08/02/17 06:02:02 WlaGbYbX
>>859
> 預からせて頂いて丹精込めさせてもらっている教会も私は知っています。
天理教の場合は、> 丹精込めさせてもらっている と、言うのは、言い訳に過ぎないのではないでしょうか。
つまり、治った人がいると言う場合のみ、語って良いのではないでしょうか。
無神論である人や、心酔しているわけではない信者さんには、> 丹精込めさせてもらっている 事は、
そのまま批判対象となること、ありえます。
おさづけを頂いた時に、教えられたように、日を切ってお願いして、たすかるたすからないという結論をきちんと示す方法で無いと、
それは、抱え込んでいるということなのです。
それは、天理教においては、「神は抱えることは嫌い」と戒めになられています。
>>860
> 話を見る限り、あなたの周りの「世界」であり、それが何を意味するか、考えて欲しい。
> その、あなたの「世界」を、天理教一般論で書かれるのは心外だな。
確かにそうです。
その話を見る限り、舞台は特定の系統であり詰め所でありもします。
でも、それを、 >>857
「 > 殊に精神病など「頭の病気」だとされている人々に対する考えに至っては、> かつてヒットラーの打ち出した「安楽死計画」に匹敵する残酷さ。」
と、語り続けさせているのも、現実というもので、この方の口すらも封じられないという、現実。
そこには、真剣に思案すべきものは、明確なたすけの道が示せない現実です。
お世話している。 その事は、実は、間違いではないか。理に合っていないのではないか。
おやさまはどうなさったのか、おやさまは、そうした人をお世話するためにお屋敷を開放されたのか。
たすけの単位は、夫婦親子であるのに、家族から切り離す事でよいのか。
人権意識よりも大切なものは、
この場合、正しくおやさまの教えを行っているかどうかという問題ではないでしょうか。