08/01/30 14:01:47 vXfK6vNX
>>416
確かに、このような公開の場でお話できることには、限りがあります。
しかし、それでただ沈黙してしまっては、ご縁にならないでしょう?
ですから、御開山も御本典を遺されましたし、蓮師も御文を遺されました。
そして、一般の方向けに、法話もなさったのです。
法話は、角有るところを聴かねばなりません。
そして、宿善の機は、「足りないお話」であることに、気付くのです。
御本典を読むにしても、御文様を読むにしても、
「結局、南无阿彌陀佛が何かは書いていないじゃないか! どうすればいいんだ?」
と嘆くような読み方、それでも諦めきれずに、本の中に探すような読み方が良いのです。
それでも、
◎『御文』はこれ凡夫往生の鏡なり。『御文』のうへに法門あるべきやうに
思ふ人あり。大きなる誤りなりと云々(聞書177)
です。ですけれども、納得行くまでは、探されたらよいのです。
いずれは、「善知識を尋ねよ」と書いてあることに気付くでしょう。
南无阿彌陀佛