07/10/15 11:25:16 Ukccv5DT
真宗はどんな教えなのですか。
真宗の救いとは。
その道を歩むにはどうすればいいのですか。
死んだらどうなりますか。
251:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
07/10/15 18:41:44 Y1IVr1Lo
>250
後日、書かせて貰います。
252: ̄ ̄ ̄\| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
07/10/16 22:22:57 tNvdXr85
// ̄ ̄ ̄ ̄\ .
彳丿; /,,,,,,,,\ u lヽ
入丿 -◎─◎- ;ヽミ.
| u:.:: (●:.:.●) u:.::| フ~! フ~!!
| :∴) 3 (∴.:: |
ノ ヽ、 ,___,. u . ノ、 ハァハァ!
/ ヽ:.___;;;;;;;;;;___.ノ ヽ
/ ,ィ -っ、. .ヽ
| / 、__ う 人 ・ ,.y i
| /  ̄ | |
ヽ、__ノ ノ ノ
| x 9 /
| ヽ、_ _,ノ 彡イ シャシャシャシャシャ
| (U) |
ヽ、__ノ__ノヽ_
253:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
07/10/19 13:32:49 uBxs+cSP
覚如に入る前に、系図を見ておきたい。親鸞が京都時代に結婚していたという主張者が根拠
とするのは、覚如の絵伝と本願寺に伝わる系図、つまり古本と明暦本である。明暦本は明暦年間
(1655~1657)に書かれている。明暦年間は徳川時代である。古本は天文年間(153
2~1555)に書かれたものらしい。天文年間とすればそれは戦国時代である。蓮如が死んで
日本中で一向一揆が荒れ狂っていた時代であり、織田信長が生まれ育った頃である。
系図では、親鸞には七人の子がいたと言うことになっている。明暦本と古本では記述内容が異
なる。時代は古本の方が古い。古本によると、それぞれ、範意、小黒女房、慈信房善鸞、明信、
益方大夫入道、高野禅尼、覚信尼という名が並んでいる。小黒女房、慈信房善鸞、明信、益方大
夫入道、高野禅尼、覚信尼は、三善為教の女つまり恵信尼の子供であると書いてある。少なくと
もいずれも恵信尼が養育したということは想像できる。しかし、たとえば小黒女房と益方大夫入
道は、恵信尼の手紙で見るとこんな記事がある。
254:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
07/10/19 13:34:52 uBxs+cSP
「親も候わぬ小黒の女房の女子、男子、これに候ううえ、益方が子どもも、ただこれにこそ候
えば、何となく、母めきたるようにてこそ候え」。親のいない小黒の女房の女子、男子、益方大
夫入道の子供もここにいる。何となく母親のような気分である。
小黒の女房や益方が血を分けた子供であれば、このときには恵信尼は実の孫を育てていると言
うことだろうか。もし、小黒の女房が恵信尼の実子であれば、「親も候わぬ」という形容詞は小
黒の女房のすぐ上にはつかないだろうと思う。親のいなかった小黒の女房や益方大夫入道を昔育
てたが、今はその子供達まで面倒を見ているということではないか。小黒の女房、益方大夫入道
は、恵信尼の実子ではないと想像する。
覚信尼は恵信尼が42歳のときに産まれている。鎌倉時代の女性が、果たして40歳を超えて
子供を産めるだろうかなどと、僕は疑問をもつ。親鸞が死んで数百年後に書かれたこの系図では、
恵信尼の子というのは恵信尼が親鸞と肉体関係を持ち、恵信尼が親鸞の実子として腹を痛めて産
んだ子であるということを実証できるものではないだろう。
系図上、範意は、摂政兼実の女と書いてある。恵信尼は範意の養育に絡んでない可能性もある。
範意は行方不明になっているそうだが、この記述から親鸞の第一夫人が玉日姫だという説が出て
いる。しかし、摂政兼実の日記というのがあるようで、その中に玉日姫という名前は出てこない。
摂政兼実から身柄を一時預かり、しばらく養育を任された子供がいても不思議はない。
親鸞が、京都時代に既に肉体関係を持つ結婚をしていたという説は、僕は少なくとも資料的に
根拠が無いと考える。むしろ京都時代結婚説は、親鸞思想を大きく歪める考えだと僕は考える。
親鸞思想の否定は、覚如から始まった。覚如にはその必要性があったのだろう。
255:神も仏も名無しさん
07/10/19 14:00:47 DWikFDg2
,,、、_‐,,,,,~、、{{ヽ::: !=;‐-{'" ,,-‐i''''ヾ\`==‐-',、 -‐-、
,、‐'''´ ヽ::::::::::.....ノ、 \ー;;;;/ / ___ヽ. `、\ ノ ヾ'',´ ̄~~`'‐ 、,ヽ、
r' ヽ--‐'"ヾ.ヽ `ヽ~_ /-=、,,,,ヽ. ,、‐'"ノ } ヽ.
. { ヾ=;;、 ヾ'''‐-、、-‐' ~,‐'~ ,,、=ヽ. } くそすれ
', ` 、,, `ヾ=、,,_ -‐''~_,,、‐;'~''~ i ; i
', \ ~'''‐-‐''~`''''" ,'´ i
ヽ、 `;、 .; 丿 ノ
` 、_,{ `‐、_ ,* ,、' ~`y'
) r' ~`'rr-、、,,,_ ,ノ"§ _,、< ,;;ゝ
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256:神も仏も名無しさん
07/10/19 15:40:27 y7RH7sPf
仏教ではどんな人間であろうと宿命的な苦しみがあると説くが、生まれながらに裕福とか貧しいとか生じるのって何かすごい不都合な事だと思うんだけど。貧乏で生まれた人は、前世が金持ちだったから?金持ちで生まれた人は前世は貧乏だったから?
257:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
07/10/19 20:00:07 uBxs+cSP
>197,>250,>256
三つは一連の問題として、仏教の本質を中核として後日書きたいと思います。
258: ̄ ̄ ̄\| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
07/10/19 20:13:04 zH6gI+eD
/ ̄ ̄ ̄ ̄\
( 人____)
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(6 (_ _) )
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| ┬ |
259:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
07/10/20 10:53:21 48YORWvJ
夢告伝説の創作者は覚如(1271~1351)である。覚如は親鸞のひ孫にあたる。本願寺
第三世であり、親鸞は覚如が八歳のときに死んでいる。
覚如の時代、京都では法然流念仏宗の勢力図が大きく変化していく時代にあった。九州と関東
で大幅に信者を拡大していた弁長系(鎮西派)が、京都でも大幅に信者を拡大し、証空系(西山
派)を圧倒して行った時代である。証空の孫弟子である一遍も勢力を拡大し、京都の念仏宗は混
沌状体にあった。関東から京都に戻った親鸞系の主張は、京都残留派の証空系からは異端視され、
弁長系からも異端視されていただろう。
親鸞集団は、親鸞在世中は法然を祖と仰いでいた。しかし、親鸞が大谷の地に埋葬されると、
証空系と完全に袂をわかち、親鸞を宗祖と認識しだしたというのは、僕は極めて自然のことだろ
うと考える。
260:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
07/10/20 10:54:24 48YORWvJ
しかし、親鸞を宗祖を仰ぐ場合、おおきな問題がある。それは親鸞の主張の仏教的正当性であ
る。親鸞は妻のある破戒僧だったのだ。破戒僧に法を説く資格があるのか。
親鸞には僧籍がなかった。この問題については、僧籍剥奪時、同時に法然上人も流罪になって
いるということで、不当な冤罪であったという主張は、法然を支持する集団の中では説得力があ
ったと思う。流罪事件が冤罪であり、僧籍剥奪も不当な処分であったということであれば、親鸞
は実質上僧侶であったということになる。親鸞は円頓菩薩戒を受けてないが、法然が一目置き、
法然と共に名を連ね、他の高弟達を飛び越して教団を背負い、断罪に連座するほどの実力者でも
あった。
しかし、それでは結婚という事実はどう説明するのか。僧は結婚ができるのか。結婚していた
ということは、少なくとも京都文化圏の常識、仏教の根本原則に照らせば破戒僧ということにな
る。僧としての基本的資質に欠くではないか。関東で教えを説く上では問題にならなかったこと
も、京都では大きな問題になる。証空は、法然から円頓菩薩戒を相伝し、浄土・天台・真言の教
義の奥義を究めた高僧である。証空と比べれば、親鸞の存在などは実に影が薄い。本願寺第三世
にとっては、親鸞の結婚に教義的な正当性を付与しなければならなかった。観音菩薩の夢告とい
うのは、こうした背景の中で出現した覚如による究極の破天荒の創作神話であるというべきだろう。
261:神も仏も名無しさん
07/10/20 11:10:07 Hh+CCg+r
仏教の教えで(仏教に限ったことではないが)、あくまでこれは健常者を対象としている救いなのではないかとたまに思うんですが、どうなんでしょうか?
262:神も仏も名無しさん
07/10/20 11:11:19 Hh+CCg+r
八正道だの六波羅蜜の教えだの、それすら解釈できないような知的障害を背負って生まれてきた人たちはじゃあ一体どうすればよいわけですか?それすら認識できない状態の人たちは救いから漏れているということですか?
263:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
07/10/20 11:15:06 48YORWvJ
>260
削除 「親鸞は円頓菩薩戒を受けてないが、」
264:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
07/10/20 12:22:03 48YORWvJ
>261-262
>76さんと同じ方ですか、違う方ですか?
>96-97について、先にコメントを戴けると幸いです。
265:神も仏も名無しさん
07/10/20 19:30:06 Hh+CCg+r
いや、違う方です。だから、私にもあなたを理解、納得させられるだけのことを言えません。
266:神も仏も名無しさん
07/10/20 22:39:15 c1eZXvoB
>親鸞は覚如が八歳のときに死んでいる
親鸞(1173-1262)覚如(1271-1351)だったと思います。
親鸞滅後九年後に生まれてる
267:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
07/10/21 08:48:42 p+J6Pox+
>>265
了解しました。後日、コメントしてみます。
>>266
ご指摘に感謝します。仰るとおりだと思います。
>>259
誤 親鸞は覚如が八歳のときに死んでいる。
正 親鸞は、覚如が誕生する九年前に死んでいる。
268:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
07/10/21 17:34:50 p+J6Pox+
覚如の作戦は、少なくと親鸞派の中では受け入れられたようだ。高田専修寺に伝わる親鸞夢記
は、親鸞が見た夢を三つ紹介している。その中には救世観音の女犯の偈も入っている。親鸞夢記
は、古田武彦さんの話では鎌倉時代に書かれた文章に違いないという。もしそうだとすれば、覚
如の創作神話は直ちに関東教団に伝搬したということだろう。
僧は結婚してもいい。親鸞派は、宗祖親鸞が予想もしなかった新たな教義を創作した。親鸞の
教えの中に、僧は結婚していいという主張など存在しない。しかし、真宗僧における婚姻の常態
化は、社会的に寺院の家族化、世襲化という変化をもたらした。徳川時代までは浄土真宗だけの
問題だったが、時代が明治なると他の宗派に拡大し、日本仏教全体の特徴となり、朝鮮の仏教に
も大きな影響を与えるに至った。
現代において、僧の結婚はいいか悪いかを論議することはほとんど意味がない。僧は生涯独身
が当たり前という常識が、僧は結婚して当たり前という常識に代わった。この原因は、実は僧籍
を剥奪された親鸞という一人の人物の結婚にあったという事実を忘れてはならないと思う。
以上をもって、長かった親鸞の妻帯論は終わり。
2,3日カキコ不能。
269:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
07/10/26 10:11:27 HSADX0Pt
>>250
> 真宗はどんな教えなのですか。
真宗とはどんな教えなのか。真宗の教えを知ろうとするなら、その前に釈迦の教えとは何だっ
たのか。そこから考えていくべきだろう。真宗は仏教であり、仏教は釈迦に始まったのだ。
>256
>貧乏で生まれた人は、前世が金持ちだったから?金持ちで生まれた人は前世は貧乏だったから?
