08/02/24 23:40:20 tQ4pLI4+
↑ 以上のやり取りを聞いていて、思ったことを少し。
天理教の教えとしては、世界の偉大な宗教家なり思想家なりを通して、
今までに10のうち9まで教えてきたとされますね。
(それが、天啓という形式であれ、悟りという形であれ)
最後の1を中山みきの口を借りて、月日親神が説いて聞かせたという事になる訳ですが、
それで後々まで残るようにとお筆先まで記したとなると、
その跡継ぎとして神の言葉を伝える者は必要なかったような気もしますね。
が、実際には本席様という取次ぎ人ができた。
教祖が法令を発布し、施行規則を本席様が神の言葉として伝えた。
そのような構図だろうと思うのですが、そうであるなら本席の後釜となる
神の言葉の取次ぎ人が次々に出てきても不思議はないことになる。
しかし、教祖存命なら後継者の認定は出来るけれど、神ならぬ者が後継を
指名するというのは困難な要素があります。それぞれが神がかりし勝手に
後継を宣言する事だって出来てしまうからです。
大西愛二郎とたまひめ様のような例が頻発するでしょうから。
それで教団としては、ないことにしてしまった。
新たな立法はないものとし、既成のものの実行・応用だけを
真柱を中心にして行うものにした。
この判断が正当なのかどうか解らないが、混乱を回避することは出来た。
しかし、教団の判断は別として、伊藤青年の例を見るまでもなく
教祖の後継として神の言葉を預かるものがいる筈という思想のマグマは
今も枯渇することなく地下に横たわり、時として噴火する。
同じような例がキリスト教界でも存在する。
キリスト以前には多数の預言者がいたのに、キリスト以後ではいないものとされた。
国家宗教ともなり権威を伴ったキリスト教会(ローマ教会)にとり、新しい預言者の
出現は教会権威を打ち砕く危険性があったからだろう。
実際は中世以降、ファティマの預言等、多数あったのだが、長く教会から認証されていなかった。
最近になってやっと一部が、ローマ教会から神の言葉として認定されるようになったという。
いづれにしても神の思惑は図りかねますが、それより組織の論理が大きく見え隠れしていますね。