、
それに基づいて判断されているのだと思います。
思い当たる教義があるのではありませんか?
それを明らかにせず、書き続けるのは、なぜですか?
211:神も仏も名無しさん
08/01/26 11:46:48 1g+fOa/j
質問ですが、
極楽浄土というのは、
臨死体験での報告、スウェーデンボルグ等の見霊者の報告、各種霊界通信(スピリチュアリズム、チャネリング)での報告、
諸宗教の説く死後の世界、超心理学(科学)等の主張する別次元高次元世界が実在するという主張、
とリンクしてくるものなのでしょうか?
それとも、全く別の観念的(空想、フィクション)なものなのでしょうか?
212:298
08/01/26 13:51:55 uU3H1urN
>>211
リンクするかどうかは、その内容まで知らないと、私にはわからないです。
それに、「リンク」の意味にもよります。
たとえば、死後の世界に全く興味のない方が、それらの内容から
興味を示し、なんとなく輪廻を感じて、死後のことを気にし出し・・・
という感じで、弥陀の救いに導かれてくる「リンク」もあると思います。
「全く別の観念的」ということですと、「観念とは何か」がむずかしくなってしまいます。
あなた様が認識している、この娑婆世界も「観念」とも呼べます。
弥陀の救いが何かということの概要は、一般に本がたくさん出ていますので、
それを読んでゆけば、わかると思います。
私がこのスレで書いている内容は、一般的な内容だけでは飽き足らない方のための
内容を中心にするように意識していますが、一般的な法話も、導きという意味で、とても大切です。
それとも、そのような法話を聞いたり読んだ上でのご質問でしょうか?
213:神も仏も名無しさん
08/01/26 14:52:27 1g+fOa/j
>>212
そんなややこしいことではなく、
単純な疑問ですよ。
真宗で言う死後の世界である極楽浄土と、
一般で言われるところの死後の世界(天国、黄泉の国、霊界等)とは同じなのか、違うのか?ということです。
最近では、霊能者の江原氏なんかが、霊界についていろいろ、言ってますよね。
そういう世界とどう違うのか?
また、ここでの言う観念的とは、娑婆世界と同じように死後の世界も実在すると捉えるのではなく、
浄土というのは、観念として(空想)のみの存在なのか?という意味です。
最近では、5割以上の方(外国では10割のところもある)が、死後の世界の実在を信じているそうです。
お坊さんは専門用語で誤魔化すので、このあたりの答えを明瞭に聞いたことはありません。
214:298
08/01/26 15:30:13 uU3H1urN
>>213
申し訳ありません、公開の場ですと、どのようなことばづかいをしたら良いのか、
よくわからない面もあるのです。
「単純に」ということですので、単純化して、私の考えを書きたいと思います。
また、本来、真宗は一切衆生を救うための教えですから、
難しくする必要はないですのに、簡単な程良いはずですのに、
ついついわかりにくい書き方をしてしまい、誠に申し訳なく思っております。
これは、私共の悪い癖でございます。
お聖教ほぼ読まずして救われ、救われた後も教学をなさらない方の
お話の方が、響くかもしれませんが、そのような方々は、
書くこともなさらないので、身近にいらっしゃらないと、
お話お伺いする機会も、なかなか無いと思います。
霊界についていろいろ、ということであれば、全然違うと思います。
極楽浄土がどのような場所なのかについては、往生要集に書いてありますので、
現代語訳をざっと読んでみれば、概要はつかめると思います。
弥陀をたのまない限り、弥陀如来の極楽浄土に参ることはできません。
一般に言われる霊界は、六道輪廻に近いのだと思います。
また、実在についてですが、弥陀に救われることを考えた場合、
娑婆世界と同じように実在するという捉え方で、何の問題もありません。
その捉え方の方が、簡単で実用的だと思いますし、
凡夫がそれ以外の捉え方をしようとすれば、難しくなってしまうでしょう。
我らからすれば、この娑婆世界そのものが、弥陀の救いのための方便なのです。
さらに興味あれば、信を獲られた後に、教学をすすめれば良いと思います。
ごまかす方もいらっしゃるかもしれませんが、捉え方の枠が違いますと、
ひとことで説明することも困難ですし、誤解を恐れる気持ちがはたらくこともあると
思います。後は、批判をおそれるのでしょう。場合によっては、信を獲られていない方も
いらっしゃるのでしょう。
この書き込みでも、疑問が残ると思いますので、どうか遠慮なさらずに、
不審の点を、重ねて問うていただけたら、ありがたく思います。
215:神も仏も名無しさん
08/01/26 15:58:28 1g+fOa/j
>>214
極楽浄土は、娑婆世界と同じように実在すると思っても差しつかえない。
しかし、一般的に言われている死後の世界(霊界)というのは、仏教でいう迷いの六道の世界に相当する。
極楽浄土は六道輪廻を超えた世界である。
こういうことですね。
しかし、一般的に言われている死後の世界(霊界)でも、最近の情報によると、
階層構造をなしており、より高次な世界、神々の住む世界、強制的な輪廻から解脱した世界があるということです。
仏教でいえば、無色界といわれる領域にあたります。
こういうことは、西洋の神智学、人智学、アランカルディック等の霊実在論哲学、新宗教、ニューエージ思想等でも言われています。
極楽浄土と、このような高次な世界がリンクする可能性はありませんか?
