07/07/18 01:13:20 sVRL3IKl
無戒名字の比丘なれど 末法濁世の世となりて 舎利弗目連にひとしくて 供養恭敬をすすめ
しむ(愚禿悲歎述懐)
親鸞の現実の社会的環境は、この和讃が全てを語っていると思う。親鸞は無戒だった。無戒で
あれば、僧ではない。親鸞は、自分は無戒であると断った上で自らを名字の比丘という。名字の
比丘とは、名前ばかりの僧という意味だ。
僧として受戒しても、いったん還俗すれば、再び受戒しなければ僧ではない。親鸞は流罪の時、
俗名を給わって配流となっている。その後、僧として受戒していれば、自分のことを無戒である
とは言わないだろう。
しかし、関東では親鸞は僧として処遇されたようだ。1233年、北条泰時は、北条の館で一
切経校合を開いた。北条政子の追善供養のためであり、その時の経典は、後に北條家から園城寺
に寄進されている。この辺の歴史的事実は古田武彦氏が研究している。親鸞はこの時、その校合
役の一人として参加した。親鸞は袈裟を着て出かけている。
親鸞の時代、恐らく鎌倉は、京都文化圏に対向する文化圏の創設を急いでいたと思われる。そ
の場合、比叡山で三十年近くも修行していた親鸞などは、仏教の専門家(僧)として迎えられて
も不思議はないと思う。恐らく関東には、親鸞以上に経典に明るい人材は恐らくいなかったろう。
かつて、法然の下には熊谷直実が入門している。法然と北条政子とやりとりをした手紙が残って
いたはずだ。法然教団と鎌倉政府とは交流があった。親鸞を招いたのは、流罪事件後、京都で法
然教団を率いていた隆寛律師からの推薦があったのではないか。