臨済録を読む at PSY
臨済録を読む - 暇つぶし2ch153:神も仏も名無しさん
08/04/02 21:30:02 ugCEYlVT
※「隨處に主と作れば、立處皆眞なり」

僧肇が唱え、馬祖を経て臨済に至る。
僧肇『不真空論』に、「世尊は真際を動ぜずして、諸法の立処となす、真を離れて立処なるに非ず、立処即ち真なり」。
馬祖『馬祖語録』に、「真を離れて立処あるに非ず、立処は即ち真にして尽く是自家の体なり」。

※「古人云、」= 南嶽明さん(王+賛)和尚。懶(王+賛)とも。北宗の第二祖普寂の法嗣。

「餓え来れば飯を喫し、困し来れば即ち眠る。
 愚人は我を笑うも、智は乃ち焉を知る。
 是れ鈍痴なるにあらず、本体如然たるが故なり」

『南嶽懶讃和尚楽道歌』



懶讃は、南嶽(衡山)の石室中に庵居し、貧寒ながらも正念相続の生活であった。
その高徳の噂が唐の粛宗(徳宗とも)の耳に達し、参内を求める勅使が派遣された。
折しも、彼は牛の糞を焚いた火で暖をとりながら、芋を焼いて食っていて、
勅使を礼を以て迎えようともしなかった。
鼻水を顎まで垂らし、芋と一緒になって口へ運び、それを拭おうともしない、
勅使が笑い「その鼻水を拭いなされ」と注意すると、
和尚「我れ豈に俗漢の為に洟を拭うの工夫(暇)有らんや」(正念相続)と顧みず、
勅命を拒否して山を下らなかった。

154:神も仏も名無しさん
08/04/08 21:59:12 7GlJKmOz
今時の學者は、總べて法を識らず、
猶お觸鼻羊の、物に逢著して口裏に安在するが如し。
奴郎辨ぜず、賓主分かたず。
是之如くの流は、邪心にして道に入り、鬧處には即ち入る。
名づけて眞の出家人と爲すことを得ず、正に是れ眞の俗家人なり。
夫れ出家というは、須らく平常眞正の見解を辨得して、
佛を辨じ魔を辨じ、眞を辨じ僞を辨じ、凡を辨じ聖を辨ずべし。
若し是の如く辨得せば、眞の出家と名づく。
若し魔佛辨ぜずんば、正に是れ一家を出でて一家に入る。
喚んで造業の衆生と作す、未だ名づけて眞の出家人と爲すことを得ず。
祇だ如今一箇の佛魔有り、同體にして分かたざること、
水乳の合するが如きも、鵝王は乳を喫す。
明眼の道流の如きは、魔佛倶に打す。
爾若し聖を愛し凡を憎まば、生死海裏に浮沈せん。


「今時の修行者は、まったく法を識らない。
 それは何にでも鼻をぶつけてゆく羊が、鼻先に触れるものを見境もなく口に入れるようだ。
 だから下僕と主人の区別もつかず、客と主人の見分けも出来ない。
 (宗旨の邪正、師の道徳の高下、商量の賓主を見分けられない)
 この類の連中は、邪な心で道に入った輩で、人の集まる賑やかな処にはすぐに入ってゆく。
 とても真の出家とは言えぬ。まさしく真の俗人である。
 そもそも出家というものは、平常真正の見解をしっかり見得して、
 仏を見分け魔を見分け、真を見分け偽を見分け、凡を見分け聖を見分けねばならない。
 もしこのように見分けることが出来たら、真の出家といえる。
 もし魔と仏の見分けもつかぬようなら、それこそ一つの家を出てまた別の家に入ったもので、
 そんなのを呼んで地獄の業を作る衆生という。とても真の出家とは呼べぬ。
 たとえば、いま一箇の仏魔があって、同体で区別が出来ない場合は、
 まるで水と乳とが混ぜ合わさったようなものだとする。そんなとき鵝王(鵞鳥)は乳だけを飲む。
 明眼の修行者なら、(ガチョウのように片方だけでなく)魔と仏、倶に捉われず打破するだろう。
 お前達がもし聖を愛し凡を憎むようだと、生死(迷い)の苦海に浮き沈みすることになろう。」
(心法の働きで見抜くのではなく、我見による取捨愛憎の念を持つと、迷いの苦海に浮き沈みする)