216:298
08/01/26 16:10:23 uU3H1urN
>>215
高次な世界は天界どまりだと思います。
天界においては、寿命が非常に長い世界があります。
そこの住人は、自分の寿命を無量と誤解しているケースがあることが、
仏典に記述してあります。
そこまでの知識がおありであれば、仏典の現代語訳に直接あたってみていただければ、
得るものが多いのではないかと思います。
解説書を読むよりも、現代語訳をおすすめします。
極楽浄土とのリンクですが、極楽浄土から、他の佛国土へと、還相廻向となって、
済度に生まれることができます。
佛国土ごとに、また六道を具しています。(六道すべてが有るとは限りません。)
どの佛国土に生まれるにしても、その生まれるのは「果」ですから、
「因」が必要です。
阿弥陀如来の極楽浄土に生まれるためには、「南无阿彌陀佛」という因が必要です。
私も、自分が救われることと、有縁の方が救われることを優先して学びましたので、
仏教のコスモロジー(宇宙論)には、詳しくありません。
ここに書いたことにも、間違いがあるかもしれません。
ですけれども、弥陀をたのまずして、極楽浄土に生まれることは、無いはずです。
217:神も仏も名無しさん
08/01/26 16:38:48 1g+fOa/j
>>216
ありがとうございす。
極楽浄土と仏教のコスモロジーである三界(欲界・色界・無色界)との関係について、調べてみたいと思います。
218:神も仏も名無しさん
08/01/26 16:39:45 1g+fOa/j
訂正
ございす→ございます
219:298
08/01/26 16:43:46 uU3H1urN
>>217
今手元にありませんが、比較的入手しやすい経典があれば、
今晩にでもお調べして、経典名もご紹介したいと思います。
「三千大世界」などもキーワードですので、調べてみて下さい。
漢文経典は、一切経がインターネットで公開されているのですが、
敷居が高いです。基本的には、春秋社から出ている原始仏典が
(現代語訳ですので)読み易いと思います。
漢文が大丈夫であれば、とてもアクセスしやすくなります。
220:298
08/01/26 16:52:46 uU3H1urN
>>217
私は一切経を通読しておりませんが、私たちの間では、
一切経を幾たびも通読すると、その結論として、「南无阿彌陀佛」が
浮かび上がってくるというようなことが言われているわけです。
そのようなことを、素朴に信じているわけですね。
ですので、いろいろ学ばれると、良いと思います。
221:神も仏も名無しさん
08/01/26 17:00:56 1g+fOa/j
>>220
素朴な信仰は、素晴らしいですね。
ついでながら、高次な世界の無色界というのはやはり、天界より上位になります。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
222:神も仏も名無しさん
08/01/26 18:03:45 1g+fOa/j
どう考えればいいのでしょうか?
