07/12/25 14:51:19 uMsaY6Qr
座禅について
一人で坐るのに注意を要することは、たいてい同じことですが、普勧坐禅儀にあるとおり、欠気一息して、目はつぶらないよう、つぶると眠くなったり妄想煩瑣です、きちんと坐ってリラックスする感じ、
そうして何があってもまっしぐら、吐く息吸う息っきりにやっているんです。
ああでもないこうでもないを取り扱わない、取り扱っちゃいけないとやったって、同じことですから、
「でたらめめっちゃくちゃ。」
ぐらいがいいんです、こうしちゃだめ、ああしちゃだめしない、どんなことあっても全部O=どんなことあっても全部X、つまりなにしたってなんの役にも立たない、あるいは何したってオ-ル仏なんです。
「なんもかんもみんな注ぎ込んで坐れ。」
といったりします。吐く息吸う息だけといって、眺め暮らし、見えないはずの自分が見える、まっ暗がりの向こうに心とか、それ全部うそです、自分の内部を観察する感覚器官はないんです、自分の内と外を区別することも不可能です。
それがなぜかある。
ではこいつをぶち破る。そう難しくないんです、とやこういわずに坐ってりゃいいです、結果を予測しない、出たとこ勝負っていうか、坐を楽しむふうがいいです、おやこんなになったと、ふっと気がついたりします。
ぴしっという音に飛び上がったりします、
「あれ、おれがない。」
どうしたんだっていって、立とうとしたら足がなかったなんて。
でもね、こうやって気がついたときに、相談して下さい、未だしのまんま有頂天になったり、だからどうのやり出す、すると百害あって一利なしです。
一人で坐るのは、う-んまああんまり感心できないんですが、しまい身心ともになしってことがあります。如来成道と寸分違わぬってことです。
では必ずこれをっていう意志です、中途半端じゃなんにもならない、そうして必ずできる、だれだってやろうと思えばできるってことです。
「途中受用底」という語を進呈致します、完成しようぶち抜こうといっている、そのものずばり、宝ありゃくずあるんじゃない、とやこうわけのわからん私全部ってことです。今のまんま。
途中受用が手に入ると、もうそこです。