○●Я親鸞仏教質問箱R(その3)●○at PSY
○●Я親鸞仏教質問箱R(その3)●○ - 暇つぶし2ch2:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/05/14 21:50:25 IAyvcORH
前スレの>> 627の続きです。

 輪廻論というのは、釈迦の十二因縁の原理と、考えの本質は同じである。人はなぜ輪廻するの
か。なぜ生死生死を繰り返すのか。これに対し、多くの人は、「欲があるからだ」という。欲を起
こすのが間違いの本であるという。釈迦は反論する。欲を断ち切っても輪廻は続くと。欲を断っ
ても、迷いはあると考えたのだ。釈迦は、無明という概念を立てた。それが十二因縁の原理であ
る。理想主義も破壊主義も何一つ真の解決にならないことを、釈迦は説いている。
 釈迦が悟りとを開くと、梵天と帝釈天が教えを請いに来る。梵天や帝釈天ともなると、世の中
に仏陀が出現したとなると、いち早くそれを察知する超能力を持っている。まさに、梵天や帝釈
天たるゆえんだろう。

 梵天や帝釈天ともなると、人一倍優れた能力を持つ。人並み外れた深い智慧と洞察力をもって
いる。その実力は、釈迦と比べても恐らく遙かに勝っているだろう。しかし、その梵天や帝釈天
でも、釈迦に唯一劣っていることがあった。どうしても釈迦に決定的に劣っている点があった。
それは何か。梵天や帝釈天は、外のあらゆる点で釈迦に勝っていても、実は、自分は何一つ本当
のことを知らないということ、この智慧だけは全く持ち合わせが無かったのだ。あらゆることを
知っている者は、自分が何一つ知らないと言うことを知らない。この事実の認識おいて、梵天や
帝釈天は決定的に釈迦にかなわなかった。自分は真実を何一つ知らないと言うこと、釈迦はその
一点の認識で梵天や帝釈天に決定的に勝り、梵天や帝釈天はその一点で釈迦の前に跪き、教えを
乞うこととなった。僕はそう考えている。釈迦は、三十五歳のとき、十二因縁の原理を悟った。

3:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/05/14 21:51:56 IAyvcORH
 <十二因縁>ああ、俺は馬鹿だった。馬鹿だったんだよ(無明)。馬鹿だったからあんなことを
したんだ(行)。あんなことを考えたんだ(識)。思わずあんなことをしたからこそ、あんな心が
わき起こってきた。そして事物を意識した(名色)。そんな思いが湧いてくれば、ものごとはみん
なそっちの方に見えてくる。耳に心が宿って聞こえてくる。目に心が宿って見えてくる。感情に
心が宿って感情が動いてくる(六処)。耳に不快なものは避け(触)、耳に快い方に向かう(受)。
物事に執着が現れる(取)。それがずっと積み重なる(有)。再起(生)、彷徨・疲弊・挫折(老病)
はそのようにおきてくる。

 挫折(死)・再起(生)・彷徨(病)・疲弊(老)・挫折(死)・再起(生)。人は限りなく、限り
なく迷いを繰り返す。けだものの心でけだものの行為をする者をけだものという。鬼の心で鬼の
行為をする者を鬼という。人は、鬼となり、けだものとなり、有頂天になったかと思えば、地獄
の底に墜ちていくこともある(輪廻)。そのたびに、古い自分が死に、新しい自分が誕生する(転
生)。けだものが人に変わっても、けだものの時(過去世)の自分の行為が、人になったとき(現
在世)で消えているわけではない。今(現在世)、有頂天になっていれば、やがて(未来世)それ
が地獄の苦しみの引き金にならないとも限らない(三世両重の因果)。

4:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/05/14 21:52:44 IAyvcORH
 <悪因悪果>
 再起・挫折・再起・挫折の原因は、実に、我々自身の愚かさにある。無知にある。その愚かさ、
無知は、私の誕生で始まったものでなく、私の死で終わるものでもない。現在の私の再起・挫折
・再起・挫折は、過去の無数の人々が繰り返し、繰り返し重ねてきた再起・挫折・再起・挫折と
いささかの違いもない。現在の私の再起・挫折・再起・挫折は、将来の無数の人々が繰り返し、
繰り返し重ねていくであろう再起・挫折・再起・挫折といささかの違いもない。今の私の愚かさ
は、無限の過去から無限の未来に向けて連鎖している無限の愚かさの中の一瞬である。その一
瞬の再起・挫折・再起・挫折において私は生まれ、病み、老い、死んでいく。

 <善因善果>
 無明を断てば(因)、輪廻が切れる(果)。一度切れれば、迷いは尾を引かない。さあ、互いに
学びあおう。互いに教えあおう(大乗)。正しい認識(知恵)を、互いの共有財産として利用し、
享受しあおう(布施)。正しい認識(知恵)を得るように努力しあおう(持戒・精進・禅定)。多
少の苦しみは我慢しあおう(忍辱)。そうすれば、必ず輪廻が切れる。迷わなくて済むようになる
だろう(断四流)。

5:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/05/15 09:54:10 m/XbY6hn
 議論がいきなり>>2に入るとわかりにくい。前スレの>> 627まで重複的に紹介する。前スレでこれは
往生の本質を考える前段の議論として提起している。

615 名前:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI [] 投稿日:2007/05/09(水) 17:52:39 ID:uqYvccsE
 往生は、輪廻を断絶する。まず、分かりやすい輪廻から考えよう。
 獣の心で獣の行為をする者を獣という。鬼の心で鬼の行為をする者を鬼という。人間の心で人
間の行為をする者を人間という。生きとし生けるものには、意思と行動がある。意思を「願」と
言い、行動を「力」という。
 昨日まで人間の心で人間の行動をしていた者が、今日は鬼の心で鬼の行動をしだすことがある。
さっきまで有頂天でいた者が、突然に獣となり、さらには地獄にも堕ちる。地獄の底で真人間に
なることを誓ったものが、ほとぼりが冷めると再び獣となることもある。
 馬鹿だった。馬鹿だった。人はしばしばこのように後悔する。後悔して、後悔して、後悔し、
舌の根の乾かない内に、次の瞬間には鬼の手下になって鬼となる。鬼になって有頂天になること
もある。

6:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/05/15 09:56:16 m/XbY6hn
616 名前:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI [] 投稿日:2007/05/09(水) 17:53:10 ID:uqYvccsE
 鬼となり、獣となり、あるいは真人間になり、そして地獄にも堕ちる。節目節目で人は意思と
行動が変わる。意思と行動が変われば、人は人格が変わる。人間が変わる。古い自分が死に、新
しい自分が誕生する。新たな人格を持ち、新たな決意で再起し、新たな行動を起こして新たな人
生をスタートしても、やがて人は彷徨する。心は急ぐが、行動が言うことを利かない。何をして
いいのかわからない。あるいは人は疲弊する。行動は惰性で続いていても、心は早々と変わって
しまう。意思が変わり、行動も継続を放棄すれば、挫折する。
 人は、生(再起)・病(彷徨)・老(疲弊)・死(挫折)を繰り返す。再起と挫折を繰り返す。
生・死・生・死を繰り返す。中途半端に再起すればやがて中途半端に挫折する。中途半端な挫折
は、中途半端な再起を生み出すだろう。仏教ではこれを迷いという。

 釈迦の十二因縁の法則は、無明を原点にして生老病死に至る。人は生死・生死を繰り返し、生
死・生死の一こま一こまの中で獣となり、鬼となり、有頂天になったかと思えば、地獄にも堕ち
る。獣が鬼になっても、獣の中の霊魂だけが鬼になったのではない。獣の全人格が鬼になったの
だ。鬼が天を舞うように有頂天になれば、鬼の霊魂だけが有頂天になったのではない、鬼の全人
格が鬼になったのだ。

7:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/05/15 09:57:41 m/XbY6hn
617 名前:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI [] 投稿日:2007/05/09(水) 17:54:30 ID:uqYvccsE
 人は、自らの無知と無能を本質とし、再起・挫折・再起・挫折を繰り返す。今のこの私の再起
・挫折・再起・挫折、生・死・生・死は、私の肉体の誕生で始まった物ではない。肉体の消滅で
終わるものでもない。今のこの私の再起・挫折・再起・挫折は、無明を本質とし、過去、無数の
人々が始めなき始めから繰り返してきた再起・挫折・再起・挫折の無明と寸分の違いもない。今
のこの私の再起・挫折・再起・挫折は、無明を本質として生・死・生・死を繰り返す。無明は霊
魂だけの問題ではない。精神だけの問題ではない。肉体だけの問題でもない。これは、私の意思
と行動の全ての本質である。その同じ無明をもって、やがて今後も無数の人々が寸分の違いもな
い同じ再起・挫折・再起・挫折を経験していくだろう。今、この私が無明を本質として、鬼とな
り、獣となり、地獄にも堕ちていくこの道は、かつて、無数の人々が、私と同体の無明(霊魂で
はない)を本質とし、繰り返し繰り返し浮沈を繰り返してきた同じ道である。今後も無数の人々
が、私と同体の無明(霊魂ではない)を本質として繰り返していく同じ道である。

 私の無明は、決して私で始まった物ではなく、私の死で終わるものではない。無限の過去から
無限の未来に向け、とどまることなく続く同体の無明の一本道の一部を、今、私は私の生老病死
として経過しているのにに過ぎないのだ。

 千年の暗室であっても、一本の蝋燭の火で破れる。無明は一度破れれば、二度と戻ることはな
いない。さあ、光に向かおう。浄土教はこのように、光の世界への移行(往生)を勧めてくる。

8:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/05/15 10:26:53 m/XbY6hn
623 名前:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI [] 投稿日:2007/05/12(土) 10:52:27 ID:1+S6sTBS
□□□┃意思│行動│知見│休息│欲望│無明│我│悟┃仏界〔輪廻がない〕
━━┃━│━│━│━│━│━│━│━┃  (仏・菩薩・二乗)
仏□□┃○□│○□│○□│○□│×□│×□│×│○┃三乗(菩薩・声聞・縁覚)
菩薩□┃○□│○□│○□│○□│○□│×□│×│○┃一乗(菩薩)
声聞□┃○□│○□│○□│○□│○□│×□│×│○┃二乗(声聞・縁覚)
縁覚□┃○□│○□│○□│○□│○□│×□│×│○┃三界(欲界・色界・無色界)
━━┃━│━│━│━│━│━│━│━┃六道〔輪廻がある〕
無色天┃○□│○□│大□│×□│×□│○□│○│×┃(天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄)
色天□┃○□│×□│大□│○□│×□│○□│○│×┃天界(無色天・色天・欲天)
欲天□┃○□│大□│大□│○□│○□│○□│○│×┃無色界(無色天)
人□□┃○□│小□│中□│○□│○□│○□│○│×┃色界(色天)
修羅□┃×□│大□│中□│○□│○□│○□│○│×┃欲界
畜生□┃○□│○□│×□│○□│○□│○□│○│×┃(欲天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄)
餓鬼□┃○□│○□│×□│×□│○□│○□│○│×┃三悪道(畜生・餓鬼・地獄)
地獄□┃○□│×□│×□│×□│○□│○□│○│×┃