浄土 (ジョウド )
菩薩は成仏を目指して修行する。その修行の成果は、彼が仏に成った時に住むことになる新世界=「仏国土」に反映される。
この「仏国土」こそ「浄土」に他ならないと一般に理解されているが、実は「浄土」と云う観念は中国で形成されたものなのである。
インドでは「仏国土」は想像されたが、これは「浄土」ではない。仏国土を「pure land」と捉えたのは中国人の願望だったのである。
従って、大雑把に言えば「浄土」に関する信仰は漢訳仏典の世界にのみ存在するものである。
しかし、ここでは「浄土」に関する言説を扱うので、受容した側の心性に合わせて「仏国土=浄土」と前提して話を進めることとする。
さて、最も有名な浄土は阿弥陀仏の西方極楽世界である。
極楽世界は阿弥陀仏の本願によって創造された。大地も街路樹も何から何まで宝石でできていて、
全てが金ピカに輝いている豪壮な世界である。
この極楽の起源については、アフラ・マズダーやアメンテやエデンの園やエリューシオンやヴァルナやヴィシュヌやヤマや転輪聖王や
北倶盧州や他化自在天や梵天や仏塔や…に結び付けて諸説紛々だが、定説は無い。
さて、極楽が余りに有名になったので、後から造られた浄土創造の神話は何某かの形で極楽を引き合いに出さざるを得なくなった。
例えば薬師如来の東方浄琉璃世界は極楽と全く同じ作品である。
それどころか文殊菩薩は、大海と水滴の差くらいに極楽よりも優れた浄土を建設する。
果ては部下であるはずの観音菩薩までが弥陀を乗り越え、極楽の更に百億万倍優れた浄土を建設すると云う神話まで現れる。
ライバル阿シュク如来の東方妙喜世界には極楽世界との比較は無い。しかし同じ理想の世界に大した違いができる訳が無く、
多くの類似点が、特に初期の極楽浄土との間に見受けられる。
但し、釈迦如来がこの娑婆世界そのものを浄土としたように、浄土は三界の外とは限らない。
223:神も仏も名無しさん
08/01/26 20:17:21 RFwT4BzL
凡夫の私が阿弥陀仏の極楽世界に生まれることができるなら、それ以上はないと考えます。
224:神も仏も名無しさん
08/01/26 21:09:42 PXUiKO4d
>>223
南無阿弥陀仏
225:298
08/01/26 21:38:06 uU3H1urN
>>222
まず、ご引用のテキストなのですが・・・
とりあえず、そこに書かれていることは、あまり気にせずに、
もっと一般的な本から読まれることを、お勧めします。
あまり真剣に浄土を求めている方の文章とは、
感じられないのです。
「一般的」と言っても、主観が入りますし、
何をより真実と思うかも、各自各様ですけれども、
たとえば、岩波文庫の三部経ですとか。
そして、私たちの考えでは、釈尊の教えがずっと相承されてきていて、
今に伝わっているということになるのですから、
「極楽の起源」は、「釈尊の説法」ということになります。
それは、おそらく少数派の考え方でしょう。
ほとんどゼロに近いくらいかもしれませんね。
「本当に易行です」と言い切るだけでも、少数派かも知れないくらいです。
ですから、「何を本当と感じるか」は、各自各様であると言えると思います。
226:298
08/01/26 21:46:42 uU3H1urN
>>221
リンク先を見てみましたが、よくわからないですね・・・
輪廻を抜けるのは、滅界からだと思っていたのですが。
上にも書きましたが、実際不勉強ですので、違うかもしれません。
極楽浄土との関係等、わかりましたら、教えてください。
227:298
08/01/26 22:06:37 uU3H1urN
>>223
本当に、そうですね。本師本佛が、我らのために建立してくださったわけですからね。
しかも、南无阿彌陀佛という招待券つきです。自力では、行けないくらいの場所ですから。
なんとたとえたら、いいんでしょうね。
たとえば、ディズニーランドの入場料が一千兆円だとして、凡夫はそんなに稼げないので、
しかもお金であげるとロクなことに使わないですから、一千兆円の価値がある入場券を
プレゼントする感じでしょうか。
228:神も仏も名無しさん
08/01/26 23:14:14 1g+fOa/j
>>225
>「極楽の起源」は、「釈尊の説法」ということになります。
>それは、おそらく少数派の考え方でしょう。
>ほとんどゼロに近いくらいかもしれませんね。
>「本当に易行です」と言い切るだけでも、少数派かも知れないくらいです。
>ですから、「何を本当と感じるか」は、各自各様であると言えると思います。
少数派を誇るのであれば、一般的な心霊主義(オカルト)もそうですね。
現代においては、もったいぶる(秘儀ぶる)は必要はないでしょうね。
229:298
08/01/26 23:35:45 uU3H1urN
>>228
必要があるかはわかりませんが、そのようなことになっております。
228様の信じる道を行かれたら、よろしいと思います。
230:神も仏も名無しさん
08/01/26 23:44:15 1g+fOa/j
>>229
>そのようなことになっております
人ごとですか?