ある者は貧しい家に生まれ、貧しいまま細く短い人生を終えていく人もいる。富の豊かな家に
生まれ、一生、遊んで笑って長く楽しい人生を過ごしていく人もいる。これはなぜなのか。多く
の人が素朴に持つ疑問を釈迦も抱いたようだ。
釈迦は僕らにある仮説を提起してくれた。仏教とは、釈迦が提起してくれたその仮説に共鳴し、
賛同し、それを学ぼうとする人々の営みであると僕は考える。だからこそ、仏教者とは、困難な
自らの様々な問題解決に、釈迦の仮説を道標として挑戦してみようとする人々の集まりなんだろ
うと僕は考える。釈迦の仮説とは、全ての迷いの根本には無明があるというものだ。仏教には四
万八千の法門があると言われている。仏教には様々な法が説かれている。しかしその根本は一つ
の仮説から生まれている。迷いの根本原因は無明にあったということだ。
人には様々な可能性がある。明るい可能性もあれば、暗い可能性もある。可能性というのは、
肉体の誕生以後に生じたものばかりではない。可能性は、肉体の誕生以前から将来の様々な
結果を潜在的に孕んでいる。
270:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
07/10/26 10:13:34 HSADX0Pt
ある者は富みのある家に生まれた。なぜ富みのある家に生まれたのか。それは、たまたまその
ような家に生まれただけだろう。富みのある家に生まれたからと言って、富のある家に生まれよ
うとしてそのような家に生まれた者など一人もいない。貧しい家に生まれようとして貧しい家に
生まれた者も一人もいない。まさに、偶々あるものは富みのある家に生まれ、別の者は、偶々貧
しい家に生まれた。偶々富のある家に生まれた者も、貧しい家に生まれる可能性があった。偶々
貧しい家に生まれた者も、富のある家に生まれる可能性があったのだ。人々は、可能性の幅とば
らつきの中で、あるものは富のある家に生まれ、ある者は貧しい家に生まれる。
世の中には富のある者がいる。富を持たない者もいる。そうであれば、たまたま富のある家に
生まれる者もいる。たまたま富のない家に生まれる者もいる。それは当たり前のことではないだ
ろうか。
富があるということ。あるいは富がないと言うこと。そのことは必ずしも、人間にとって、あ
るいは社会にとって直接大きな問題ではないだろう。富のある者は、富みのある暮らしをすれば
よい。富のないものは、富のないそれなりの生き方をすればよい。人々が解決すべき問題はもっ
と外にある。
ある者は富みのある家に生まれ、ある者は貧しい家に生まれたように、可能性には常に幅があ
る。ばらつきがある。顕在化している可能性もあれば、潜在的可能性もある。実体的可能性もあ
れば、妄想的可能性もあるだろう。可能性に対しては、取捨可能な選択肢もあり、取捨不可能な
選択肢もある。取捨可能な選択肢はほとんどの場合圧倒的に数が少なく、取捨不可能な選択肢は
膨大である。人々はその中で、一瞬一瞬に誤りのない舵取りが必要となる。この現実に、我々は
どう立ち向かっていくのか。
僕ら仏教者は、釈迦が立てた問題意識に共鳴し、賛同し、釈迦が立てた仮設を生き方の道標と
して選択する道を選んだ。 釈迦の問題意識とは何だったのか。もう少しこれを考えていこう。
271: ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄V ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
07/10/26 14:05:00 qs+dVCcu
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( 人_____,,)
|ミ/ ー◎-◎-)
(6 (_ _) )
ノ|/ ∴ ノ 3 ノ、
/ \__ /"lヽノ ヽ
/ ,ィ -っ ( ,人) ヽ
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| / | ⊂llll |
 ̄T ̄ | ⊂llll /
| ノ ノ 彡イ
| ヽ、(__人_)_,ノ|
| 人 |
ヽ、__ノ__ノヽ_
ヽ ̄ ̄ノ^ | ̄ ̄ i
272:神も仏も名無しさん
07/10/26 21:08:54 SlabHQ7k
URLリンク(usokonikki.com)
273:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
07/10/27 10:22:17 gqTRZ9Gr
釈迦の問題意識をもう少し考えてみる。釈迦は、人として解決すべき問題を苦という言葉で表
し、それが解決した状態を楽という言葉で表現している。釈迦が言う苦とはなにか。楽とは何か。
貧/富
解決すべき問題を苦、解決した状態を楽といえば、人は通常何を思うだろうか。解決すべき問
題は貧であり、解決した状態は富である。もし、そう言えば釈迦は何と言うだろうか。釈迦は決
して否定しないだろうと僕は思う。貧を苦と言い、富を楽と言っても決して間違いではない。こ
れらは、人々にとってこれは常に実に大きな深刻な問題だ。しかし貧の状態を富の状態に変える
方法を知ろうすれば、仏教は余り大きな力にはならないだろう。釈迦はこれを自分のライフワー
クとして選んだわけではない。むしろ、現代の経済学の方が比較にならない程大きな解決策を持っている。
病気/健康
解決すべき問題は病気であり、解決した状態は健康である。もし、そう言えば釈迦は何と言う
だろうか。釈迦は決して否定しないだろうと僕は思う。病気を苦と言い、健康を楽と言っても決
して間違いではない。これらは、人々にとってこれは常に実に大きな深刻な問題だ。しかし病気
の状態を健康の状態に変える方法を知ろうすれば、仏教は余り大きな力にはならないだろう。釈
迦はこれを自分のライフワークとして選んだわけではない。むしろ、現代の医学の方が比較にな
らない程大きな解決策を持っている。
274:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
07/10/27 10:23:00 gqTRZ9Gr
圧政/自由
解決すべき問題は圧政であり、解決した状態は自由である。もし、そう言えば釈迦は何と言う
だろうか。釈迦は決して否定しないだろうと僕は思う。圧政を苦と言い、自由を楽と言っても決
して間違いではない。これらは、人々にとってこれは常に実に大きな深刻な問題だ。しかし圧政
の状態を自由の状態に変える方法を知ろうすれば、仏教は余り大きな力にはならないだろう。釈
迦はこれを自分のライフワークとして選んだわけではない。むしろ、現代の自由民主主義政治学
の方が比較にならない程大きな解決策を持っている。
戦争・飢餓・天災・政情不安/平和
人が解決すべき問題は戦争・飢餓・天災・政情不安であり、解決した状態は平和である。もし、
そう言えば釈迦は何と言うだろうか。釈迦は決して否定しないだろうと僕は思う。飢餓・天災・
政情不安を苦と言い、平和を楽と言っても決して間違いではない。これらは、人々にとってこれ
は常に実に大きな深刻な問題だ。しかし戦争・飢餓・天災・政情不安の状態を平和の状態に変え
る方法を知ろうすれば、仏教は余り大きな力にはならないだろう。釈迦はこれを自分のライフワ
ークとして選んだわけではない。むしろ、現代の科学・政治学の方が比較にならない程大きな解
決策を持っている。
輪廻/涅槃
解決すべき問題として釈迦は何をテーマとしたのか。釈迦はそれを輪廻と称し、解決した状態
を涅槃とよんだ。輪廻を苦と考え、涅槃を楽と考え、輪廻の解決を図ろう。釈迦はそう提案して
いる。輪廻の原因は無明である。釈迦はそのような仮説を建てた。無明を破れば涅槃に至る。仏
教は、釈迦のこの提案に賛同し、それを実践してみようという人々の運動体を原点とする。親鸞
が提唱した浄土真宗も、この枠組みを一歩、半歩として逸脱するものではない。僕はそのように
考える。輪廻・無明・涅槃とはなにか、これを説明する。
275:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
07/10/27 10:26:05 gqTRZ9Gr
> 273-274
× これらは、人々にとってこれは
○ これらは、人々にとって
276: ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄V ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
07/10/27 20:48:06 jPSmbl3O
_,,t-‐‐-、,-‐‐-、
三'::::::............... .....::::::`y,.
ナ::::::::::::::::::::::::::::::::: :::::::::::::ヾ
| ̄| V::::::::::::::::_{{ ({∫∬ノノjヾ:::::{
| ̄| | ̄| ナ::::::::::::::i`__,,,,,,,ァ_ _,,,,,_ t;;:ヌ
| | | | イヘ::::::(ヾ~!,ャt、 !'''i ィtン )=f }f
| | | | i {t)テ" ヘ' '___,イ ヽ_/ 介'
| | | | _,rヘ_,j|!' /ー--''! |'
|,.ィ―'''' ̄ /| | /二ク !
