【浄土真宗】妙好人と学ぶ【信心獲得(決定)】at PSY
【浄土真宗】妙好人と学ぶ【信心獲得(決定)】 - 暇つぶし2ch1:神も仏も名無しさん
07/12/24 15:34:58 b8Uai8Go
真実信心について語りあうスレです。
(※特定の団体個人を叩くのは他の専用スレで)

2:神も仏も名無しさん
07/12/24 15:38:42 b8Uai8Go
スレリンク(psy板:763番)

私も学問沙汰に偏りがちなチンピラだけど、文証、理証がなきゃ危ないと考えている。
度海難みたいなのは昔からウヨウヨいたわけで。

>この文をのせた意味は信を得た行者は還相回向の菩薩ですから有縁もしくは
>十方衆生(すべての生類)をも願いの願によって(十八願)済度できますよ

お東!?
往還分斉が安心論題に入ったように、それについて西は神経質だよ

3:神も仏も名無しさん
07/12/24 15:42:54 //SVLT0h
>>1
「親鸞会の人と渡海難は出入り禁止」って書けよ。

4:神も仏も名無しさん
07/12/24 17:27:11 sWQrX/Ix
よろすこ1乙

前スレ>>762さん
うおー、ありがとうございます。
もういっかい味わってみたいと思います。


5:神も仏も名無しさん
07/12/24 17:31:31 sWQrX/Ix
700代で500Kオーバーなんてあまりなかったから思わずアク禁かとおもたよ

6:神も仏も名無しさん
07/12/24 18:47:46 b8Uai8Go
>>4
該当部分を貼っておきます

教行信証講義録 P124
その次に何がでておるか。
 『仏説諸仏阿弥陀三邦三仏薩楼仏檀過度人道経』(大阿弥陀経云二十四願経ト云)言「第四ニ願ズラク……終不作仏(真聖全二・六頁)
 異訳の経を引いて助顕なさる。この異訳の文を引かれるところに、ちょうど第二十の願にあたるような文がそこ
にあるというのが、古人の解釈の中にあるのです。これから後の文が『平等党経』の阿闡世太子について説かれた
文も引いてあるが、その中に宿善というて第二十願の意味がそこにでておるという。それでそこが二つのものの考
え方になる。なぜかというと、二十の願というものを宿善という。二十の願を宿善とみるみ方は、「化巻」 の第二
十の願の解釈のところにもその意味がでてくるのです。
 「化巻」の上で、もし第二十の願を宿善とみるみ方があるとすれば、これは宿善分斉であってまだ本当のものに
はなっておらん。熱しておらぬという簡びの文である。こういう意味で第二十の願の程度ではまだ宿善であるとい
う。それを通らねばだめかというと、そういうことをいうたのではなくして、宿着分斉であるということは、まだ
本当のものではないという簡びである。「簡去」 の意味でいうたのである。そうすると「行巻」のこれから後の異

7:神も仏も名無しさん
07/12/24 18:48:33 b8Uai8Go
>>6続き

訳の文の中に、この第二十の願の意味にあたるものがでてくる。後に偈文がでてくるでしょう。ずっとその後に、
称名破満の前のところ、『悲華経』の前のところに短い偈文がでてくるでしょう。そこに宿善の意味がやはりでて
くるのです。それで阿闍世王太子のことがそこへでておる。そういうものをこめて宿善だという。これで宿善まで
も大行のおんはたらきだといういい方が昔の人の中にあるけれども、これはやはり区別する簡びである。宿善分斉
のものとは違うぞという簡びである。こういうみ方と二つになっておるのです。いま大行の場合の十八厭の行者の
口にのぼってくる念仏は、名号がそのままでてきておる。即名号のものであって、第二十の願の宿善分斉の程度の
ものとは違うぞと、やはり簡びの意味である。このように、宿善までも名号のはたらきであるとみる一つのいい方
と、いやそんなことではなくて、あれは区別するためであるといういい方と二つありますので、私達が昔からやっ
てきたのでは、これを簡びとみるのです。区別である。「化巻」と同じょうに区別とみるのである。それが出体釈
と対照する。こういうふうにみてゆくのです。これをみんなはいろいろ末註を調べて、自分自分で考えてもらいた
いと思う。自分で研究をして多いに議論をたたかわせてもらうところまでいってもらわねばならぬ。引文のところ
は自分自身で科段をきってくるのだね。先年(昭和四十四年)再版したあれ(研讃集記)の中に科段がきってありま
すから、あれを持っておる人はそれをみる。持っておらない人でも、誰かにみせてもろうて、あの科段を一遍みて
ごらん。科段は昔我々がやった科段そのままなので、あれでみてもらう。その上でそれぞれの末註をはみて、それで
自分の考えを練ってくる。そうして、それを高祖の釈で結ぶ。こういうことをしてゆかねはならん。