231:298
08/01/26 23:45:24 uU3H1urN
>>230
すみません、端的な表現で、意味がよくわかりません。
できましたら、いま少し御説明を御願いします。
232:神も仏も名無しさん
08/01/26 23:58:20 1g+fOa/j
>>231
>そのようなことになっております
というのは、他人行儀な表現であって、
本音ではなく、たてまえで、そうあるべきはずなのに、と言う意味にとれます。
あなたの本音では、
「一般的な死後の世界と極楽浄土の違いはよく解らないけど、違うようにした方が付加価値が付く」
もしくは、「求道した私の考えと、一般庶民とは違う」と、
もしくは、「これ以上の対話は出来そうもないので、適当にあしらっておこう」
と思っているのではという疑惑が生じたのです。
233:298
08/01/27 00:08:18 BSmRIUGS
>>232
なるほど、そういうことですか。他の方からも、たびたび私のことば不足で
疑いを引き出してしまっており、誠に申し訳なく思います。
お手数かけてしまいましたが、ご説明くださり、ありがとうございます。
このスレを見るだけでも、幾分かは感じられるかと思うのですが、
もちろん、できますことならば、弥陀の救いを説きましたときに、
「なるほど!」と多くの方が帰命してくださるならば、
そんなにうれしいことはございません。
ひとりでも多くの方が、今生にて弥陀に救い摂られることを望んでおります。
しかし、現実問題として、これは難信之法であり、
うなづく方がなかなかおりません。
私のはからいを超えた出来事である、というような意味です。
私が望んだところで、どうにもならず、これは、弥陀のお育てに
おまかせするしかない所なのです。
それに、信じない方を強く説得するようなことはしてはいけないことになっているのです。
もちろん、不必要な誤解は招かぬように、表現には気をつけねばなりません。
たびたび指摘されているのですが、いまだ十分に改善できていないということだと思います。
ですので、思うところを説明してくださると、本当に助かります。
234:298
08/01/27 00:11:40 BSmRIUGS
>>231にて、「端的でよくわからない」と申しましたけれども、
そもそも、>>229の私の発言が端的であり、わかりにくいものであったと
反省しております。
振り返りますれば、表現の手間を省いてしまったことは、否めません。
誠に申し訳ないことです。私は至らぬ凡夫ですが、弥陀は本物です。
235:あんこ入り☆パスタライス
08/01/27 00:28:46 88W4/AzT
>>234
298さん、よろしくお願いします
他者に対して
> 弥陀は本物です
と言い切れる理由を教えて頂きたいと思いました
私としては「私は~と思います」と言うのが自分の考えや理解を他者に表現する限界だと思っているのでこう思いました
236:298
08/01/27 00:29:18 BSmRIUGS
>>232
また、私は、自分自身の本音もよくわからないような修行の足らない凡夫ですので、
私の本音も、ご指摘の通りかもしれません。
自分のことは、自分ではよくわからないと言いますから・・・
ひとまず、自覚している内容をお書き致します。
>一般的な死後の世界と極楽浄土の違いはよく解らないけど、違うようにした方が付加価値が付く
これは、付加価値が付くというよりは、「実際に違う」というように考えております。
私の主観的な気持ちを申しますならば、弥陀をたのむ前と、後とでは、
死後への不安が全く異なります。現在では、「救われて良かった」と安堵しております。
しかし、今後この気持ちがどう変わるのか、凡夫の私には、自分のことながら、
わからないのです。
>求道した私の考えと、一般庶民とは違う
これは、「一般庶民」あるいは「求道」のニュアンスのなのですが、
真宗の救いというのは、「南无阿彌陀佛」の六字にすべておさまっており、
そして、この六字は、易行なのです。ですので、誰でも行ずることができる
非行の行なのです。
この行を行じた方を、人中の分陀利華、あるいは、妙好人と呼びまして
讃えるわけですが、易行ですから、望む方であるならば、誰でも行じることが
できるのです。
私も、あくまで一般庶民であります。偉いのは、弥陀なのです。
ごく当たり前の一般庶民が、弥陀如来のご修行の成果を受け取る易行が
南无阿彌陀佛でございます。