155:神も仏も名無しさん
08/04/10 21:37:21 zIqDlu/u
自己に具わっている心法を見得しないから、
人の集まる賑やかなものに、見境もなくすぐに飛び付き惑わされる。
平常無事の真正の見解を見得して、仏魔・真偽・凡聖を見分ける心眼を持ち、
宗教・行法・導師を転々と彷徨うことなく、教説や導師の邪正・真偽を見極めねばならない。
見分けもつかぬなら、世俗の家を出ても、出家という別の俗家に入るに等しい。
明眼の人ならば、たとえば仏と魔を識別しながらも仏魔どちらにも対応することが出来る。
聖を愛し凡を憎む揀択・憎愛の念を起こすと、迷いの相対世界を抜け出す事が出来ない。


※出一家入一家 = 世俗の家を出ても、出家という別の俗家に入る意。

※爾若愛聖憎凡、生死海裏浮沈 = 
「更に若し、聖を愛し凡を憎まば、生死海裏に沈浮せん。」宝誌和尚『大乗讃』


『信心銘』に

至道無難 唯嫌揀擇
但莫憎愛 洞然明白
毫釐有差 天地懸隔
欲得現前 莫存順逆

「道に至るに難きことなし、唯だ、揀択を嫌う、
 ただ憎愛なければ、洞然として明白なり、
 毫釐も差あれば、天地懸に隔たる、
 現前を得んと欲せば、順逆を存するなかれ。」

156:神も仏も名無しさん
08/04/12 23:28:18 dhF9wV7u


問、如何是佛魔。師云、爾一念心疑處是魔。
爾若達得萬法無生、心如幻化、更無一塵一法、處處清淨是佛。
然佛與魔、是染淨二境。
約山僧見處、無佛無衆生、無古無今、得者便得、
不歴時節。無修無證、無得無失。一切時中、
更無別法。設有一法過此者、我説如夢如化。
山僧所説皆是。道流、
即今目前孤明歴歴地聽者、此人處處不滯、通貫十方、三界自在。
入一切境差別、不能回換。一刹那間、透入法界、
逢佛説佛、逢祖説祖、逢羅漢説羅漢、
逢餓鬼説餓鬼。向一切處、游履國土、教化衆生、
未曾離一念。隨處清淨、光透十方、萬法一如。

道流、大丈夫兒、今日方知本來無事。
祇爲爾信不及、念念馳求、捨頭覓頭、自不能歇。
如圓頓菩薩、入法界現身、向淨土中、厭凡忻聖。
如此之流、取捨未忘、染淨心在。
如禪宗見解、又且不然。直是現今、更無時節。
山僧説處、皆是一期藥病相治、總無實法。
若如是見得、是眞出家、日消萬兩黄金。
道流、莫取次被諸方老師印破面門、道我解禪解道。
辯似懸河、皆是造地獄業。
若是眞正學道人、不求世間過、切急要求眞正見解。
若達眞正見解圓明、方始了畢。

157:神も仏も名無しさん
08/04/15 21:36:07 qJp+Zd3X
問う、如何なるか是れ佛魔。
師云く、爾が一念心の疑處、是れ魔なり。
爾若し萬法の無生にして、心は幻化の如く、
更に一塵一法無うして、處處清淨なるに達得せば是れ佛なり。
然るに佛と魔とは、是れ染淨の二境なり。
山僧が見處に約せば、無佛無衆生、
無古無今、得る者は便ち得、時節を歴ず。
無修無證、無得無失、一切時中、更に別法無し。
設い一法の此れに過ぎたる者有るも、我れは説かん如夢如化と。
山僧の所説は皆な是れなり。
道流、即今目前孤明歴歴地に聽く者、此の人は處處に滯らず、
十方に通貫し、三界に自在なり。
一切境の差別に入れども、回換すること能わず。
一刹那の間に、法界に透入して、
佛に逢うては佛に説き、祖に逢うては祖に説き、
羅漢に逢うては羅漢に説き、餓鬼に逢うては餓鬼に説く。
一切處に向って、國土に游履して、衆生を教化すれども、未だ曾つて一念を離れず。
隨處清淨にして、光十方に透り、萬法一如なり。

