07/12/22 21:04:31 /U/1Zvpz
さて今日は久しぶりにダンマパダ(法句経)の講義じゃ。
103 戦場において百万人に勝つよりも、唯だ一つの自己に克つ者こそ、じつに最上の勝利者である。
104、105 自己にうち克つことは、他の人々に勝つことよりもすぐれている。つねに行ないをつつしみ、自己をととのえている人、─このような人の克ち得た勝利を敗北に転ずることは、神も、ガンダルヴァ(天の伎楽神)も、悪魔も、梵天もなすことができない。
戦場において百万の敵に勝つより、自己に克つ者の方が偉いとお釈迦様はいっておる。
自己に克つと言う事は、修行においては自らの自我を解体し、己を虚心に観ることにも喩えられよう。
自我を解体するのは、何故それほどまでに難しいのじゃろうか。
人が自らの自我を自分であると認識しているうちには、決してそれを壊す事も観る事もしないものじゃ。それは自分を壊し、観ることになるのじゃから。
他にも自我は自らを守る城壁であると、考える者もおる。
不安や恐怖から自分を守る心の動きに、自我のイメージを投射しておるのじゃ。
自我が無くなれば、今まで抑えてきた不安や恐怖が全て噴出してくるのでは無いかと、恐れておるのじゃ。
今まで逃れ、眼を背けてきた恐怖や不安に始めて目を向けようとするのは、とても大きな勇気が要るものじゃ。
それ故に百万の敵に勝つよりも、自己に克つ者が、最上の勝利者と呼べるのじゃ。
今、自ら最上の勝利者となろうとする者は、真実のの言葉を聞くがいい。
自我は自分ではない。
そして自我は不安や恐怖を抑える役割もしておらぬ。
むしろ自我は不安や恐怖を生みだし、それを繰り返す役割を果たしておるに過ぎないのじゃ。
過去の恐怖に自我を投射する事によって、恐怖は繰り返され、増大し、隠蔽されて長く不安のもととなるのじゃ。
故に自我を解体し、観照によって無くせば、安心が訪れるのじゃ。
不安が無い事による絶対安心の境地が、そこには訪れる。
それはおぬしらが今まで味わった事の無い、無上の安らぎ。
完全にして無謬な、真の安らぎなのじゃ。
その境地は実在する。
わしはそれを体感している。
常にそこに居て、いかなる時も不安なく過ごしている。
みんなも修行に励み一時も早く、安らぎを手に入れるのじゃ。