私が偉いのではありません。よく思い出すのは、イソップ物語の、
神像を運ぶロバです。岩波文庫のイソップ寓話集を近くに置きまして、
戒めとしております。182のお話です。とても短いお話ですが、
真宗の獲信者にとりまして、本当に大切なお話であると思っております。
237:神も仏も名無しさん
08/01/27 00:33:46 R46LctlO
298さんは、信心を得ていらっしゃるのは良く分ります。
そして、真摯な対応からも、一人でも多くの人に信を得て欲しいという気持ちも良く分ります。
やっぱり、信を得るということは、凄いことだし、憧れでもあります。
一般的な疑問としては、やはり、真宗で言う極楽浄土と、
超心理学や一部の物理学者、霊能者、宗教家の言う死後の世界
との関連を、是非とも、究明していただきたいと思うのであります。
それは捉え方が違うとか、違う世界だとか、空だとかいわずに、現代的な言葉で語ることが、
「なるほど!」と多くの方が帰命することになるのだと思うのです。
私の本音としては、一宗一派にこだわらず、万教同根だと、言ってほしかったのです。
238:298
08/01/27 00:36:08 BSmRIUGS
>>235
これは、うまく表現できませんが、たとえば、「明日は月曜日です」というのは、
凡夫でありましても、通常断言ができる範囲であると思います。
実際、獲信しまして、南无阿彌陀佛を体験致しまして、
また、お講にて他の獲信者とお会いしまして、
善知識様からお話を聞きまして、また、自身の経験からも、
そして、御文様等を読んでおりましても、また、生活の変化からも、
生活上の実感からも、「これは、確かに仏法だ」と私は嘆息致しました。
断言と言っても、「~と>>235
これは、うまく表現できませんが、たとえば、「明日は月曜日です」というのは、
凡夫でありましても、通常断言ができる範囲であると思います。
実際、獲信しまして、南无阿彌陀佛を体験致しまして、
また、お講にて他の獲信者とお会いしまして、
善知識様からお話を聞きまして、また、自身の経験からも、
そして、御文様等を読んでおりましても、また、生活の変化からも、
生活上の実感からも、「これは、確かに仏法だ」と私は嘆息致しました。
断言と言っても、「~と思います」の強い形であることは、間違いないことであると思います。
ですから、「絶対に絶対に絶対ですか?」と問われますならば、
「そう信じております。真実は違うかもしれません」と答えざるを得ません。
これは、私の認識能力はたいしたことありませんから、
私自身、強く思い込んでいるに過ぎず、誤解しているかもしれないからです。
「強く信じています」と毎回明示して表現致しますと、
かえって誤解されそうですので、断言形で書いている感じです。
思います」の強い形であることは、間違いないことであると思います。
ですから、「絶対に絶対に絶対ですか?」と問われますならば、
「そう信じております。真実は違うかもしれません」と答えざるを得ません。
これは、私の認識能力はたいしたことありませんから、
私自身、強く思い込んでいるに過ぎず、誤解しているかもしれないからです。
239:298
08/01/27 00:48:52 BSmRIUGS
>>237
真宗は、昔から、「おかしく、汚き宗」であると言われているのです。
「衆生が欲に踊らされて、夢を見ているだけ」のように批判もされますし、
仏法者でありますならば、「衆生をだまして仏道から遠ざけている」のような
批判もされるのです。
そしてそれは、無理が無いことだと、自分でも思います。
転生を重ねながら修行していらっしゃる禅宗の方がいらっしゃるとします。
我ら凡夫よりも、当然のことながら修行が進んでおり、
心境も進んでおります。
しかし、真宗の教義というのは、そういう方々をさておいて、
一念帰命致しましたならば、盗賊団に属するような方々でも、
手のひらを返すように、簡単に次如弥勒の等覚の位に住すると言うのです。
信じろという方が無理なことも、わかるのです。
ですけれども、希にこのような変わった教えを信じてくださる方が
いらっしゃいます。
ひょっとしたら、将来、物理学等で、解明もされるのかもしれません。
そうなれば、より多くの方が一念帰命するのかもしれません。
すべて、弥陀が計画されていると思います。
真宗では、すべては、南无阿彌陀佛につながる方便である、のような