158:神も仏も名無しさん
08/04/15 21:38:49 qJp+Zd3X
問「仏と魔とは、どんなものですか。」

師「お前達の一念の心の疑う処、それが魔である。
 もしお前達が一切の存在は無生(不生)で、心も幻のようなものであり、更に十方世界は
 一つの塵も一つの存在もなく、至る所が清浄(仏性・万法一如)であると達得すれば、それが仏である。
 それゆえに仏と魔とは、染汚(二元・迷い)と清浄(一如・悟り)の二つの境に過ぎない。

 わしの見処からすれば、仏もなければ衆生もなく、古もなければ今もない。
 得たものはすなわち得ていたのであり、時節を経ての所得ではない。
 修するものもなく証するものもない、得るものもなく失うものもない。
 いかなる時においても、これ以外の法はない。(具足底の無位の真人の働きのみである)
 たとえ、なにかこれに勝る法があるとしても、わしは断言する、そんなものは夢・幻のようなものだと。
 わしの所説は以上である。

 お前達、即今・わしの目の前で・独自の輝きを発しながらハッキリと説法を聴いている“此の人”、
“此の人”こそが、あらゆる場に臨んで滞らず、十方世界に通貫して三界において自由自在である。
 あらゆる境の差別に入っても、それが“此の人”を引き廻すことは出来ない。
 一刹那の間に、あらゆる世界に透入して、仏に逢えば仏に説き、祖師に逢えば祖師に説き、
 羅漢に逢えば羅漢に説き、餓鬼に逢えば餓鬼に説く。
 すべての所で、さまざまな国土を遊行して、衆生を教化しても、一念(即今現成)を離れたためしがない。
“此の人”至る処は清浄で、その光明は隅々に透り、萬法一如である。」

159:神も仏も名無しさん
08/04/18 20:51:37 qo0fQlYz
一念(一瞬の分別心、自我の計らい、疑い・迷いの心)が魔である。
万法は不生不滅で、心は幻であり、ひとつの塵もひとつの存在もなく、
すべてが清浄(仏性・一如)であると見得するのが仏である。
仏と魔とは、清浄(無分別智・万法一如)と染汚(分別心・相対的観念)の二つの境地である。
臨済和尚の見地では、絶対無的主体には二元的差別はなく、仏も衆生もなく、過去も現在もない。
本具であり時間の範疇に無い、修行も証悟の要もない、得るも失うもない。
これに勝る法・真実はない。所説は以上である。

即今・目前・孤明歴歴聴法底の意識(絶対無的主体)こそ、
あらゆる世界・すべての時を滞ることなく出入し、境の影響を全く受けない自由無礙な存在である。
あらゆる存在(仏・祖師・羅漢・餓鬼)を済度し、その働き至るところ清浄で、
光明は十方を貫き、すべての存在がひとつである。


※一念 = 一瞬。一瞬の心の動き。「九十刹那を一念となす。」(仁王経般若波羅蜜護国経)

「念の無いのが仏じゃ、各々更に自ら看よ。」白崖窟 鄧州全忠
「一念も生死を計れば即ち魔道に落つ」黄檗希運『伝心法要』

※爾若達得萬法無生、心如幻化、更無一塵一法、處處清淨是佛 =

“達得”を「萬法無生」又は「心如幻化」にかける読みと、「處處清淨」までかける読みとがある。

160:大統領 ◆Push/884.A
08/04/21 21:15:58 GzjoIccb
精神世界で癒される第37章
スレリンク(healing板)

このスレのスレ主さんである単、直さんが、リアルのほうが忙しいので顔をなかなか出せないと言う事で、下りられるそうです。

そこは、無国籍男女混浴風呂。
どなたも、癒やされますよ。
ひとっぷろ、どうですか?