/;;:::'';;::''::;;:/ { ! 、 ヾニン ノ\
/'''::::;r|''':::;;;| | ! \ _,,./|::;;'''\
/:;;/ |;;;''::;;| 丶\ `__>-ー´ !;;;:'''::iヽ、
i/ |'::;;;;''| 三 ―''" !''::;;;;| /ヽ
/⌒ヽ |;;''':::;| \ !;;::''|/ i
/ \{'';;;::''}  ̄二ニ= !::;;| |
/ヘ |;;:::::;{ ‐- !/ |
/ i |:::;;;''! ー ! / |
/ l |;;'';イ } {、
〉、 ∧テ{ ヽ _ _,,,,;;;;;:::-==ニ;;;_ ノ __,イ´
/ \_ //レ!  ̄  ̄ { ̄ |
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i / ̄ | | i、 |
i / || ヽ |
277:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
07/10/28 11:04:50 hlxupyRW
人には意思がある。行動がある。
けだものの心でけだものの行為をする者をけだものという。けだものは、欲はあっても全く知
恵がない。知恵のない愚かな欲望に促され、実に知恵のない行動を行う者、これをけだものとい
う。
ライオンでも、満腹になる一瞬がある。その瞬間は行動が止まる。けだものにも休息がある。
行動を停止するときがある。しかし、知恵のない行動に止まることがない愚か者もいる。こうい
う愚か者は、欲望が満たされることがなく、際限なく愚かな行動を連続していく。これを餓鬼と
いう。餓鬼とは、飢えた鬼、飢えた化け物という意味だ。
飢えた鬼にもやがて行動が止まることがある。知恵のない欲望は、紅蓮の炎のように燃えさか
り、その炎は全体が厚い南極の氷に封印され、身動き一つできなくなっている。これを地の獄舎、
地獄という。
人はしばしばけだものとなり、餓鬼となり、地獄にも堕ち、また有頂天となって舞い上がる。
有頂天の時は、全ての物事が期待通りに進行する。有頂天の意思には知恵があり、有頂天の意思
は、実現する行動に妨げがない。意思の知恵はほとんど完璧に実現されていく。しかし、その意
思はなお欲を孕んでおり、やがて欲は知恵の判断を狂わせていく。知恵は現実との狂いを拡大し、
有頂天は必ず持続不可能な時期を迎える。
昨日まで有頂天でいたものが、今日はけだものとなり、あるいは地獄の底で塗炭の苦しみを受
けることもある。馬鹿だっだった。馬鹿だった。自らの行為を心底悔い、真人間になって生まれ
変わることを固く誓った人物が、舌の根も乾かない内に再び餓鬼の手先となり、地獄の底に舞い
戻ることも決して少なくない。
278:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
07/10/28 11:08:02 hlxupyRW
意思と行動が変われば人格が変わる。人格が変わればその節々で古い人格が死に、新たな人格
が誕生する。挫折(死)があり、再起(生)がある。
中途半端に再起(生)すれば、意思は持続していても行動は再起の時の意思の実現に向かわな
くなる。人は彷徨う(病)。行動は惰性で持続していても、再起の時の意思は放棄される。人は
疲弊(老)する。人が、意思も放棄し、行動も放棄すれば、人は挫折する(死)。人はこのよう
にして、生(再起)・老(疲弊)・病(彷徨)・死(挫折)を経験する。中途半端に再起し、中
途半端に挫折する。生(再起)・死(挫折)・生・死を繰り返す。これを迷いという。人は、地
獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天の六つの世界を巡っていく。
今日の私の生老病死は、私の肉体の誕生で始めて発生したものではない。私の肉体の消滅で修
了するものではない。今日の私の生老病死は、過去、無数の人々が繰り返し繰り返し経験してき
た無数の生老病死といささかの相違もない。今日の私の生老病死は、今後も無数の人々が繰り返
していくだろう無数の生老病死といささかの相違もない。実に全く同一の生老病死が、無限の過
去から無限の未来に向かって連続している。今日の私の生老病死は、その無限の過去から無限の
未来に向かって連続している生老病死の単なる一つに過ぎない。これを輪廻という。
釈迦は、このように無限の過去(前世)から、無限の未来(来世)へと、三世に連続する輪廻
の連続を断とうと提案している。輪廻は、現在(現世)でいまここで断てば再び連続することは
ないだろう。釈迦はそう言う。輪廻を断ち、二度と輪廻しなくなったときのことを、釈迦は滅と
呼ぶ。ろうそくの火を吹き消せば、再びどこからか新たな火を持ってこない限り、蝋燭は自力で
火をともすことがない。滅とはろうそくを吹き消した状態であり、これを涅槃という。
輪廻を断とう。仏教とは釈迦のこの提案に賛同し、釈迦がライフワークとして提案した仮説を実践
することを決意した運動体である。
279: ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
07/10/28 11:11:59 2Cgsq/qn
// ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\
彳丿; \,,,,,,,,/ u lヽ
入丿 -◎─◎- ヽミ
| u:.::(●:.:.●)u:.::|
| :∴) 3 (∴.::|
ヽ、 ,___,. u .ノ
⌒ヽ:.___;;;;;;;;;;___.ノ⌒
280:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
07/11/02 11:03:41 au9bB8nk
釈迦は少年期、自分が居住する自我の城を抜け出した。すると、そこで赤ん坊の誕生を目撃し
た(再生)。自我の城に戻り、その後また城を抜け出した。そこで病人を目撃した(疲弊)。三
回目に城を抜け出したとき、釈迦は老人を目撃した(彷徨)。四回目に城を抜け出したとき、死
者を目撃した(挫折)。
自我の城で城壁に囲まれている状態の中では全てが平和に見える。そこでは何も真実が見えな
い。自我の城を出よう。自我の城を出れば真実が見えてくる。人は生老病死を免れることができな
い。人は生死生死を繰り返している。
有頂天になったかと思ったら、次の瞬間には畜生・餓鬼・地獄の世界を彷徨う。実に悲しいこ
とではないか。大変なことではないか。輪廻を断とうじゃないか。輪廻転生を苦と考え、輪廻転
生の束縛から離れた状態を楽という。釈迦は、自我の城を抜け出したとき、生老病死の現実を目
の当たりに見、出家を決意した。
苦のような境遇からはなんとか離れたい。そのように思った人は釈迦以前にもいたようだ。城
を出て出家した釈迦は、先人の下を尋ねる。釈迦はまず、阿羅邏迦蘭(アーラーラ・カーラー
マ)仙人の門を叩いた。アーラーラ・カーラーマは無所有処という境地を教えていた。釈迦は、
速やかにその師の教えを体得してその場を去る。
釈迦はその次に鬱頭藍弗(ウッダカ・ラーマ・プッタ)仙人の門を叩いた。ウッダカ・ラーマ
・プッタは非想非非想処という境地を教えていた。釈迦はこの教えに飽きたらずそこを去り、や
がて一人で坐禅瞑想に向かった。
281:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
07/11/02 11:04:15 au9bB8nk
中村元さんのゴータマ・ブッダを読むと、無所有処も非想非非想処も、共に無色界という境地
に属するという。無所有処とは、所有品も道具も持たないということであるという。中村元さん
といえば、既に故人となったが、自他共に認める原始仏教の大家であり、その主張に非を挟むつ
もりはない。無所有処は無色界であるという考えも古典にきちんと根拠のある定着した考えなの
だろう。ただ、僕は在野の批評家として独自の主張をさせて貰いたい。素人の譫言と思う人は無
視すればいい。
人はなぜ輪廻するのか。迷いを起こすのか。それは欲望があるからではないか。欲を捨てれば
いい。欲望を捨てれば間違いを起こすことはない。人はしばしば欲を捨てた理想主義を掲げる。
理想主義は、一気にバラ色の世界を描く。しかし、絵に描いた餅(色界)は腹の足しにならない。
欲を捨てただけでは何の解決もない。
絵に描いた餅(色界)じゃ解決がない。形があることそれが悪である。こういう主張は理想を
否定する破壊主義(無政府主義)に向かう。形あるものは崩れていく(無色界)。しかし、形あ
るものを崩しても、それだけでは何ら解決がない。
輪廻(欲)を断とうすればどうすればいいか。理想主義(色界)と破壊主義(無色界)という
二つの主張が生まれるのではないか。アーラーラ・カーラーマは理想主義、ウッダカ・ラーマは
破壊主義を主張していたのではないか。僕はそのように思うのである。
282:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
07/11/02 11:14:27 au9bB8nk
アーラーラ・カーラーマとウッダカ・ラーマ・プッタの考えは、大乗仏典・ブッダチャリタ
(中央公論社)13巻の方が僕には理解しやすかった。アーラーラ・カーラーマは次から次
へと捨離していく。一切を捨離しなければ完全に目的を達したことにならない(258頁5行目)。
欲を捨てていく理想主義の境地を主張している。
ウッダカ・ラーマ・プッタは、一切を捨離する無一物の状態を脱し、その彼方にある想念あり、
想念なしの議論を超越していく(259頁4行目)。非想非非想処は想念を持たないことも想念
を持つことも無い。理想主義にはビジョンがある。計画がある。餅を描いた絵がある。これに対
し、非想非非想処は、想念を持たないのではないようだ。つまり、絵に描いただけではだめという
思いはあるようだ。その上で、想念を持つことも無い。想念を持たなければ、実体どころか、絵す
ら描けない。実体(欲)もなく、ビジョン・観念(理想)をもつことすら放棄すれば、人は真空となる。
まさに無政府状態となるのではないだろうか。
餅を絵に描くだけの理想主義では解決がない。しかし、その絵さえ否定しても解決はない。釈
迦はやがて、輪廻の根本に無明があることを発見し、十二因縁の仮説と、四諦八正道を見いだし
ていく。 (2,3日カキコ不能)
283:神も仏も名無しさん
07/11/05 18:56:22 KlICmw36
2,3日カキコ不能と言いつつ親鸞会スレを荒らしてたニート海難
スレリンク(psy板:169番)
スレリンク(psy板:188番)
スレリンク(psy板:190-191番)
スレリンク(psy板:218番)
スレリンク(psy板:227番)
スレリンク(psy板:294-296番)
スレリンク(psy板:306-307番)
スレリンク(psy板:327-328番)
スレリンク(psy板:341-342番)
スレリンク(psy板:344番)
284:神も仏も名無しさん
07/11/07 22:31:30 QZPTdSYb
|| !| │
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|| !| │
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Ξ||Ξ!| │ …ああ先生ぇ……
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| .! {;;;;;;;;;;;;;;}  ̄ ̄!| |.!
||`ー|. ̄ 丁 ̄|\ :'::;;;;;;;;;::' __」.! !.!