 悟(十二因縁)  知見(悟を除く智慧)     ○(あり) ×(なし)  □(余白

9:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/05/15 10:27:49 m/XbY6hn
625 名前:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI [] 投稿日:2007/05/13(日) 09:57:37 ID:Cu6sT2aX
 仏教の輪廻論は六道の本質が分かれば理解しやすい。六道は畜生道から理解していくのが一番いい。
畜生とはなにか。畜生には意思がある、行動がある。特に野生の動物には必ず意思がある。この場合
の意思とは、複数の選択肢を考え、その選択肢に対する選択的思考だ。ライオンは目の前に獲物がい
ても、それを追うか追わないか、必ず選択する。選択して、追うと決めるとそれを追いかける。追わ
ないと決めたのに体が勝手に追いかけるということはない。
 畜生と人間との違いは知見の有無だ。人間には合理的な判断、理性というものがある。畜生にはそ
れがない。裁判所の傍聴席から、被告席に向かっていきなり罵声が飛ぶ。「ケダモノ!」と。一人娘
を殺された親にとって、娘を殺した犯人は人間ではない。人間であれば理性がある。道徳がある。考
えるということがある。既に人間的な知見を忘れた被告席の犯人は、ケダモノ以外の何者でもない。
合理的にものごとを考えることを忘れれば、人はそのまま畜生に転落する。

 畜生には休息がある。ライオンでも、腹が満腹になれば休む。魚でも眠くなれば寝るそうだ。しか
し、人間的な知見もなく、一寸の休みもなく執拗に自らの欲望を追いかけていく者がいる。食っても
食っても常に腹を空かせ、休むことがない。その存在はまさにライオン以下。これを餓鬼という。
 子供を餓鬼と言うことがある。これは、大人にとって、まつわりついてくる子供をうるさいと感じ
たとき、その不快感を込めて言う言葉であり、本当は子供が餓鬼であるはずはない。

 欲望のまま、休み無く動いていけばやがて動きたくても動けなくなることがある。欲望は紅蓮の炎
のように燃えさかり、雪だるまのように膨張していく。しかし欲望実現に向けて体は微動もしない。
これを地獄という。衆生界で行動がないというのが地獄の特徴である。

10:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/05/15 10:28:59 m/XbY6hn
626 名前:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI [] 投稿日:2007/05/13(日) 09:58:22 ID:Cu6sT2aX
 人間には意思がある。行動がある。知見がある。休息も欲望もある。まさにそういう存在である。
これに対して阿修羅という存在がある。最古の仏典には阿修羅はないそうだ。もともとは人間の一形
態であったが、後に独立した一形態になった。阿修羅と人間との決定的違いは意思の有無である。阿
修羅には意思がない。通常、衆生界は自らの意思で行動する。行動の裏には必ず意思がある。しかし、
その意思を奪われている存在がある。分かりやすく言えばこれは軍人である。行動は他人の意思に支
配される。命令あれば嫌でも戦地に赴き、人間兵器となって敵艦に体当たりしていく特攻攻撃もしな
ければならない。興福寺には阿修羅像がある。阿修羅像は顔が三つある。阿修羅には自分本来の固有
の意思が存在しない。高級軍人は海底の奥深くに住み、下級軍人は山間僻地あり、常に雷鳴に脅かさ
れている。往生要集はそう説いている。高級軍人は通常、ほとんど社会に顔を出すことがない。人民
に顔を出すのは政治家である。下級軍人は国境で警備に当たる。軍人は、命令があれば命に代えて外
敵軍と戦う。

 人間は通常、自らの意思実現に向けた行動に大きな制限がある。しかし、その制限がほとんど無い
者がある。天才は、しばしば意のままに自在に驚異的な絵画を描き、彫刻を表現する。政治家は軍事
力を発動し、圧倒的な力で人民を支配する。これはすべて天である。天の最高位を有頂天という。

11:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/05/15 10:50:01 m/XbY6hn
627 名前:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI [] 投稿日:2007/05/13(日) 09:59:40 ID:Cu6sT2aX
 人はしばしば、この六道を廻る。昨日は有頂天であった者が、今日は地獄の底で塗炭の苦しみを受
けることがある。ケダモノとなり、あるいは鬼となる。これを迷いという。
 地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天、ここには共通点がある。全て欲望を持つ。欲望を断てば迷い
はなくなるだろう。欲を断とうじゃないか。そういう提案がなされる。しかし、欲を断って清らかな
生き方をしても、所詮それは現実性がない。これを絵に描いた餅という。理想主義は現実味がない。
このような理想主義を色天という。形はあるが実行性がない。つまり行動がない。これでは物事は動
かない。色天は、無欲でかつ思考がある。知見がある。意思もある。しかしそこには満足な行動性が
ない。本質的にはこれも地獄・餓鬼・畜生界、つまり三悪道とつながっていた。

