08/01/23 15:59:39 ggD3xGqV
>>125
これは、私の書き方が悪いです。お詫び致しますと同時に、
問うていただけましたことに、感謝致します。
続きをお書きしますが、わかっていただけるかわかりません。
ご不審があれば、また問うていただければうれしいです。
宿善の有無を見るというのは、「無」というのは、「開発前」も含むのです。
そして、無宿善の機に正雑二行の沙汰をしないというのは、
「南无阿彌陀佛が何か」を伝えないということです。
もちろん、一般の法話は致しますし、示談も致しますし、
見捨てるわけではないのです。
見捨てるどころか、信を獲ってほしいと望んでいるのです。
凡夫が下すとは言っても、明らかに知れるようになっていますから、
間違いはめったに無いと思います。
それに、間違いがあったとしても、次第相承の善知識もひとりではありません。
(基本的に、間違いは無いとは思いますが・・・)
凡夫が下すというよりも、弥陀が明らかに示してくださると
お考えいただければと思います。
だからこそ、佛智不可思議と実感できるのです。
これは見事に、分かれるのです。
自他の宿善の有無は、信前にはわかりません。
開発されているかどうかは、わかります。
開発というのは、宿善の機が、その生において、開発するのです。
ご不安は、理解できると思っていますが、求める方は、
信をいただけるのですから、心配要らないと思います。
宿善の機は、生涯のどこかで、その宿善が開発され、
法を求め、信をいただき、生涯一度の回心を致し、極楽往生が治定致します。