__||二二二]|__ || | ,r''''"~ ""''ヽ.:l─´. !.!
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄.!l `ヽ !、 :.i' 'i,=コ|.|
|| l三三l || ,_」___: | 'i,'丑丑|ニl___,'ニヽ___
||.==========!l '‐┬┬‐─ ! i'> }. ───┬┌′
|| l三三l || | /丁,.` ! ; _ノ _,...、 ̄ ̄ ̄丁ヽ、|
||==========:!| | !.| 'i, `'i'''―--―''''i'ニ-'" ノ . .! | |
|| l三三l !l .| !.! ヽ.i' "' '''"'; _/ _,,..i'"':, . ! ! !_
||----------|.! ___,| !.|_メ´丶ゝ_,.i、_ _,;..-'" |\`、: i'、.`ー'
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ー'"  ̄ \\`_',..-i
. \|_,..-┘
こうして、今日もパソコンの前で一日中座禅念仏をする渡海難であった。。。
285:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
07/11/09 09:48:42 sl0Nxim5
再起・挫折・再起・挫折を繰り返すことは確かに大問題だが、貧困は大問題ではないのか。病
気は大問題ではないのか。圧政・戦争・飢餓・天災・政情不安は大問題ではないのか。こういう
反論は当然あるだろう。貧困・病気・圧政等も、人類が立ち向かわなければならない問題であり、
再起・挫折を繰り返す輪廻も立ち向かわなければならない問題である。いずれも大事な問題だと
いうべきだろう。貧困や病気や圧政などについては、その解決に向け、社会的には様々な提案が
なされている。我々は、こうしたそれぞれの提案に、適宜耳を傾けながら取捨選択し、必要に応
じ、立場立場で必要があれば逆提案をすることもある。
輪廻の問題もそうした発想と決して矛盾するものではない。我々仏教徒は、輪廻の問題につい
ては釈迦の仮説的提案に耳を傾け、釈迦が提案した方法論を、自分の生き方の中で試験的に、
あるいは継続的に実践してみようと選択した人々である。僕はそう考えている。
十二因縁の仮説とは何か。十二因縁の仮説は十二個の単語が続いている。無明・行・識・名色
・六処・触・受・愛執・有・生・老病・死、である。十二個の単語は経典間によって若干の揺れ
があるが本質的な相違ではない。
286:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
07/11/09 09:49:28 sl0Nxim5
本源(過去因)
ああ、俺は馬鹿だった。俺は本当に馬鹿だったんだよ(無明《根本原因》)。馬鹿だったから
あんな衝動が涌いた(行)。
現状分析(反省)
馬鹿だったからあんなことを考えたんだ(識)。知恵も分別もなく衝動が涌いた。そんな考え
が涌いたからこそ、あんな事物を意識した(名色)。あんな意識が涌けば、ものごとはみんなそ
っちの方に見えてきた。耳に心が宿って聞こえてきた。目に心が宿って見えてきた。感情に心が
宿って感情が動いてきた(六処)。耳に不快なものは避け(触)、耳に快い方に心は向かった
(受)。
現状分析(束縛)
そうなれば物事に執着が現れる(愛執)。執着は積み重なっていく(有)。
未来分析
執着すれば繰り返し繰り返し再起しなければならない(生)。繰り返し繰り返し再起すれば繰
り返し繰り返し彷徨・疲弊する(老病)。愚かな行為は、今後も繰り返し繰り返し挫折するだろ
う(死)。
287:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
07/11/09 09:51:35 sl0Nxim5
釈迦の主張と従来説の違いは、無明という概念を出したことだ。それ以前には、輪廻の根元は
欲望にあると考えられていたようだ。欲を断てばいい。理想主義(色界主義)はそう主張する。
欲さえなければ人は迷うことがない。そう考えられていた。しかし、欲を断ってもなかなか迷い
は尽きない。これに対し、欲を断っただけでは駄目なんだという主張もあった(無色界)。それ
じゃ何が原因なんだというところで、行き詰まった。釈迦は無明という概念を提案したのである。
迷いの根元は無明にある。この仮説は、大乗仏教・小乗仏教の全てを貫徹する共同認識であり、
この仮説を否定する思想は仏教ではない。では無明とは何か。無明とは、方法論が無いという現
実である。これを考えていこう。
288: ̄ ̄ ̄ ̄\| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
07/11/09 18:47:29 AP0lNH1x
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''" \/ヽ ヽ ヽ _ 'i / ヽ
289:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
07/11/09 20:07:22 sl0Nxim5
ちょっと脱線します。僕の説明が悪かったかも知れない。
あるお寺の報恩講で今年始めて五会念仏をしましたという報告を受けました。門徒方には大変
評判が良かったそうです。来年のリクエストにも入ったそうです。
ただ、その方のメールの中で、座禅念仏という単語が出できました。2ちゃんねるの荒らし坊
主が「座禅念仏」という言葉を使用するのは僕の知ったこっちゃないけど、真面目に念仏を考え
ている方が座禅念仏という表現を使うとすれば、これは気になる。親鸞教学に無用の混乱が起こ
らないよう、用語についてここで再度確認しておきたい。これまでの僕の説明が悪ければ、説明
が変わってと思ってくれてもいい。親鸞の真意と思えるところをできるだけ正確に公表しておき
たい。
宗祖は座禅念仏という言葉は使っていない。五会法事讃略抄を見て欲しい。五会法事讃略抄で
宗祖は、「念仏三昧は、真の無上の禅門なり」といいながら、教行信証では、全く同じ箇所を引
用して「念仏三昧は、真の無上の門なり」と言い、教行信証では敢えて禅という文字を落として
いる。絵画には、額絵画と非額絵画とがあるんじゃない。額があっても額がなくても絵画なんだ。
念仏にも、座禅のある念仏と座禅のない念仏とがあるんじゃない。座禅があっても、無くても、
それは念仏なんだ。
290:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
07/11/09 20:09:10 sl0Nxim5
念仏は、行住座臥、不問時節久近というのが原則である。何かを行動しながら称えてもいい。
止まって称えてもいい。座りながら称えてもいい。寝ながら称えてもいい。長い間称えてもいい。
短い時間で称えてもいい。時間を決めて称えてもいい。時間を決めないで称えてもいいんだ。だ
からといって、動きながら念仏・止まりながら念仏・着座しながら念仏・仰臥しながら念仏、と
いう四種の念仏があるというわけではない。
念仏は、座りながら称えてもいいなら、正座して称えてもいいんだ。あぐらして称えてもいい
んだ。それなら座禅して称えても一向に悪くないだろう。時間を決めないで称えてもいいんなら、
一定時間、外に何もしないで念仏だけに集中して称えるという念仏方法があってもいいだろう。
行住座臥、不問時節久近の念仏にはそのスタイルは自由かつ多様なんだ。多様な念仏スタイルの
一つの選択肢に、念仏三昧という念仏方法が歴史的に存在してきた。
念仏三昧をしようとする者は座禅して称えるといい(教行信証)。親鸞はそう勧めてくれてい
る。観無量寿経を読む分かるが、座禅こそが極楽浄土の正式な着座スタイルだ。念仏は、座
りながら称えてもいいんだから、当然、座禅して称えてもいいわけだ。座禅が極楽浄土の正式な
着座スタイルであれば、念仏三昧をしようとする者は、座禅して称えるといいだろう。親鸞はそ
う言っている。これは極、当たり前の提案だ。
念仏三昧で、念仏を座禅して称えるなら、その中で特に五会念仏という方法が一番いい(法事
讃略抄)。親鸞はそう教えてくれている。
教行信証を読むと一般的な念仏の意義や目的が色々書いてある。とりわけ念仏三昧の効果につ
いて特筆している。教行信証は、座禅して念仏を称えるこの五会念仏の効果を念仏三昧の効果と
して特筆している。
宗祖の書き物は、その真意を正確に読んでいきたい。
291:神も仏も名無しさん
07/11/09 20:38:11 4lgtHQo3
>>289-290
今までのは全部渡海難の妄想だった
まで読んだ。
292:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
07/11/10 08:28:20 dPlOSCo5
>289
誤 座禅があっても、無くても、それは念仏なんだ。
正 座禅があっても、無くても、それは同一念仏なんだ。
二種類の念仏があるんじゃない。同一念仏無別道故
という大原則をはみ出るんじゃないんだ。
293:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
07/11/10 10:47:31 dPlOSCo5
釈迦仏教論に戻ります。
無明とは何か。知恵がないということだろう。言い換えれば、知恵があれば人は迷わない。再
起・挫折・再起・挫折を繰り返すことはない。
このように言うと、それはおかしいという意見も出る。六道の内、地獄界・餓鬼界・畜生界には
確かに知恵がない。これを三悪道という。しかし、少なくとも人界には知恵がある。十分とは言
えないが、あるか、ないかと言えば知恵はある。人は、知恵を失うと三悪道に転落する。だから
こそ、人は知恵を持たないといけない。三悪道の人が真人間に戻るというのは、知恵があって
始めて可能となる。輪廻の人界に知恵がないというのは言い過ぎではないか。人界だけではな
い、天界にも知恵がある。むしろ天界は圧倒的に豊富な知恵で溢れている。天界は、圧倒的に
豊富な知恵と行動力を持ち、他が真似できない実力で自らの意思を実現する。問題だったのは、
天界・人界さえ輪廻から免れられないという事実ではなかったか。
仏伝によれば、釈迦が悟りを開くと、帝釈天・梵天が直ちに天から下りてきて釈迦に教えを請
う。帝釈天・梵天ともなると、ずば抜けた能力を持つ。帝釈天・梵天などは、どこかで誰かが悟
りを開いたということは、直ちに察知できる。
帝釈天や梵天は、釈迦から何を学ぼうというのか。一介の僧より、帝釈天や梵天の方が遙かに
様々なことを知っている。ずば抜けた行動力もある。その帝釈天や梵天が、釈迦から何を学ぼう
というのか。
294:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
07/11/10 10:49:10 dPlOSCo5
帝釈天・梵天は釈迦にあらゆる点で勝っていたはずだ。ただし、一点を除いてである。帝釈天
・梵天は、圧倒的に釈迦に勝っていた。しかし一点において釈迦に叶わなかった。この一点によ
って、帝釈天・梵天は釈迦に完全に敗北していた。帝釈天・梵天は釈迦に圧倒的に勝っていたが、
一点において叶わないことがあったため、地にひれ伏して教えを請うことになる。その一点とは
何か。自分は何一つ分かっていないという一点である。
帝釈天・梵天はあらゆることを知っていた。他と比べものにならない圧倒的な実力を持ってい
る。その帝釈天・梵天が、唯一釈迦に叶わなかった点、それは、自分は何も分かってないという
そのことを知らなかったと言うことだろう。この一点で帝釈天・梵天は、釈迦に対し、教えを請
うた。あらゆることを知り、圧倒的な実力を持っているものが持っていない唯一の知、それは無
知の知である。それが釈迦の悟りだったと思う。無知の知が無い。それが無明ということだろう。
釈迦から無知の知を教わった帝釈天・梵天は、その後眷属を引き連れて釈迦の守護神となった。
釈迦の無知の知は、分析論と方法論とを切り分けたということだろうと思う。分析論を悪因悪
果という。方法論を善因善果という。釈迦以前にも知恵はあった。しかし現状分析論と方法論と
の切り分けがない。両者は渾然一体化し、まだら模様化している。これではうまく行くときは成
功するが、やがて必ず行き詰まる。
295:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
07/11/10 10:52:10 dPlOSCo5
分析論だけではだめであり、相応しい正しい方法論が備わっていなければならない。方法論は、
正しい分析論を合わせよう。釈迦はそういう提案をしている。こういう知恵は、東洋では釈迦が
最初に抱いた。世界にはもう一人いると僕は考えている。それはソクラテスだ。
釈迦とソクラテスは洋の東西でほとんど同時期に誕生し、両者は全く出会うことはなかった。
しかし二人は人類の発展に不可欠の要素をもたらした。釈迦は祇園精舎を建設し、ソクラテスか
らはその弟子であるプラトンが、アカデミヤを建設し、世界の学校の原点になった。二人の共通
点は、教育ということだ。
議論を教育論に飛ばす前に、もう少し釈迦の悟りを考えてみる。ここは親鸞仏教の重要な原点
だからだ。
296:神も仏も名無しさん
07/11/10 11:27:12 pKGvDxyT
|\__/ハ__
{_____」
\\ ∧_∧
◎ ≫〃vミー‐w へ (´<_` ) くせえんだよ
\ 彡_____彡ヽ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄⌒ \
{_親●鸞___| )  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ )
◎-○一( * * ヽミ |. |
((_ _ (( ( ;;;;-=- ̄=─ ̄ '⌒ヽ.〉 | |
‘,'.∴・,‘・(ε (( ヽ:: -=_二__ ̄ . \_ | |
,'.・∵ ヽ_____ ノ  ̄\ / /
( ) 渡 ≡ ;;; ) ) .\__/_丿
|__|. 海 ≡ ;;; )_l .| |
_| | 難 ≡ ;;;; ) ( | |
| \.._\. 入 \, | |
|ハルヒ(_る~~~~~wv) \ ヽ
|___||:::::::::::::/::::::::::/ \ |
.|;;;;;;;;;;;/;;;;;;;;;;;/ / ノ
(___|)__|)
297:神も仏も名無しさん
07/11/10 17:47:17 9Kvbl2Qv
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
| ___OO___OO キモいぜ! i⌒i__ ┌─┐...|
|(_____)(___ )_l⌒l(⌒( ̄ ___)│12│...|
|(__ __) ノ ノ(_ ヾノ~| .(__)└─┘...|
| ノ / / ./( O ,-, )ノ ノ__ 三|三|- |
| ( _ ノ ( __ ノ \__ノ ( _ ノ(___(___)ノ| ̄| .|
| 「激闘!東京ビックサイト」の巻  ̄~ .|
| ┏━━━━━━━━━┓ |
| ┃ ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;/ ̄ ̄ ̄ ̄\;;:;:;:;;:;'''''''´`´` ..┃ |
| ┃ ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;( 人____)::::::::::. ┃ |
| ┃ ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;|ミ/ ー◎-◎-) __ :::: ┃ |
| ┃ _,.-;:;:;‐`;(6 (_ _) )'"-ゞ'-' ::::: ┃ |
| ┃ /;:;:;:;:;:;:;:;:;:| ∴ ノ 3 ノ : :::::: ┃ |
| ┃トヽ:;:;:;:;:;:;:;//\_____ノ⌒ヽ, ( ,--、_ ┃ |
| ┃i!`ー、_,、{;;l`ヽく_oー―=''''"||:;:;:;:;:;ヽ, ┃ |
| ┃ヽ l/;;;:`ー-;川♀'┴-、|j;:;:;:;:;:;:;:;ヽ,._,-'ニ二┃ |
| ┃ |ヾ、 i;;;:::::;;;;;(0:::)ヽ;;;-::"フ;:;:;:;:;:;:;:;:;:::il ヽ┃ |
| ┃ 1ヽニフヽ;.-''"/ 7'、;;;;;;;:::;;;;i'ニニ、ヽ___j.ヾニニ ┃ |
| ┃,,┴フ;:{ ,.∨ |L ゝ;;;;;ノi , __,..-'" ;;;;;;;;;;;;;;;;┃ |
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
| 応援ヨロシク!./ ̄ ̄ ̄ ̄\ ア ニ メ 化 決 定!|
| / ̄\( 人____)テレビ東京系列 |
| , .┤ ト|ミ/ ー◎-◎-) 深夜0時25分~ |
| | \_/ ヽ (_ _) ) .|
| | __( ̄ |∴ノ 3 .ノ ファンの要望に応えて |
| | __)_ノ ヽ ノ | ̄| あの デブおた君が |
| ヽ___) ノ )) ヽ.|∩| アニメで登場だ! .|
|______________________|
|三三三三三三三三三三三三三三三三三三三三三三|
298:机龍之介 ◆8Z1PfzdK1.
