07/12/28 19:39:20 IvwxoWV6
Ⅱ
真のヴィパッサナーをしようと思う者、本当に心を観察しようと思う者は、坐る前にこのように決意し、誓うがいい。
「私はいままで心の中にある恐怖や不安、嫌悪感、劣等感から逃げてきた。しかし、もう逃げはしない。心の中に現れるものを全て逃げずに観察する」
と、自分自身に強く誓うのじゃ。
そして坐るがいい。
もはや逃げないと、今まで逃げて隠したりしてきた恐怖や不安、嫌悪感、劣等感、孤独感、悲しみ、苦しみなどが襲ってくるじゃろう。
そなような思いを、誓った通りに逃げずに観察するのじゃ。
恐ろしいなら恐れていると、不安なら不安だと、嫌悪するなら嫌悪していると、劣っていると感じるならなら劣っていると感じていると、孤独なら孤独だと、全て観察するのじゃ。
この今まで逃げていたものの観察は、非常につらいものじゃ。
泣きたくなることもあるだろう。そのような時は泣いてもいい。
苦しみにもがきたくなることもあるじゃろう。そんな時はもがくがいい。
そして、悲しみの故に目から涙を流していると、苦しみを因としてもがいていると観察するがいい。
修行は誰かに見せる為のものではない。涙を流し、もがき苦しみ、狂える者の如く這い回り、ちっぽけな自分に絶望し、それでも観察し続けるのじゃ。
何もかも観察するのじゃ。
いつまでこんなに悲しみ、苦しむのかと思ったら、そのように思っていると観察するのじゃ。
もう止めたいと思ったら、もう止めたいと思っていると観察するのじゃ。
何が心に浮かぼうと、観察し続けるのじゃ。心に生じる何もかも、全てを観察するのじゃ。
そのように何もかも観察し続ければ、しまいには自我を支えるものが全て解体し、坐る動機も意味も無くすじゃろう。坐る動機が無くなった時、坐る意味も無くなった時、始めて本当に坐る事が出来るじゃろう。
そのようにして坐った時、真の観察である観照が始る。
何が観察しているのか、観察しているものは何なのかと、観察しているものの観察が、主体無くして起こるじゃろう。
その時が来るまで観察を続けるのじゃ。