捉え方を致すのです。これを、そのまま他宗や仏教徒でない方に言いましたら、
「なんと傲慢な!」と思うでありましょう。
これはどうなっているかと言いますと、「あくまでも、私にとりましては」という
ことになります。
私という悪機は、弥陀にたよらざるを得なかった、という捉え方になります。
ご自身で修行のできる尊い方は、そちらで求道してゆけば良いのですが、
自分ではどうにもならない私たちは、弥陀をたのんで、
弥陀に救っていただいたのです。
私の場合も、いろいろなものにおちこぼれまして、おちこぼれておちこぼれて、
最後に一番低い、弥陀の救いに救い摂っていただきました。
弥陀は機を問いませんので、一番低く、一番広い救いであると私は
思っております。
240:298
08/01/27 00:52:54 BSmRIUGS
>>238
うまく書き込めず、読みにくくなってしまいました。
申し訳ありません。
241:298
08/01/27 00:58:47 BSmRIUGS
>>237
>やっぱり、信を得るということは、凄いことだし、憧れでもあります。
信を獲ることは、とてもとても凄いことだと、私も思います。
そして、私も憧れ、求めました。
弥陀の救いの場合は、凡夫の側には、何も難しいことはありません。
とても凄いことが、簡単にできる、だからこそ、本当にすごい、と
私は思っています。
難信にして易行、易行にして確実です。
易行というのは、「こんなに易しいのに、なぜわからないのだ!」のように、
人をいじめるための詭弁ではありません。実際に、易しいのです。
242:神も仏も名無しさん
08/01/27 01:00:48 R46LctlO
>>239
それは、他の宗教でもそうですよ、罪は許されます。
宗教間対話が望まれる時代において、
弥陀=神(宇宙意志)
だと思ったら駄目ですか?
弥陀というのは、特殊な神なのですか?
それともやはり、「南無阿弥陀仏という称名」という行為にこだわらないといけないのでしょうか?
243:298
08/01/27 01:02:33 BSmRIUGS
>>232
>これ以上の対話は出来そうもないので、適当にあしらっておこう
このように感じられてしまうのは、2つの理由があると思います。
1)他宗他派他人の誹謗は避けよと教えられています。
2)他州他派他人に(仏法を)誹謗させてはいけないと教えられています。
後者につきましては、先方からすれば大きなお世話かもしれませんが、
我らからすれば仏法の誹謗は大罪でございますので、
そのようなことをさせるわけには参りません。
ですので、小出しに小出しにお話することになります。
244:あんこ入り☆パスタライス
08/01/27 01:03:27 88W4/AzT
>>238
298さん、率直にご自身のお考えをお答え頂きましてありがとうございます
298さんにも、他者に「弥陀を本物だ」と言い切れる理由はないと理解しました
でも、私の理解が間違っていたら訂正してくださいね
私は「弥陀を本物だ」と他者に言い切れるようになりたいと思っていましたが、獲信後にID:R46LctlOさんが言われる方向で思索した結果それが無理なことだと思いました
それなので、なぜ言い切れるのだろうと疑問を抱いたわけでした
245:298
08/01/27 01:09:08 BSmRIUGS
>>242
真宗では、弥陀は本師本佛と言われます。
久遠の弥陀がおりまして、辿ればすべての如来も、
弥陀の導きによって成仏したと言われます。
宇宙意志云々に付いては、できましたら、
原始仏典第一巻第一経(春秋社)をお読みください。
弥陀は、宇宙意志ではありません。
宇宙を超えて届く光を発しておられます。
「神」という単語の定義にもよりますが、
弥陀はこの宇宙の創造神でもありませんし、
それに、仏教では、複数の宇宙を扱いますし、
宇宙の寿命よりも、さらに永い時間についても扱います。
我らが捉える真宗では、「南无阿彌陀佛という称名」には、
どうしてもこだわらねばなりません。
真宗から南无阿彌陀佛を取りましたら、もはや真宗ではありません。
南无阿彌陀佛を取り出しまして、残りを抽象化することは、
できないのです。
逆に、南无阿彌陀佛だけを残しますなら、これは真宗です。
これは、信を獲りましたら、わかります。
246:298
08/01/27 01:15:17 BSmRIUGS
>>244
あんこ入り☆パスタライス様は、獲信者でいらっしゃいますか?