07/11/11 12:58:05 bmQxy78H
原始佛教スレで、このスレが紹介されてましたので、とりあえずロムってみました。
さすがに渡海氏は親鸞については詳しいですね。
で、>>76氏の問いで渡海氏の>>96の答えを拝しました。
知的障害というのは、そもそも現実的に腹式呼吸は無理なんじゃ~ないか?
これは丹田呼吸法と同じですか?
ある程度の精神集中は必要ですし。
で、これは私の自論(持論)なんですが、
そもそも知的障害というのは、程度の差はあるかと思いますが
俗世間的には悟ってますね。
悟ってる御仁というのは、そもそも阿弥陀如来に帰依せんでもいいかと思うのですが、
このてんどうでしょう?
自然法爾で調えば宜しいんじゃ~ないかと、
かように思うのですが。
あと私が伺いたいのは、真宗で悟った瞬間というのがあるらしい。
これは阿弥陀仏からの手綱を離した瞬間らしいのですが・・・
その後の境涯について伺ってみたいですね。
299:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
07/11/11 14:04:06 RG66Z1ir
>298
>知的障害というのは、そもそも現実的に腹式呼吸は無理なんじゃ~ないか?
うん。まあそうかもしれないね。
> これは丹田呼吸法と同じですか?
禅の時の腹式呼吸は同じだと思っています。
> ある程度の精神集中は必要ですし。
なるほど。
> そもそも知的障害というのは、程度の差はあるかと思いますが
> 俗世間的には悟ってますね。
なるほど。僕も、昔はよくボランティア活動で施設に行ったんだけど
知的障害者だって、苦しんでたよ。それは健常者のぼくらと同じか、
それ以上だった
> 悟ってる御仁というのは、そもそも阿弥陀如来に帰依せんでもいいかと思うのですが、
悟ってない人だって、別に帰依しなくてもいいんじゃないのか?。
> 自然法爾で調えば宜しいんじゃ~ないかと、
何か、自然法爾が必要ですか?
> あと私が伺いたいのは、真宗で悟った瞬間というのがあるらしい。
> これは阿弥陀仏からの手綱を離した瞬間らしいのですが・・・
念仏は禅と密接不可分の関係にあります。真宗では悟ったとは言わない。多分、これは
北宗禅と南宗禅の対立と分裂に遡る考え方だろうと思う。
いずれ、釈迦仏教論から大乗仏教論、大無量寿経の起源、念仏の救いとは何かという
問題に絡めて、多いに議論すると思います。
真宗とは何かというのは、実に大きな問題で、一口で言えることではないんです。
300:神も仏も名無しさん
07/11/11 14:26:00 fb4zpsal
' ,; `, ; ` ; ,
ボォオオオオオオオオオ ; y"'(,;r_ソi,; ,
ノ;";;',,,u`゙;,゙`,,;;.´`r;
/  ̄ ̄ ̄\ ´; (,,'_;、;_;;',;人;;';`:;)
/ \ ,,/丶 ヽ(;,◎-◎一;;u:ヽミ/
/ (●_ (● ´,,;)(";;(。。;;(´";゙,;;`9)
| ::⌒(__人_)) ; ゙、 ノ;,‘"ノ{、;ε`,;;,';;u゜,, "イ
. \ `ー'/ '′,; ;ソ′ノ},; ' ; "; ,',ヽ;;';_;;;;_;;_`,;イ二)
√㊥/⌒\ーィ´l≒ー№____ハ,,''",_,,'′;⌒",⌒'"~`,,,´ ,"彡"从;;:´'';´~゙゙;((´⌒:)~ヘ
∟_|\ ir─┴!ー─,=ァ──‐';y、~~、, '' ≠ ル'";; " ;|___| }
|___| `ー─┬'ーtョ' ′ `゙ーヾン,," ,; ; ,, 从"‘ 渡海 | | ロ
. ⅢII| ー─‐l ' `゙ヾ;;;;ン,,,ノ;Y;≒;;,',`_____| ,人_}
| / / ,´ ;,ヾ、 、, (_,,ソ
|__/,__/ ; |__,|____,|
└一ー一 ノ'__}("___}
301:机龍之介 ◆8Z1PfzdK1.
07/11/11 15:32:50 bmQxy78H
>>299
>念仏の救いとは何かという
昔NHKかで放映されてましたのが記憶にありまして、
阿弥陀如来から数本の綱が出てまして、その綱を持った僧が念仏を唱えながら
如来仏の周囲を旋回する。
(これは浄土宗のどの宗派かは分かりません)
この姿は、母(如来)が子(僧)の手を取るところに似てますね。
(帰依するとか、帰命するとかの体現でしょうか?)
まあ、いつかは子供は母から離れませんといけませんから、
他力の本願といふのは、まさにこの手綱を離した瞬間かと、
そのように思うたもんです。
> 念仏は禅と密接不可分の関係にあります。真宗では悟ったとは言わない。多分、これは
>北宗禅と南宗禅の対立と分裂に遡る考え方だろうと思う。
なるほど、そぉでしたか。
ならば真宗は北禅に近いやもしれませんですね。
ここは熟考せななりませんです。
どうも参考になりました。
302:机龍之介 ◆8Z1PfzdK1.
07/11/11 15:44:18 bmQxy78H
>知的障害者だって、苦しんでたよ。それは健常者のぼくらと同じか、
> それ以上だった
知的障害じゃ~なくても、脳性麻痺などは知的には問題がなくても身体が麻痺してることもありますからね。
これは健常者には想像もつきません。
手が麻痺しているために自慰行為というのが出来ない。
というのは、あまり健常者には知られていない。
>悟ってない人だって、別に帰依しなくてもいいんじゃないのか?。
知的障害でも、幕末の仙台四郎などは、私は悟ってる御仁かと思いますがね。
>何か、自然法爾が必要ですか?
いやいや、なにもせんでいいかと。
かように思ったしだいです。
<かしこ>
303:神も仏も名無しさん
07/11/11 22:26:51 3qbuk07b
渡海 「!/7
↓ /ふ(⌒r_-_、_
/ ̄ ̄ ̄ ̄\ .l'、そrィ(_,,},}ニ)
( 人____) l ` ''ー<´..... __゙!
|ミ/ ー◎-◎-) ゝ.,,______ |
,r (6 (_ _) ) |ミ/ ー◎-◎-)
,/ヾ<|/ ∴ ノ 3 ノ (6 (_ _) )←机龍之介
,.、‐'":ヽ::::\ __ __ノ |/ ∴ ノ 3 ノ
/::::::::::::::::ヽ::::::ヽ `/)乙二ス、 ,rニ ̄`ヽ __ノ
/:::::::::::::::::::::::::::ヽ::::;/ ーンノハヾ,!} /- ... `ヽ、 ,! ! ヽ
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!:::::::::::::;:、-'":::::::::::::::::::|::/::::;:':{;::::i, |:::::::::} :. i :.. ヽ :. ',
}::::::;:::'::::::::::::::::::::::::::::::::|'::::;:':__:i;::::::i, l;::::::::| ヽ _,,..、、-‐ 'i ゝ,
|::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::|:;:':::|ll|::l;:::::ヽ.',:::::;! ゙i ノ .: )
,!:::::::::(⌒)::::::::::::::::::::::::::|::::::|ll|,r;|:::::::::'J:/ ``ヽ、 __,,. r=ニ=ュ __
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304:机龍之介 ◆8Z1PfzdK1.
07/11/12 09:40:37 cMH0NawS
>北宗禅と南宗禅の対立と分裂に遡る考え方だろうと思う。
始祖から五祖に到る過程において、
その象徴的なものが神秀に法灯(法衣)を継承しなかった五祖・弘忍だろう。
慧能の去った後の東禅院は、既に蛻の殻だったそうですから、
いかにこの事変がインパクトのあるもんだったか推測される。
この段階において、五祖の評価は高い。
(ここに関心のある御仁は少ないが・・・)
既存の価値観に依存しない。
親鸞の戒律破壊とか、それによって旧態が果たして何だったのか?
それに疑を向けることによってしか抽出されない
「宗教的な命題は本当かどうかなんか言えるはずが無く、
信じるか信じないかしかない」。
歎異抄には、こんなことが書かれてますけど、
これなんかは非常に禅的?ですね。
305:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
07/11/12 10:36:15 dMGuGNyU
>304
>慧能の去った後の東禅院は、既に蛻の殻だった
南の主張でしょう。 (w
兄弟子に反発し、喧嘩状態で分派した弟弟子集団が、「あいつの所には
もうカス以外には何も残ってねぇーぜ。ざまぁー見ろ。さあ、笑ってやろう
じゃないか」と、こんな風に分派側が毒づくという話は、いつのどこの世界
にもあることだ。
>これなんかは非常に禅的?ですね。
禅の話はもっと後にしたいと思う。歎異抄の評価については、見解が相
違します。南と北とが、同じ価値観、見解なら、分裂などは無かったでしょ
う。親鸞は、仏心宗を聖道門と呼んで批判する。これは栄西の臨済宗を批
判しているものだ。親鸞は、北から見た南批判を承継している。
もともと、禅のない仏教などは存在しない。禅的でなければ、それは
仏教ではないんだと思う。しかしそれは、南の考えを支持しているという
ことではない。
そのまえに、釈迦の悟りをもっと考えていく。
306:机龍之介 ◆8Z1PfzdK1.
07/11/12 11:14:10 cMH0NawS
>>305
>こんな風に分派側が毒づくという話は、
いやぁ~そうでしたか?