8:神も仏も名無しさん
07/12/24 19:05:05 sWQrX/Ix
おおー、ありがとうございます。m(_ _)m
全部読んで咀嚼してから返事を、と思いましたが
時間がかかりそうなので、簡素ながらとりあえずレスしときます。


9:神も仏も名無しさん
07/12/24 20:40:12 QMTYgEX4
法然上人と善導大師が夢で邂逅したらしいという記事は選択集にある。
(和語灯や漢語灯にあるのかも知れないけど、ちょっと探し出せない)

選択集 後序
就中、毎夜に夢のうちに僧ありて、玄義を指授す。僧とはおそらくはこれ
弥陀の応現なり。しかればいふべし、この『疏』はこれ弥陀の伝説なりと。
いかにいはんや、大唐にあひ伝へていはく、「善導はこれ弥陀の化身なり」
と。しかればいふべし、またこの文はこれ弥陀の直説なり。すでに「写さ
んと欲はば、もつぱら経法のごとくせよ」(散善義)といふ、この言誠な
るかなや。仰ぎて本地を討ぬれば、四十八願の法王(阿弥陀仏)なり。十劫
正覚の唱へ、念仏に憑みあり。俯して垂迹を訪へば、専修念仏の導師(善
導)なり。三昧正受の語、往生に疑なし。本迹異なりといへども化道これ
一なり。
ここに貧道(源空)、昔この典(観経疏)を披閲して、ほぼ素意を識る。立
ちどころに余行を舎めてここに念仏に帰す。それよりこのかた今日に至る
まで、自行化他ただ念仏を縡とす。

>そうですよ夢の話せすよ、ですが実際は夢ではなく昼間でもご対面されていたと聞いてます。

その夢が選択集の記事を指しているなら、「 就中、毎夜に夢のうちに僧ありて」とあるように昼間じゃない。
また、
「 ここに貧道(源空)、昔この典(観経疏)を披閲して、ほぼ素意を識る。
 立ちどころに余行を舎めてここに念仏に帰す」

とあるように、廻心は善導大師からの面授ではなく、観経疏を被閲することが縁となっている。

10:神も仏も名無しさん
07/12/24 20:42:24 QMTYgEX4
後序じゃねー!後述だった

11:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/12/24 22:02:21 ZM1iCuvS
 化身土を考える   顕浄土方便化身土文類六 (本)
 無量寿仏観経の意 至心発願の願 邪定聚機 双樹林下往生
阿弥陀経の意なり 至心回向の願 不定聚機 難思往生

 化身土巻では、浄土の方便すなわち化身と化土とを顕す。化身・化土は、無量寿仏観経と阿弥
陀経の世界である。
 仏教は対機説法である。無量寿仏観経は人々に双樹林下往生を勧める。双樹林下往生は第十九
願、至心発願の願成就による。無量寿仏観経は邪定聚機を説法の相手方にしているのだ。
 阿弥陀経は人々に難思往生を勧める。難思往生は、第二十願、至心回向の願の成就による。阿
弥陀経は不定聚機を説法の相手方にしている。

 観無量寿経は人々を九品に区別する。善導は人々を定善の機と散善の機の二つに区別した。親
鸞は正定聚機と不定聚機と邪定聚機とに区別した。正定聚機と不定聚機と邪定聚機のような分類
は親鸞以前になく、文字通り親鸞に始まる親鸞のオリジナル独創の考え方である。
 
 「念仏なんかいやだ。おれはおれで好きな道を行くんだぁ」と、人の話にろくすっぽ聞く耳を
持たず、腹が邪(よこしま)に定まってしまっている人には、浄土教は観無量寿経を説く。彼ら
には、至心発願の願が誓われている。阿弥陀仏は双樹林下往生による救いを考えている。
 念仏に腹が固まっているんわけじゃないが、仏陀の言葉を素直に聞こうといって、心に自由さ
のある人には、浄土教は阿弥陀経を説く。彼らには、至心回向の願が誓われている。不定聚とは、
念仏を勧められれば称えるが、勧められないと称えない人である。阿弥陀仏は難思往生による救
いを考えている。

12:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/12/24 22:03:03 ZM1iCuvS
 正定聚は、他人から念仏しなさいよと言われなくても、自分から自主的に念仏を称えていく。
矢が飛んできても、鉄砲が飛んできても、「わしゃ絶対に念仏を称えるんじゃ」というところに
はらわたが固まっている。これを金剛の信心という。はらわたはダイヤモンドのように固くなっ
ている。彼らには、至心信楽の願が誓われている(信の巻)。阿弥陀仏は難思議往生による救い
を考えている。