161:神も仏も名無しさん
08/04/22 22:31:49 HceUaR0n
彼本来の面目と云うは、色形無き者なり、たとへば虚空のごとし、
虚空には形無きなり、故に仏説に云く、仏身法身は、猶虚空の如しと説き玉うなり


大燈国師

162:神も仏も名無しさん
08/04/24 10:49:09 GpofVodn
無位の真人を殺すのだ。



禅も無我を目指す。

163:神も仏も名無しさん
08/04/24 22:05:32 1W96Ar3d
道流、大丈夫兒は今日方に知る、本來無事なることを。
祇だ爾が信不及なるが爲に、念念馳求して、頭を捨てて頭を覓め、自ら歇むこと能わず。
圓頓の菩薩の如きは、法界に入って身を現じ、淨土の中に向いて、凡を厭い聖を忻う。
此之如きの流は、取捨未だ忘ぜず、染淨の心在り。
禪宗の見解の如きは、又且らく然らず。直に是れ現今なり、更に時節無し。
山僧が説處は、皆な是れ一期の藥病相治す、總べて實法無し。
若し是の如く見得すれば、是れ眞の出家、日に萬兩の黄金を消わん。
道流、取次に諸方の老師に面門を印破せられて、我れ禪を解し道を解すと道うこと莫れ。
辯の懸河に似たるも、皆な是れ造地獄の業。
若し是れ眞正の學道人ならば、世間の過を求めず、切急に眞正の見解を求めんと要す。
若し眞正の見解に達して圓明ならば、方に始めて了畢せん。


「修行者達よ。大丈夫たる者は今日まさに知る、本来“無事”であることを。
 ただお前達が見究め得ない為に、念々外に求め廻り、
(演若達多のように)頭を見失い更に頭を求める愚を、自ら止めることが出来ない。
 大乗最高位の円頓の菩薩でさえ、現実の事法界に入りあらゆる世界に身を現すことはできても、
 いまだ浄土の中に心を向けて、凡を厭い聖を忻う。
 この類の連中は、取捨・揀択を未だ忘ぜず、染汚と清浄の分別心が残っている。

 禅宗の見解は全くそうではない。直に現今であり、更に時節はない。
 わしが説くところは、すべて一期(その時その場)仮初の応病与薬であり、
(根本本分上には)まったく説くべき実体的な法・道理がある訳では無い。
 もしこのように見得すれば、是れが真の出家であり、日に万両の黄金の供養を受けるに足る。

 修行者達よ。みだりに諸方の老師方によって眉間に印可の判を捺されて、
『我れこそは禅が解った、道が解った』などと言ってはならぬ。
 弁舌が滝の如く滔々たるものでも、皆これ地獄行きの業作りである。
 もし真正の学道の人であれば、世間の過ちなどには目もくれず(過った法・見解を求めず)、
 切急に真正の見解を求めようとするものだ。
 もし真正の見解に達して円満明了であったなら、そこではじめて大事了畢である。」

164:神も仏も名無しさん
08/04/28 22:06:20 30MW80Wl
※大丈夫兒、今日方知本來無事 =
「大丈夫児ならば如今直下に便ち休歇し去る」 大達無業禅師

※無事 = 一切の束縛から脱却し、両忘の境涯から、些かも計い求める心もなく、無作無心に働き出す境涯。
「外諸縁を息め、内心喘ぐことなく、心墻壁の如くにして、以って道に入るべし」達磨大師
「事に無心、心に無事」徳山宣鑑

※如禪宗見解・・・日消萬兩黄金 =

禅宗の見解は、揀択憎愛の二元相対分別はなく、
何も求めない即今・此処であり、修行成就の手間隙(時間・段階)はない。
本来、一法も人に説くべきものすらないが、御託を並べるのは、
応病与薬の方便で修行者の病が治れば不用の物である。
したがって、是非こうでなければというものがある訳ではない。
真理を得たとすれば、それもまたひとつの病である。
このように見究め得るのが本物の道人である。