私はそんなふうには思ってなかったですね。
文献において考察したまでのことですが・・・
神秀は長身でハンサム、また秀才でもあった。→五祖の一番弟子
慧能は背が低くてブ男、また無学。→新人(米搗き役)
両者は非常に対照的であり、腕力からしても神秀が上手。
東禅院を抜けるときも、慧能は逃げるようにして出て逝く。
>親鸞は、北から見た南批判を承継している。
なるほど、そうでしたか。
親鸞の人間性が出てますね。
まあ、慧能というのは見方によれば異端であったわけですから。
これは納得が逝く話です。
(真宗という脈絡からすれば北禅に近いでしょうね)
>もともと、禅のない仏教などは存在しない。
またいずれ、坐禅念仏のことでも御教示願えれば幸甚でありまふ。
307:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
07/11/17 12:39:44 VdHHLuUW
>306
>私はそんなふうには思ってなかったですね。文献において考察したまでのことですが・・・
これは失礼申し上げた。「東禅院は、既に蛻の殻だった」というのは、このように書いてある
古文書があると言うのではなく、机龍之介さんがそのように考察したということだったんですね。
それなら、>> 305の記述はお門違いだったですね。机龍之介さんがどう考察してもそれは自由だ。
失礼しました。
ただ、神秀は唐の皇帝に仏教を教え、北宗禅は、唐朝廷の公式の仏教となりました。遣唐使の
ような国家間の留学生はこれを学びに海を渡りました。蛻の殻ならそういうことにはならなかっ
たと思いますよ。なお、少林寺拳法の少林寺は、現代では数少ない北宗禅を名乗っているそうで
す。
延暦寺の僧兵もこの北宗禅を学んでいたはずなんで、僧兵・一向一揆などとの関連で、北宗禅
は武闘派、南宗禅は農耕派なんじゃないかというイメージを僕は持っている。見当違いかもしれ
ないけどね。
>真宗という脈絡からすれば北禅に近いでしょう
善導禅師→法照禅師→円仁大師→親鸞という流れがあります。
法照禅師は唐の皇帝に五会念仏を教えている。中国仏教全盛時代、全盛の中国仏教の最高指導
者だったようです。
308:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
07/11/17 12:41:59 VdHHLuUW
釈迦は十二因縁の法理を悟ったとき、同時に四諦の法を悟った。四諦とは、苦諦・集諦・滅諦
・道諦の四つを指す。
釈迦は、菩提樹の下で十二因縁の法理を悟ると、五人の比丘に法を説いた。中村元さんのゴー
タマ・ブッダを読むと、後代の人が尾ひれを付けたり省略したりして、いろんな説があるようだ。
その一つ漢訳増阿含経を中村元さんの著作から孫引きする。
「四つの聖なる真理がある。四つとは何か。曰く、苦という聖なる真理。苦の集起という聖な
る真理。苦の止滅という聖なる真理。苦の止滅に導く道という聖なる真理である。仏は、この経
を説きおわって、諸々の修行僧は仏の諸説を聞いて喜び奉じ行った」。
釈迦は最初に何を説いたのか。十二因縁、中道、四諦、八正道など、いろいろ経典によって異
なるそうだ。歴史的には正確なところがよく分からないようだが、十二因縁、中道、四諦、八正
道など、何かこの辺の教えを説いたのだろう。仏教発足の非常に早い時期、仏弟子達は、十二因
縁・中道・四諦を仏教の原点として認識するようになっていった。
考察する。十二因縁と四諦とは釈迦の悟りの裏と表である。裏と表を合わさったものが中道、
中道を実践する道が八正道、結局、十二因縁と中道と四諦と八正道とは釈迦の一つの悟りを立場
を変えて表明している。仏弟子達は釈迦からそのように教わったんだろうと僕は思う。
十二因縁を語れば、裏には必ず四諦がある。四諦を語れば、裏には十二因縁がある。十二因縁
のない四諦は存在しない、四諦のない十二因縁は存在しない。四諦と十二因縁が合わされば中道
になる。中道は、八正道で具現する。八正道を実践するということは、四諦を実践することであ
る。四諦を実践することは、十二因縁の業を断つこと。涅槃を得ることである。
十二因縁は悪因(無明)・悪果(生死)を教えている。悪因・悪果の裏には善因(道諦)善果
(滅諦)がある。悪因悪果・善因善果、因果の理法が正しく併存するところに中道が具現する。
中道はいかにして具現するのか。それは八正道による。正見・正思・正語・正業・正命・正精進
・正念・正定を実践せよ。これが涅槃の道である。ここで大事なことは、釈迦には方法論がある
ということだと僕は思う。
309:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
07/11/17 12:44:48 VdHHLuUW
十二因縁とは分析論である。十二因縁は現状を分析している。多くの論者は分析で話が止まる。
釈迦は方法論を明らかにした。四諦と八正道は方法論である。四諦は、方法論の総論である。八
正道は具体論である。
こう議論を進めてくると、十二因縁がいう無明の本質が見えてくる。色界には方法論がない。
夢のようなことを言うが、実現方法に具体性がない。それが色界だ。無色界には分析論がない。
行き当たりばったりの方法論はあるが、行き当たりばったりで何をしたいのかが分からない。分
析論が無い。釈迦は方法論(四諦)と分析論(十二因縁)をセットにした。釈迦は、分析論と方
法論とをセットにし、方法論を総論(四諦)と具体論(八正道)で説明している。
無明とは何か。無明とは、分析論も方法論もない、欲の赴くまま(欲界)、分析論はあるが方
法論がない(色界)、方法論はあっても分析論がない(無色界)。無明とは、何がどうなってい
るのか分からない、何をどうしたらいいのかがわからないという状況である。何をどうしたらい
いのかがわからないから人は迷う。生死生死を繰り返す。分かったつもりでいても、実際には何
も分かっていない。
十二因縁、中道、四諦、八正道が釈迦の悟りの全体である。仏教の原点である。中核である。
これ以外の教えは仏教ではない。親鸞の教えであっても、決してその例外ではない。浄土真宗と
は、まさに釈迦のこの悟りを中核としていることを決して忘れてはならない。
もし、釈迦の悟りと親鸞の思想との間に相違があれば、それは時間というファクターが加わっ
ているだけである。釈迦の悟りは、紀元前四世紀ころのインドの思想である。親鸞は紀元十二世
紀の日本に誕生している。時間ファクターがどのように加わっていったかを議論する。
悟りを開いた釈迦はその後何をしたか。それを考えていこう。
310:神も仏も名無しさん
07/11/17 13:47:34 nlh96azf
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| 彼女ができたにょ~
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川_ノ从仆从)) ( 人____) | = \ミ|
| |_」O Oy |ミ/ ー◎-◎-) [¬]-[¬]一 6)
| .人ひ - ノ| (6 (_ _) ) < 「、 > | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
`⌒ニ| 匸⌒' _| ∴ ノ 3 ノ .| (一) ||| ./ < 等身大フィギュアじゃねーか。
f´\〔X〕フ、 (__/\_____ノ \___/\ \_________
!__j_》、___,》_) / (__)) )) (( ((\|/|⊃
〔>ヽヽっ./ /〕 []_ | | 渡海 難ヽ .|机 |\/
ム/i\_)_∧j |[] | |______) |龍之介|ノ
/\i i∧ \_(___)三三三[□]三) .(三□三三)
/:::/::`ー一ヘ::::ヽ /(_)\:::::::::::::::::::::::/ |::::::|:::::::::::|
く::/:::/:::l::::lヘ:::ゝ::::ゝ| Sofmap|::::::::/:::::::/ .|::::::|:::::::::::|
`´^ト‐iー'i_´ー ^´ (_____);;;;;/;;;;;;;/ |;;;;;;|;;;;;;;;;;|
f`f⌒if⌒i (___|)_|) (|__(|__)
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
311:机龍之介 ◆8Z1PfzdK1.
07/11/17 15:03:16 JuAqXImw
>北宗禅 は武闘派、南宗禅は農耕派なんじゃないかというイメージを僕は持っている。
>見当違いかもしれないけどね。
なるほど、なかなか示唆に富んでいる書込みですね。
例えば、
剣術などを習うと、ごく自然に精神世界に関心が向くようになる。
剣の勝敗というのは殆ど一発で勝敗が決しますから、
当然の如く精神修養に関心が向くんでしょうね。
鹿島流などは、相手の切り込むその刹那に・・・相手のコテに剣を入れるのを得意とする。
コテを入れた時点で相手は戦意を消失しますから、それで殆ど勝敗は決まる。
まあ、重い剣をいつまでも振り回す訳にいかんから、
この奥義は長年、秘儀として伝えられたもんでしょう。
(つづく)
312:机龍之介 ◆8Z1PfzdK1.
07/11/17 15:04:00 JuAqXImw
相手に先手を打って切り込むには、恐怖心があっては出来ませんから、
先ず平常心をもつ。
そこから精神を集中させる。そして相手の動向を即座に観察する。
これだと本来無一物の南禅では無理ですね。
南禅の象徴的な人物というのは場祖かとおもいますね。
馬祖の風貌というのは、今でいうホームレス的なものっだったでしょうから、
これは農耕的な・・・どこにでも居るオッちゃんタイプですね。
南禅だと、こういうタイプに憧れる。
法燈国師とか盤珪はルンペンになってますから。
誰でもこういうのは一度はやってみたいんでしょうね。
坊主と乞食は一度やったら辞められない。
ともいう。
私もそういう時期がありましたw
獅子文六の「自由学校」を読んでから・・・
まあ、リアルではシビアなんでしょうけどw
313:机龍之介 ◆8Z1PfzdK1.
07/11/17 15:20:25 JuAqXImw
鹿島流で有名なのが塚原卜伝ですね。
武蔵の剣を鍋蓋でかわしたのが有名。
これはたぶん、相手の気配を即座に読みとるんでしょう?
蛇足ですが、
全盲の方は、気配を強く感じる人と・・・そうでない人がいるらしい。
これも私には分からんですね。
全盲ではないから。
だけど考えさせる命題です。
314:机龍之介 ◆8Z1PfzdK1.
07/11/18 10:59:28 CJPNumqT
× 場祖>>312
○ 馬祖
>善導禅師→法照禅師→円仁大師→親鸞という流れがあります。
なるほど、そうでしたか。
念仏と禅の双修というのは、現在でも中国にあるらしいですね。
日本では黄檗宗などでせうか?
私は中国禅の開花期というのは、慧能→南岳→馬祖あたりが頂点を極めた時代かと思ってます。
それ以降も勿論この流れはありましたが・・・次第に形骸化されていった。
日本においては、これより更に日本ナイズされた禅文化を形成していったのかと思います。
南禅と特徴というのは、いわゆる南岳の「瓦を磨いても鏡にならない」。
かとおもいますね。
これは禅定の否定であります。否定というか・・・
テーゼにおけるアンチテーゼにおいてのテーゼですね。
弁証法的には「正反合」になりますが、
ここに北禅とは一線をなす、慧能から引き継いでいた脈絡はあったわけです。
(北禅は、鏡をよく払拭せよ。ですから)
禅が日本に入ってきますと、勤勉な日本人にはどうも南禅は合わない。
勤勉・努力の日本人は、鏡を払拭せにゃ~気がすまん。
という流れになってきます。
禅定は禅堂の必須ですから。
つまり、北禅にうまくナイズされた日本禅が育ってきたことと思います。
(中国禅(南禅)とは随分違うものになってる)
315:神も仏も名無しさん
07/11/18 12:33:13 VU2cWJQN
机龍之介
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川川 ::::::⌒ ⌒ヽ
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316:神も仏も名無しさん
07/11/18 12:34:14 VU2cWJQN
渡海 難
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317:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
07/11/23 10:25:19 9SypLsBm
>念仏と禅の双修というのは、現在でも中国にあるらしいですね。日本では黄檗宗などでせうか?