 「念仏なんかいやだ。おれはおれで好きな道を行くんだぁ」。このように腹が邪(よこしま)
に定まってしまっている人には、なぜ至心発願が誓われ、観無量寿経が説かれているのか。観無
量寿経が説かれている意味、説かれている意義は何か。化身土巻(本)の前半ではそれを明らか
にしている。

 念仏に腹が固まっているんわけじゃない(不定)が、仏陀の言葉を素直に聞こうといって、心
に自由さのある人、このようなには、なぜ至心回向の願が誓われ、阿弥陀経が説かれているのか。
阿弥陀経が説かれている意味、その意義は何か。化身土巻(本)の後半ではそれを明らかにして
いる。

 至心発願の願が誓われ、邪定聚機に勧められている化身土と、至心回向の願が誓われ、不定聚
機に勧められている化身土とは、相違がある。一方は双樹林下往生で到達し、他方は難思往生で
到達する。
 両者を混同すると話は混乱する。もともと、正定聚機と邪定聚機と不定聚機とを区別するとい
う思想は親鸞以前にない。ここは親鸞の独壇場、まさに親鸞思想の親鸞思想たるゆえんのところ
である。親鸞の独創的オリジナル思想である。親鸞はその思想を、親鸞以前の人々の言葉で技巧
的に説明しようとしているから話がやや分かりにくい。しかし、原理が分かれば難しい話ではな
い。
 親鸞の考えを教行信証から聞いていこう。

13:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/12/24 22:06:53 ZM1iCuvS
 2,3日 カキコ不能

14:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/12/24 22:15:12 ZM1iCuvS
>11 (補充)
スレリンク(psy板:727番)
 のレスに回答しています。

15:7
07/12/24 23:34:34 dUpoObBJ
新スレありがとうございます。みなさんよろしくお願いします。

16:神も仏も名無しさん
07/12/24 23:39:57 On/hXkCr
真宗の妙好人って凄いよな。

17:298
07/12/25 00:45:02 EfZrtciz
前スレ>>743
このスレを見るだけでも、難信之法であることがわかり、
疑情の存在もわかると思います。
「親鸞聖人は釈尊の説かれたことをそのまま説かれた」
このことには、厳密な意味での文証などありません。
しかし、私の心は、そう認識しました。今でもそうです。
私は、真宗の教えは、文字通りの「真宗」であり、
釈尊出世本懐の教えであると思います。
私がそう思うだけですから、信じる必要はありません。
説得の必要も無いお話ですから、釈尊は物証を残しませんでした。
7様が同じ様に感じるなら、宿善の行者である可能性があります。
今はまだ、無人空きょうの沢にいるのでしょう。
そこを抜けて、白道に足を踏み入れてください。
御文様が西を教えてくださるでしょう。

18:298
07/12/25 00:57:34 EfZrtciz
前スレ>>757
私も昼間のご対面について聞いています。

前スレ>>747
以前も書きましたが、法然上人が善導大師の書によって
信を獲たなら、どうしてその行(善導大師の書を読む行)を
選択されなかったのですか。
それは、信を穫るきっかけです。
源左様が念仏行者か、私は知りません。
念仏行者ではなくても、素晴らしい方はいます。
2chで信を穫るわけではありませんが、
たとえば2chのこのスレをきっかけに、
信を穫る方が出て来る可能性はあります。
既に、御文様をご自身で読んでいる方もおられます。
御文様は、宿善のある凡夫が読めばわかるようにと、
蓮師のそのような願によって書かれたものです。
次第相承のありがたさがわかります。
方便は、次々と積み重ねられてきているのです。
法蔵菩薩様がご修行されたように、蓮師が、我らのために
ご聖典を繰り返し読み込んでくださいまして、ご製作くださったものです。


19:298
07/12/25 01:03:40 EfZrtciz
前スレ>>745
727の私の書き込みは、
「(ただ口に称える念仏でも)念仏すれば誰でも化土往生できる」
のような主張をされている方に対してのものです。
ですから、遠慮がちに書いています。よく読んで下さい。
源信讃の左訓ですが、あなたは化土往生した方が、
いずれどうなるかご存知ですか。
他宗他派の誹謗を避けておられるのです。


最新レス表示
レスジャンプ
類似スレ一覧
スレッドの検索
話題のニュース
おまかせリスト
オプション
しおりを挟む
スレッドに書込
スレッドの一覧
暇つぶし2ch