 理想主義ではだめだ。理想主義は結局絵に描いた餅。三悪道とつながっている。当然そういう批判
もあるだろう。こういう主張は、しばしば無政府状態になる。反理想主義は破壊主義に走る。そこに
は計画がない。つまり一定の形がない。これが無色天である。理想主義はだめと言って、それでは形
をなくす破壊主義に走れば何か解決があるのか。そこにもなんら解決はない。破壊の限りを尽くして
も解決はない。これも三悪道とつながっている。

 人は、再起・挫折・再起・挫折を繰り返す。今のこの私の再起・挫折・再起・挫折、生・死・生・
死は、私の肉体の誕生で始まったものではない。肉体の消滅で終わるものでもない。今のこの私の再
起・挫折・再起・挫折は、無明を本質とし、過去、無数の人々が始めなき始めから繰り返してきた。
 自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、つねにしずみ、つねに流転して、出離の縁あ
ることなき身である。

 輪廻とは、霊魂が生まれ変わることではない。まさにこのようにして無限の過去から、無限の未来
に向け、とどまることなく再起・挫折・再起・挫折を繰り返すことをいうのである。
 再起・挫折・再起・挫折を繰り返すこの迷いから脱出する道を探そう。これが仏道である。

12:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/05/15 10:51:24 m/XbY6hn
 思わぬ所でスレの切り替えがありました。順序は、>>5-10→>>2-4になります。>>4の続きは後日書きます。

13:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/05/15 10:53:37 m/XbY6hn
>>12
誤 >> 5-10
正 >>5-11

14:南無大師遍照金剛
07/05/15 19:08:31 Z60N+B4w
ヽ(´∇`)ノ

15:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/05/17 00:22:48 LP7eGJ1x
双樹林下往生・難思往生・難思議往生            (化身土巻)
諸行往生・念仏往生                    (末燈鈔)
正念往生・狂乱往生・無記往生・意念往生          (安心決定鈔)
即得往生・臨終往生                    (浄土真要鈔本)
体失往生・不体失往生                   (口伝抄)
辺地往生・報土往生                    (歎異抄・口伝抄)
即往生・便往生                      (化身土巻)

 親鸞は往生という概念を様々に説明している。親鸞の考えに即して往生を考えてみよう。

 さあ、生死を超えよう。親鸞仏教も、釈迦以来のこの提案を踏襲していることは当然で
ある。再起・挫折・再起・挫折というこの果てしない連続を根本から断とうじゃないか。
そのためには無明を断てばいい。釈迦はそう教えている。さあ釈迦に学ぼう。仏弟子にな
ろう。仏陀にその道を教わっていこう。親鸞はそう提案している。

 人は千差万別である。従って、仏道の参加方法、仏弟子の成り方もひととおりではない。
親鸞は仏弟子の器を二種類に分けている。一つを邪定聚の機とよぶ。もう一つを不定聚
の機とよぶ。聚とは集という意味だ。人々という意味である。機とは器つまり器という
意味だ。器量という熟語に通じる。頑迷牢固に自分の意見に固まってしまっている者、こ
れを邪定聚の機という。自分の意見には決して固まっていないが、何が真実かは見えてい
ない者、これを不定聚の機という。邪定聚の機には、邪定聚の機なりの仏道への入り方が
用意してある。不定聚の機には、不定聚の機なりの仏道の入り方が用意してある。邪定聚
の機は双樹林下往生という形で仏道の世界に入る。不定聚の機は、難思往生という形で仏
道の世界に入るのだ。

16:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/05/17 00:25:11 LP7eGJ1x
 ここをもって、愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化に依って、久しく万行・諸
善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る、善本・徳本の真門に回入して、ひとえに
難思往生の心を発しき。しかるにいま特に方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり、
速やかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲う。果遂の誓い、良に由あるか
な。ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。至徳を報謝せんがために、真宗の簡
要を拾うて、恒常に不可思議の徳海を称念す。いよいよこれを喜愛し、特にこれを頂戴す
るなり。(化身土巻)