親鸞は「一心に弥陀の名号を専念」すると言っており、禅と念仏とを双修せよとは、一言も言
ってない。念仏者は念仏に集中する。
美術館に行ったら絵画が額に嵌め込んであった。館長さんに「お宅の美術館は額と絵画の双方
展示場なんですね。こういう美術館は、確かに中国にもありますよね」と言えば、これは失礼な
話ではないか。中国に限らず、額を嵌めている美術館などは世界中にあるだろう。額を使わない
美術館の方が珍しい。
習字教室に出かけたら、子供達がみな正座して字を書いていた。「ここの教室は、正座と習字
の双修教室なんですね。双修と言えば、これは黄檗宗の影響でしょうか」と言えば、聞いた相手
はビックリするだろう。
習字教室の先生は黄檗宗など聞いたこともない。正座をしていても、正座をしているわけでな
い。あくまで習字をしているのだ。先生は子供達に、「さあ、正座して字を書きましょう」と言
うが、「正座をしよう」と言っているわけではない。ちゃんとした字を書こうと言っているのだ。
別に難しい理屈ではないと思う。
318:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
07/11/23 10:27:56 9SypLsBm
釈迦は分析論と方法論とを示した。釈迦のすごさは、単に分析論と方法論とを示したことだけ
ではない。釈迦にとって分析論と方法論とを示すと言うことは、それを実践すると言うことだっ
た。苦の止滅という目標に向かい、苦の止滅の道を実践する。釈迦は、戒定慧という三学を提示
し、互いに教え合おう、学び合おうと呼びかけた。
祇園精舎という学校を建設した。釈迦の下には多くの若者が参集した。彼らは、釈迦が提示し
たルールつまり戒律を守ることを誓うと、弟子入りが許された。有形の真理は、言葉(文字)、
絵画・彫刻・建築物などの形で示され、それを学んだ。有形の真理を知恵という。無形の真理は、
直接それを提示できないことから、それを体得する方法論が示された。禅定という。釈迦は、そ
れまで王宮が独占していた最先端知識を、惜しげもなく多くの人々に公開した。これは画期的な
ことだった。
それまで、九九が分からず、いつも釣り銭を間違え、顧客から文句を言われていた商人には九
九を教え、釣り銭勘定を間違えないようにしてやった。これによって、商人は永続的に商売がで
きるようになった。種まきの時期を間違えていつも失敗をしていた農民には、星の運行、太陽の
位置に基づく暦を教え、季節の循環と種まきの時期を教え、正しい農業をできるようにしてやっ
た。釈迦は、分析論・方法論・実践論を下に教育手法を合理的に組織化し、算術・暦・薬学・文
字・測量などを人々に智慧として教え、さらに禅定を実践させ、優れた多くの人材を育ってた。
まさにこれが、生老病死という苦を止滅するという目標に向かい、苦の止滅の道を実践するとい
うことだった。釈迦の悟りの中身そのものだった。
これはまさに、浄土真宗の原点である。
319:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
07/11/23 10:30:22 9SypLsBm
>318
誤 戒定慧という三学
正 戒定慧という三学(実践論)
320:紅炉上一点の雪
07/11/23 22:51:11 pge70CD1
阿弥陀仏とはデウスなりや?
321:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
07/11/25 21:48:51 y5sfJwbQ
2月3日第一日曜日、東京新宿で新年会を考えています。
集合場所、東京・新宿駅
近くで飲み会をしませんか。
夕方5時ころ集合、その後近くの店で新年会
12月、1月は店は予約で一杯だと思うから、予約なしの飛び込みで席が
取れそうな2月を選びました。
これはネタじゃないよ。煽りでもない。ただ、予定だから変更はある。細部は未定。
何か意見・提案のある方は、この掲示板でもいい。メールでもいい。送って貰えるとありがたい。
集合してくれる人は4,5人だと思っていますが、100人、200人も来るとなると
こちらも考えないといけない。
集合者がゼロなら中止。
なお、参加名は愛称・匿名OKとしたいと考えています。
tkatasi@mail.goo.ne.jp
322:神も仏も名無しさん
07/12/01 08:23:14 KQ4lA87c
↑?
323:神も仏も名無しさん
07/12/01 11:54:00 60oBcP54
スレタイと内容が違うやん!
親鸞と違うやん。
324:神も仏も名無しさん
07/12/01 12:35:22 5vWprmEy
>>322-323
ここは世間では誰からも相手にされないキモヲタ親父の妄想オナニースレなのでageないでください。
325:神も仏も名無しさん
07/12/02 12:18:58 k4g4YpJQ
京都の常楽台で親鸞聖人の骨が出てきたので、檀家から10万円の割り当てが来ていますがみなさん払いましたか?
326:神も仏も名無しさん
07/12/02 12:20:45 ukFzvLs+
ご遺体は腐敗していなかった 日本を愛した宣教師 チマッティ神父様
URLリンク(www.v-cimatti.com)
URLリンク(www.v-cimatti.com)
キリスト
「最も大きな罪を犯した人であっても、わたしの憐れみを願うならば、
わたしは、彼に罰を与えることが出来ない。その代わりに、
わたしの限りない、はかり知れないいつくしみによって彼を義とする」
URLリンク(www.nowaksvd.opoka.net.pl)
キリストと会話できる女性 ヴァッスーラ・ライデン
URLリンク(www.tlig.org)
キリストの人生を見せられた女性 マリア・ワルトルタ
URLリンク(swedenborgian.hp.infoseek.co.jp)
病を持ちながらも信仰心が篤かった女性 マルタ・ロバン
URLリンク(homepage3.nifty.com)
アレッサンドリーナ・ダ・コスタ
URLリンク(www.salesio.jp)
URLリンク(salveregina.dyndns.org)
カトリック書店一覧
URLリンク(www.cbcj.catholic.jp)
カトリック教会マップ
URLリンク(www.cbcj.catholic.jp)
327:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
07/12/03 20:22:00 +hFSfBnq
釈迦の下からは多くの賢人・哲人達が育っていった。やがて、その中からある種の疑問を持つ
者が出現してきた。自分たちは、教わるだけでいいのだろうか。自分たちが認識していれば、そ
れで十分なんだろうか。認識したことは、より多くの人々に拡散していくことこそ、人として実
は最も重要なことではないのか。自分たちが認識したことを、他の人々に幅広く伝えていくこと
こそ、あの釈尊先生の本当の精神ではなかったか。
釈尊先生は生涯を教育に捧げられた。自分たちも、あの釈尊先生のそんな生き方に倣おうじゃ
ないか。釈尊先生は我々に大事なことを教えてくれた。我々も自分たちが認識したことを、後の
世に伝えていこうじゃないか。自分たちが知り得たことを、多くの人々と共に共鳴的・共感的に
その共通の財産として享受し合おうじゃないか。自分たちが分かっただけではなく、多くの人々
と共に共感的に享受し合えるようになったとき、始めて我々は正しい認識を得たと、そのように
受け止めることにしようじゃないか。大乗仏教は、このように考える人々から発生してきた。
アフガニスタン・パキスタン・カザフスタンなど、現代ではイスラム圏となり、激しい戦火を
交えている地域で、仏教者達は始めて「教育学」に目覚めた。彼らは、学習と教育に最高の価値
を認める考え方を大乗仏教とよび、それいがいの仏教を小乗仏教と呼んだ。大乗仏教は、学習と
教育に最高の価値を認める教育学をその本質とする。
328:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
07/12/03 20:22:52 +hFSfBnq
大乗仏教の祖師達が教育学の重要性に目覚める前、教育というものがはかったということでは
ない。教育はそれ以前にもあった。しかし、教育というものを、他から独立した行為として認識
に、そこに隔絶的絶対的圧倒的な最高の価値観を認めるということは、この大乗仏教から始まる。
自らが孤高の道を究めて行き、そこに入門者が門を叩いてくれば入門を認めるが、自らが積極
的に弟子達を求めていくと言うことは、恐らく釈迦以後は大乗仏教の発生までしばらく無かった
ことだったろう。
かつては日本でも、大工も左官も料理も、後継者達は徒弟制度の中で先輩の技術を盗んで学ん
でいった。こうした職業を専門に教える学校ができたのは、戦後であり、すくなくとも明治以前
にまでは遡らない。教育というものはあくまで従属的なものであり、付属的な行為と考えられて
いた。そうした現実を考えれば、大乗仏教の祖師達が、西暦紀元前後、教育という活動に絶対的
圧倒的な最高の価値を認めたということは驚異的な事だろう。大乗仏典とは、人類最古の教育学
の書と言って間違いない。
教育・学習こそ、人間にとってもっとも崇高で、絶対的価値を有する行為である。浄土真宗と
は、まさにこうした価値観を核心部に持った大乗仏教を母胎にしていることを忘れてはならない。
329:神も仏も名無しさん
07/12/08 23:15:55 PxGIirZb
輪廻とは何でしょうかね ?
一般には、人間にはそれぞれ「自我」だの「霊魂」だのと呼ばれる肉体の死後も残る永遠不滅の
実体があって、それが六道等と呼ばれる様々な世界に生まれ変わっているというのが輪廻転生と
いう考え方であり、浄土教とは念仏を唱えればその六道の輪廻を断ち切って「極楽浄土」と呼ば
れる天国のような所に転生できるという教えであるという認識だと思うのですが。
だが例えば>>278のレスを読む限りでは個々人にそれぞれ輪廻転生する主体たる不滅の実体があ
るという認識とは思えない。
また>>97他のレスを読む限りでは極楽浄土や六道という世界も死後にその人間の実体が転生する
客観的実在世界などではなく、生きている人間の心が彷徨する主観的世界であるという考え方と
読み取れますが、そういう認識でよろしいのでしょうか。
330:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
07/12/09 00:54:16 B3n9kAmR
> 329
> 輪廻とは何でしょうかね ?
> 278で「これを輪廻という」という言葉を書きました。今はこれ以上最適な表現はないと思っ
ています。この説明で御理解いただけないなら、これ以上の説明は私には重すぎます。
人は時に天になり、阿修羅となり、地獄・餓鬼・畜生にもなる。これを輪廻という。私はその
ような説明をしております。念仏はこの輪廻を分断します。
> だが例えば>>278のレスを読む限りでは個々人にそれぞれ輪廻転生する主体たる不滅の実体が
あるという認識とは思えない。
何か不滅の主体があるかどうか、それは私には分かりません。しかし、浄土教の輪廻論は、不
滅の主体があれば肯定され、不滅の主体がなければ否定されたり、逆に、不滅の主体があれば否
定され、不滅の主体がなければ肯定されるというような、不滅の主体の客観的存否で左右される
ようなものではないと思っています。
>生きている人間の心が彷徨する主観的世界であるという考え方と読み取れますが、そういう認
識でよろしいのでしょうか。
主観的世界と思いますが、「人間の心が彷徨する」という言い方に引っ掛かるものを感じます。
歌謡界は人間の心が彷徨する世界でしょうか。政界は人間の心が彷徨する世界でしょうか。文
壇界は人間の心が彷徨する世界でしょうか。
これらは、そこに所属する人々にとっては紛れもなく厳然として存在する世界でしょう。その
中で彷徨する人もいますが、不動の地位を確保している人もいます。極楽とは、仏道者にとって
のそのような世界だと思っています。
331:神も仏も名無しさん
07/12/09 01:48:24 uC6mJV6P
>>渡海氏
すごい勉強量ですね。独学のみであれば尊敬に値しますよ。
しかし、同じく親鸞の教えを学ぶものとして、了解に何か違和感を覚えます。
そこで今後の勉強の為に質問させてください。
どのような本によって勉強したのでしょうか?