※印破 = 印可証明せられて。

※不求世間過 = 

『六祖壇経』に

「若し真正の修道の人ならば、世間の過を見ず。
 若し他人の非を見ば、自らの非却って是れ左る。
 他人の非は我れ非らず、我が非は自ら過有りとす。
 但だ自ら非心を却け、煩悩を打除し破するのみ。」

真正の修行者ならば、世の人の過ちには目も向けぬ。
もし他人の咎に目を向けるなら、その己が咎こそ道にもとるもの。
他人の非は私は誹らぬ、己の咎がもともと悪い。
その咎有る心を自ら払い去り、煩悩をば打ち砕くだけのこと。

165:神も仏も名無しさん
08/04/29 22:03:22 vLBJR99N
  釈迦、達磨とは誰のことだ。
  祖仏とは誰のことだ。
  即今、面前聴法底是れなりだ。
  そこではっきりと話を聴いている
  意識そのものが祖仏だ。
  話を聞いておる意識そのものは、
  個人の意識ではない。普遍的な意識だ。
  釈迦、達磨とちょっとも違っておらん。
  自動車がブーといえばブーと聞く。
  心理学者は条件反射と言った。
  当然の心理だ。当然の意識だ。
  普遍的な意識だ。
  俺だの彼だのという差別はない。
  そういう普遍的な意識そのものが分かれば、
  これが釈迦、達磨だ。
URLリンク(www15.ocn.ne.jp)

166:神も仏も名無しさん
08/05/02 22:38:09 KYVU1Idq
成仏の道とは、自心を悟る是なり。
自心と云うは、父母も未だ生まれず、
わが身も未だなかりしさきよりして今日に至るまで、
移る変わることなくして一切衆生の本性なる故に、
是れを本来の面目と云へり。

抜隊得勝 『抜隊仮名法語』 「成佛の直路」

167:神も仏も名無しさん
08/05/03 21:43:56 EtWNwi4x


問、如何是眞正見解。
師云、爾但一切入凡入聖、入染入淨、入諸佛國土、
入彌勒樓閣、入毘盧遮那法界、處處皆現國土、成住壞空。
佛出于世、轉大法輪、却入涅槃、不見有去來相貌。
求其生死、了不可得。便入無生法界、
處處游履國土、入華藏世界、盡見諸法空相、
皆無實法。唯有聽法無依道人、是諸佛之母。
所以佛從無依生。若悟無依、佛亦無得。
若如是見得者、是眞正見解。

學人不了、爲執名句、被他凡聖名礙、
所以障其道眼、不得分明。
祇如十二分教、皆是表顯之説。
學者不會、便向表顯名句上生解。
皆是依倚、落在因果、未免三界生死。
爾若欲得生死去住、脱著自由、即今識取聽法底人。
無形無相、無根無本、無住處、活撥撥地。
應是萬種施設、用處祇是無處。
所以覓著轉遠、求之轉乖。號之爲祕密。
道流、爾莫認著箇夢幻伴子。遲晩中間、便歸無常。
爾向此世界中、覓箇什麼物作解脱。
覓取一口飯喫、補毳過時、且要訪尋知識。
莫因循逐樂。光陰可惜、念念無常。
麁則被地水火風、細則被生住異滅四相所逼。
道流、今時且要識取四種無相境、免被境擺撲。

168:神も仏も名無しさん
08/05/07 22:09:23 FxNmvV6D
問う、如何なるか是れ眞正の見解。
師云、爾但だ一切凡に入り聖に入り、染に入り淨に入り、
諸佛國土に入り、彌勒樓閣に入り、毘盧遮那法界に入り、
處處に皆な國土を現じて、成住壞空す。
佛は世に出て、大法輪を轉じ、却って涅槃に入って、去來の相貌有ることを見ず。
其の生死を求むるに、了に不可得なり。
便ち無生法界に入り、處處國土に游履し、華藏世界に入り、
盡く諸法の空相にして、皆な實法無きことを見る。
唯だ聽法無依の道人のみ有り、是れ諸佛之母なり。
所以に佛は無依從り生ず。若し無依を悟れば、佛も亦た無得なり。
若し是の如く見得せば、是れ眞正の見解なり。