では、>>165のリストは、わかりますでしょうか?
あんこ入り☆パスタライス様の信心は、おそらく、>>165は
通過できると感じる可能性があると思います。
しかし、もし、齟齬の感覚がありますならば、それを大切にしてほしいです。
ですので、あんこ入り☆パスタライス様のために加えますならば、
「もし、有縁の方で求める方がいらっしゃるならば、
カンタンに獲信していただくことができますか?」です。
>>245にお書きしたこととも関連致しますが、
南无阿彌陀佛は弥陀の無上方便であって、
俗諦です。真諦には、どのようにアクセスしたか良いかわからぬ
私たちのための、方便です。
あんこ入り☆パスタライス様の信心では、
南无阿彌陀佛が必須でしょうか? 南无阿彌陀佛抜きでも、
思索によって得ることできる信心でしょうか?
247:神も仏も名無しさん
08/01/27 01:21:53 R46LctlO
>>245
>複数の宇宙を扱いますし、
>宇宙の寿命よりも、さらに永い時間についても扱います。
これは古代の秘儀や、神秘主義、オカルティズム、ベーダなどのインド思想、シャーマニズムも同じです。
ヘルメス学とか、古代エジプトの「エメラルドタブレッド」とか知ってますか?宇宙思想について説いてますよ。
「神」というのは、昔からの腐るほど議論し尽くされています。
むしろ、現代よりも、「神」議論、「神」信仰は活発だったのですよ。
もちろんそれは、大乗仏教における、ビルシャナブツ、大日信仰しかり。
阿弥陀は至高神なのか、それとも人格神なのか、精霊なのか、観念なのか、妄想なのか?この答が知りたいのです。
248:あんこ入り☆パスタライス
08/01/27 01:26:48 88W4/AzT
>>246
> あんこ入り☆パスタライス様は、獲信者でいらっしゃいますか?
自分ではそう思っています
> では、>>165のリストは、わかりますでしょうか?
自分の理解でいいのであれば分かります
しかし、私の言う「分かる」と298さんの仰る「分かる」同じかは分かりません
ですので、正確には「分かるとも分からないとも言えます」としかお答えすることができません
> 「もし、有縁の方で求める方がいらっしゃるならば、
> カンタンに獲信していただくことができますか?」です。
私は救済者ではないので分かりません
何をもってカンタンと判断すればいいのかも分かりません
ごめんなさい
> >>245にお書きしたこととも関連致しますが、
> 南无阿彌陀佛は弥陀の無上方便であって、
> 俗諦です。真諦には、どのようにアクセスしたか良いかわからぬ
> 私たちのための、方便です。
> あんこ入り☆パスタライス様の信心では、
> 南无阿彌陀佛が必須でしょうか? 南无阿彌陀佛抜きでも、
> 思索によって得ることできる信心でしょうか?
私にとっては必須だったと思います
ただし、南无阿彌陀佛の六文字に限定する必要はないと私は理解しています
親鸞さんもそういう理解だったと把握しています
249:298
08/01/27 01:40:11 BSmRIUGS
>>247
もし、その答を今生にて本当に知りたいということでしたら、
私の知る範囲では、易行門ではなく、聖道門に入り、
神通を得るためにご修行なさるしかないのではと思います。
ただし、私はそちらには詳しくないのです。
弥陀の救いは横超の道であって、自身は縦に登らなくとも、
他力によって、わからぬままで、救い上げてもらうのです。
私は2chにも詳しくないのですが、聖道のスレもあるのでは
ないでしょうか?