あと、『教行信証講義集成』か山辺習学・赤沼智善の『教行信証講義』は読んだことありますか?
332:南無大師遍照金剛
07/12/09 02:09:23 /hJQHw/S
>>331
ヽ(´∇`)ノないにょん♪
つか
嵐に北にょん♪
333:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
07/12/09 10:57:48 B3n9kAmR
>>331
>すごい勉強量ですね。
気に入った考え方があったら盗んでいってください。ただ、余所で公表する場合、インターネ
ット2ちゃんねるで渡海が主張していたと、出所だけは明らかにして欲しいと思います。できる
だけ、URLと月・日・時刻も表示してほしいものです。情報源に対する礼儀だと思います。僕は、
大量の書き込みをしていますが、著作権を放棄しているつもりはありません。
>独学のみであれば尊敬に値しますよ。
独学とは言いません。しかし、思想はほとんどオリジナルです。
念仏を称えるということは、人から教わりました。どう称えるかは、親鸞聖人から直接教わり
ました。
>了解に何か違和感を覚えます。
どんな出会いでも、もし違和感がなければおそらくそこには嘘があるでしょう。
貴方が違和感を覚える思想に始めて出会ったということなら、これまで貴方は全て自分を偽る
嘘の道を歩んできたということかも知れません。
始めて違和感を持ったというなら、2ちゃんねるの渡海難とは始めて真の出会い方をしたとい
うことかもしれません。
>どのような本によって勉強したのでしょうか?
2ちゃんねるだけでも渡海難は膨大な量の書き込みをしています。その中で、ほとんど出典を明
らかにしています。出典範囲は比較的限られています。
>山辺習学・赤沼智善の『教行信証講義』は読んだことありますか?
僕の教行信証論は、『教行信証講義』批判を原点としている部分があります。教行信証論で、
ある考えを「通説」という指定の仕方で表示し、それを批判する批判説を渡海説として提示して
いる場合があります。その場合の通説とは、ほとんど『教行信証講義』を指しています。
334:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
07/12/09 11:03:19 B3n9kAmR
>332
まあ、嵐はどっちでもいいけど、それより飲みにきませんか。
東京からは遠方に当たる所にお住まいですか。
>>321に新年会の予定を書きました。都合がつけば、
いらっしゃいませんか。掲示板ではできない接触もできそうです。
335: ̄ ̄ ̄ ̄\| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
07/12/09 11:26:30 K8OUMTff
/::::::::::::::::::::::::::\~プーン
/:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::\~プーン
|:::::::::::::;;;;;;|_|_|_|_|~プーン
|;;;;;;;;;;ノ - -ヽ~
|::( 6 ー─◎─◎ )~
|ノ (∵∴ ( o o)∴)~
| < ∵∵ 3 ∵>
\ ⌒ ノ_____
\_____/ | | ̄ ̄\ \
___/ \ | | | ̄ ̄| カタカタ カタカタ
|:::::::/ \___ | \| | |__|
|:::::::| \____|つ⊂|__|__/ /
|:::::/ | ̄ ̄ ̄ ̄| 〔 ̄ ̄〕
336:南無大師遍照金剛
07/12/10 00:14:17 pFpMQbqd
>>334
(ノ_<。)刺されそうで怖いぉ…
337:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
07/12/10 00:54:36 m2P6FGyG
>336
どうぞご自由にご判断下さい。
338:神も仏も名無しさん
07/12/10 02:43:30 nVQJ7hpL
す オ 意
る ロ な 味
わ オ く も
は ロ
/
c ,. -─-、
c /´ ̄ ̄`丶、 / r、lゝ、ヽ、っ
けレ^ヽイゝ、 ト、 // ノ^′─┴t,ゝ っ
A-─ ‐-、 Y l l /#! k' / _ l | __l__
_,l__ レヽ T'j u メ./#j 〈##〈 ヘ u 〈_`j ,ハ /|
/| ⊂ニ`ー--‐ム'-'′ ` ̄V ゝ‐-=-‐'´スヽ ┌┐
┌┐ ヾ(ン'⊂ニ , ヽ、 ~⊂ニ、 マ ニ⊃)) └┘
└┘ ヾ(ンヽマ __ゝ - どイ マ‘マ_」
`´Uヽ) ~ `(フ ̄U
339:神も仏も名無しさん
07/12/10 13:41:57 kwwPEnTz
:::::::::::/ ヽ::::::::::::
:::::::::::| キ じ き i::::::::::::
:::::::::::.ゝ モ つ み ノ:::::::::::
:::::::::::/ イ に は イ:::::::::::::
::::: | な。 ゙i ::::::
\_ ,,-'
―--、..,ヽ__ _,,-''
:::::::,-‐、,‐、ヽ. )ノ
:::::_|/ 。|。ヽ|-i、 .. / ̄ ̄ ̄ ̄
/. ` ' ● ' ニ 、 (____人
ニ __l___ノ (-◎-◎一
/ ̄ _ | i ( (_ _)
|( ̄`' )/ / ,.. ( ε (∴
`ー---―' / '(__ ) ヽ____
====( i)==::::/ ,/ニ渡海 難
:/ ヽ:::i /;;;;;;;;;;;;;;;;
340:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
07/12/11 09:57:18 axDpLY39
大乗仏教は、西暦1世紀前後に中央アジアで発生する。釈迦が生存していた時代は、諸説ある
が、恐らく西暦紀元前4,5世紀だろうと思う。大乗仏教の思想というのは、その間、ゆっくり
と時間をかけて熟成してきた。
釈迦が北インドに創建した祇園精舎は、それ自体が大きくなると同時に、各地に分校が広がっ
ていった。大乗仏教とは、中央アジアに拡大していったそのような分校集団の中で発生していっ
た極めて進歩的な思想である。彼らは大量の経典を排出した。その中の一つに「極楽の美しいあ
りさま」という経典がある。中国語には「大無量寿経」という名で翻訳された。
仏教の経典は全て阿難尊者が著したということが、仏教上の約束になっている。当然、「極楽
の美しいありさま」も阿難尊者が書いたということになっている。阿難尊者とは、釈迦教団の第
三代の最高指導者である。彼は釈迦の直弟子の一人であり、釈迦とは三十歳程度年齢が離れてい
た最も若い弟子の一人だった。釈迦晩年の25年間は常に釈迦の最も近くにあっという。釈迦の
直弟子であれば、やはり紀元前4,5世紀の人だろう。非常に長生きをされ、非常に長期間釈迦
教団を指導したそうだが、大乗経典の発生は、阿難の死後、さらに数百年後のことである。阿難
尊者が著したというのはあくまで仏教教団の約束上の話であり、当然、実際の著者は他にいると
言わざるを得ない。
341:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
07/12/11 09:57:56 axDpLY39
西暦紀元一世紀頃になると、中央アジアから南インドにかけ、インド各地には、粗密の程度は
あっても、地理的に多数の分派教団が散在していたと思われる。その頂点には祇園精舎があった
が、中央の統制は緩やかで、むしろ地理的に近在する分派教団同士は類似の考えで相互に緩やか
にまとまり、緩やかな連合体を形成していたと思われる。
経典類は、そのような分派教団の構成員が独立的に提案し、全体の合議の下で共通テキストと
して必要に応じて承認していったものではないだろうか。「極楽の美しいありさま」もそのよう
にして分派教団の緩やかな連合体の中で、一構成員から提案され、全体の公式の承認を受けた経
典なのだろう。承認を受けた経典は、阿難尊者の著作という評価を受け、承認した分派教団全体
に配布されていった。承認を受けられなかった経典は、ニセモノという評価をされ、連合体から
排除されていった。
「極楽の美しいありさま」とは、人々に学校の建設を勧めるテキストである。分校を建設せよ。
分校を建設して近在の人々に学問を教えよ。学校はどのような価値観をもって運用していくのか。
大無量寿経は、祇園精舎建設の精神をベースとして、学校というものあり方を説明する人類最古
の教育論である。
342: ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
07/12/11 11:05:44 tF5og+qw
_./ ̄ ̄ ̄ ̄\
/( 人____)
/ .|ミ/ ◎ ◎ )
,/ (6 (_ _) )\
`、 `,| ∴ ノ 3 ノ‐'`ノ モワ~
キタ━━━ \ ヽ,._____ノ ノ━━━!!!!
豸. ``Y" 拜."..::.::.::.::.::・・'゚。.・'゚。.::。.::・'・'゚。.::。.::・'・'゚。.::。.::・'・'゚。.::。.:
;": :: i. 、 ¥ ノ ・'゚。.:・・'゚。.::。.::・'・'゚。.::。.・:(;´Д`)オエーッ
; .;: :∴:(. ` -‐´;`ー ) ・'゚。.::。.::・'・'゚。.::。.::・・'゚。.::。.::・''・'゚。.::。.::
. ': .;".;": ( 彡 ミ ) モワ~
: .;"∵;": ::″: ; ゝ '´ ̄"`ヽ
: .;".;":: :.;".;": / ■_,,,,,、 ノ
´ ..‘ :´ ;` :. ~. ;. / /`' ( ノ
:´ `: .``:. ;' ~ヾ ( ノ | (_,,-,,,
: : .~.. :´; ` :` , `: \ `ヽ / __ノ
;`: ,´ ;: ;` : :. .~.. \ \  ̄
; : ..‘:´ ;`:. ~.. ; :,´ : ノ _)
` ;..``:. ; ' ;.~ ;ヾ (.,,_/~
343:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
07/12/15 10:29:30 +ddnqU9x
学校教育の原点は何か。大乗仏教の先人達は、これを祇園精舎を建設した釈迦に学んだ。漢文
大無量寿経の阿弥陀仏は、学校運営の基本原理を四八箇条に列挙している。梵文は四九箇条(異
本では四七箇条)である。内容に多少の異同はあるが、根本原理である第一条はほとんど共通し
ている。
第一条 世尊(世自在王仏)よ、もしもかの私の仏国土(極楽浄土)に、地獄に堕ちる者や、
動物界に生まれる者や、餓鬼の境地に陥る者や、阿修羅の種類となるものがあるようであったら、
その間は私はこの上ない正しい悟りを現に悟ることがありませんように〈岩波梵文大無量寿経〉。
学校を建てるということ。それは建築会社が建物を物理的に組み立てることではない。地獄界
・餓鬼界・畜生界・阿修羅界に転落していく者がなくなりますように。学校建設とは、この祈り
の実現に他ならない。
畜生の心で畜生の行為を実行する者を畜生と言う。餓鬼の心で餓鬼の行為をする者を餓鬼とい
う。人は無明を原因として地獄界から天界を巡る。六道を巡る。その中でもっとも悲惨なのが。
地獄界・餓鬼界・畜生界・阿修羅界である。そこには知恵がない。漢文大無量寿経では阿修羅界
が削除してある。この問題は、今ここでは議論しない。地獄界・餓鬼界・畜生界は、知恵をもた
らせば霧散霧消する。学校教育の目的とはそのようにして、知恵のない世界に知恵をもたらせ、
三悪道(地獄界・餓鬼界・畜生界)又は四悪道(地獄界・餓鬼界・畜生界・阿修羅界)を無くす
ことなのだ。西暦紀元一世紀ころの中央アジアの先人達は、釈迦の姿勢の中から教育というもの
の基本的原理をそのように認識し、それを次の時代の教育者を目指す学生に提示した。