「真正の見解とは、どのようなものですか?」


「お前達(具足底の本性)は、何時何処でも、凡に入り聖に入り、染汚に入り清淨に入り、
 諸仏の国土に入り、弥勒の楼閣に入り、毘盧遮那法界に入り、
 至る処すべてに国土を現じて、成住壊空している。

 釈尊は世に出られ大法輪を転じて、それから涅槃に入ったが、
 去来の相貌(姿)は見られない。その生き死にの沙汰を求めても全く得られない。
 すなわち無生の法界に入り、種々の国土を遊行し、華蔵世界に入り、
 諸法は空相であり、実法(実体的な真実)は何一つ無いと見徹する。

 ただ、わしの説法を聴いている無依の道人のみが有る、これが諸仏の母なのだ。
 ゆえに仏は無依より生ずる。
 もし無依を悟ったら、仏もまたこれといって得るものは無い。
 もしこのように見究め得たら、これが真正の見解である。」

169:神も仏も名無しさん
08/05/09 23:12:29 AbNboj1J
無相・無位なるが故に、一切差別の境涯に透入偏在し、処々で現成しつつ境と一体となり、
生成・存続・破壊・空無と自由無礙に働いている。

釈尊は仏法を説かれ涅槃に入ったが、その真実人体(絶対無的主体)は、
生まれ来たった沙汰も無いが、死に去った沙汰も無い。
絶対無的主体は不生不滅の世界に入り、万境に自由遊行し、光明遍照世界にも入るが、
その全ての世界・存在は、夢幻空華の如きものであり、実体らしきものは無い。

ただ『無依の道人』のみが真実有る。
これが諸仏の根源であり、仏も『無依の道人』から生じたものである。
無依を悟り、仏もまた本具で有り、改めて得ることを要しないと見得する。
これが真正の見解である。


※入凡入聖=「真俗、凡聖、染浄の世界に入って、真俗、凡聖、染浄を弁ずる働き」

※成住壊空= 世界の生滅変化を、成立・住止・破壊・空無の四相として見たもの。個人の場合は生老病死。

※無生= 本不生・空の意。

※無依の道人=

「仏は是れ無著の人、無求の人、無依の人なり。」『百丈広録』
「経に云く、無依は是れ仏母、仏は無処より生ず。」太原禅師『宗鏡録』

170:神も仏も名無しさん
08/05/14 20:11:49 rPB0YKk1
>その真実人体(絶対無的主体)は、
>生まれ来たった沙汰も無いが、死に去った沙汰も無い。

ったく、形而上学的妄想丸出しだな。
勝手な御託は妄想ゆえに馬鹿でも言える。

縁起との関係を説明してごらんw
真実人体(絶対無的主体)とやらはいつ縁起したんでちゅか?
自性があるがごとき妄言はナーガールジュナもびっくりですなw
その妄想は検証実証証明できまちゅか?

形而上的妄言には無記(軽蔑的無視)されたブッダの趣旨は無視ですか、そうですか。
エライんですなあw


171:神も仏も名無しさん
08/05/14 20:16:20 rPB0YKk1
たんぼでかえるが鳴いている。

ケロン(戯論)、ケロン(戯論)、ケロン(戯論)、ケロン(戯論)、・・・


172:神も仏も名無しさん
08/05/15 09:45:39 4rQOG0xy
春ですなあ

戯論と妄想全開のスレですなあw

ブッダはなんでもありのバケモノでちゅか?

    「一切」行無常 「一切」法無我 「一切」皆苦 涅槃寂静

「一切」外は無記 検証性事大 戯論寂滅

173:神も仏も名無しさん
08/05/15 11:59:23 cQoW4doU
>>170-172
荒しと変わらないと思うから、神仏板のスレで訊ねたらいいかもよ。
臨 済 録
スレリンク(kyoto板)


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