 (私もかつては双樹林下往生しました。しかし)私は、曇鸞大師が書かれた浄土論註を
拝読し、善導大師の勧めにより、ずっと以前に万行諸善を積む(その)双樹林下往生を離
れ、善本・徳本つまり南無阿弥陀仏を称えようという真実の門に入り、永くここに親しみ、
難思往生の心を抱いてきました。しかし、今、方便であった真実の門を抜けだし、選択の
願海に転入しました。真実の門という方便の難思往生の心をできるだけ速やかに離れ、難
思議往生の世界に到達しようと思います。阿弥陀仏は、20願で果遂の誓いを起こしていま
す。必ず成し遂げよう、もし成功しなければ、自分は大乗の仏になったとは思うまい。
そのように誓っています。選択の願海に転入し、先人達の深い心が見えてきました。先人
達の親切と優しさとご苦労に報いるため、真実の宗の核心部分を抜き出し、永遠の偉大な
る世界を称賛し、心に念じたいと思います。

 九歳の春の比(ころ)、阿伯従三位範綱卿 ~、前大僧正~の貴房へ相具したてまつり
て、鬢髪を剃除したまいき。範宴少納言公と号す(御伝抄)。

 親鸞は9歳の時、養父に連れられて慈鎮和尚の元で出家し、剃髪したようだ。親鸞が、
双樹林下往生したのはこの時のことを言っている。親鸞は、仏教というものを皆目何も分
からない状態で9歳の時に仏教の世界に入ったのだ。

17:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/05/17 00:27:04 LP7eGJ1x
 何よりも、殿の御往生、~ 山を出でて、六角堂に百日籠もらせ給いて、後世を祈らせ
給いけるに、九十五日の暁月、聖徳太子の文を結びて、示現にあずからせ給いて候いけれ
ば、やがてそのあか月、出でさせ給いて、後世の助からんずる縁にあいまいらせんと、訪
ねまいらせて、法然上人にあいまいらせて、又、六角堂に百日こもらせ給いて候いけるよ
うに、又、百か日、降るにも照るにも、いかなる大事にも、参りてありしに、ただ、後世
の事は、善き人にも悪しきにも、同じように、生死出ずべき道をば、ただ一筋に仰せられ
候いしをうけ給わり定めて候いしかば、上人のわたらせ給わん所には、人はいかにも申せ、
たとい悪道にわたらせ給うべしと申すとも、世々生々にも迷いければこそありけめ、とま
で思いまいらする身なればと、ようように人の申し候いし時も仰せ候いしなり(恵信尼手
紙)。

 親鸞は、あるとき比叡山を下り、六角堂で百日籠もった。恐らく常行三昧という荒行を
やったのではないかと思う。現代では、酒井雄哉さんが行っている。このとき、親鸞は聖
徳太子への願文を書いていたようだ。常行三昧では、行者は死の淵まで行く。そこでしば
しば幻覚を見るようだ。示現にあずからせ給うとは、幻覚を見たのだろう。その後親鸞は
いったん法然に会いに行く。しかしそこで決心が付かず、もう一度百日常行三昧を行う。
さらに、その後も六角堂に通う行をやっという。酒井雄哉さんは常行三昧の後、千日回峰
行を行ったようだが、どうやら親鸞は100日間の回峰行をやったようだ。これによって、
比叡山での修行に終止符を打つ決心が付き、法然の下に正式に弟子入りした。
 当時、法然上人はただ念仏せよと教えていた。親鸞は、専一に念仏だけを称えていく善
本・徳本の真門に回入し、難思往生を遂げた。         続く

18:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/05/18 01:03:11 QdNLEn6d
 往生という概念を知りたければ、双樹林下往生の概念を基本に考えればいい。従来、真宗学で
は、双樹林下往生を釈迦の死と結びつけ、双樹林下往生とは、釈迦のような立派な死に方すると
いうような風に解釈してきていると思う。これでは九歳の時の親鸞の出家と結びつかない。双樹
林とは、祇園精舎の別名だろう。平家物語の書き出しは、祇園精舎が沙羅双樹林の中にあったこ
とを教えてくれている。つまり、双樹林下往生とは、祇園精舎に入学することを言う。親鸞は、
九歳で青蓮院に入学し、その後は延暦寺に登っている。青蓮院も延暦寺も祇園精舎の分校である。
青蓮院で剃髪したと言うことは、このとき親鸞は祇園精舎の分校に入学したのだ。ここで入学し
たのは、親鸞の霊魂だけではない。親鸞は肉体も、精神も、まさに全人格をもって祇園精舎に入
学したのである。往生は、親鸞の霊魂だけが親鸞から離れて入門したと思ったなら、これは大き
な間違いである。
 親鸞はなぜ祇園精舎に入学したのか。親鸞に言わせれば、当時、彼も彼の回りもみな、邪定聚
の機だったからである。まさにここがいい、つまり青蓮院がいい、延暦寺がいいと、邪に確信してい
たからである。青蓮院も比叡山も、そこがいいと信じる人のために仏道の門戸を開いていたのだ。

 釈迦は、三五歳の時、十二因縁の原理を悟った。同時に四諦を悟った。実体を知り(苦)、そ
の原因(集)を知り、原因を克服する方法論(滅)を実践(道)すれば、無明を断てる。互いに
学び合おう、教え合おうと提案した。
 学則(戒律)を守ることを誓った者は入学を許し、有形の真理は智慧という形で、文字で、言
葉で、絵画などで教えた。無形の真理は、禅定法を教え、これによって誰でもがいつでも身近
に手に取れるようにした。釈迦は戒・定・慧を三学と呼び、これを教育の基礎においた。祇園精
舎は釈迦の教育理念をそのまま実践し、祇園精舎の分校もまさにそのように釈迦の理念を実践し
ていた。双樹林下往生とは、まさにそのような釈迦の学校に、霊魂だけでなく、全人格をもって
入学することをいうのである。

19:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/05/19 00:25:19 QmgtySWY
 親鸞は、延暦寺という双樹林下学校(祇園精舎)の分校に入学した。なお、断っておくが、実
は延暦寺という寺は、本当は存在しない。比叡山一帯にある寺々を延暦寺と仮に総称している。
親鸞は、比叡山のどこにいたかは、現在では分からなくなっている。
 9歳の子供がいきなり青蓮院や延暦寺に放り込まれれば、世界が変わる。このとき親鸞は全く
別の世界に往った。
 それまで、例えばクレヨンしんちゃんごっこをしていた子供が、いきなり戒律を与えられ、こ
れを守れと言い渡されれば、自分の立ち居振る舞い、つまり行動を大きく変えなければならない。
行動を変えるには心も変えなければならない。心と行動が変われば、人は人格が変わる。このと
き古い親鸞が死に、新しい親鸞が生まれた。まさに双樹林つまり祇園精舎の世界に、霊魂だけで
なく全人格をもって往き、生まれた。

 親鸞は、延暦寺では堂僧という地位にあったらしい。堂僧というのは、かなり低い地位のよう
だ。恐らく弁慶などと一緒で、緊急時には長刀を持って強訴する僧兵の一人だったんだろうと僕
は想像している。僧兵には、有髪の兵士と出家兵士とがいた。親鸞は出家兵士の一人だったんだ
ろう。
 僧兵であっても、普段は学問をしている。親鸞が、曇鸞や善導に最初に会ったのは延暦寺での
ことだ。延暦寺で曇鸞や善導に会っているということは、親鸞は浄土系の学派に属していたとい
うことだろう。親鸞は釈迦の教育哲学に基づき、戒律を守り、智慧を学び、禅定を修行していた。
普段修める禅定は、円仁大師が唐から持ってきた五会念仏を修めていたのだろうと思う。僧兵な
らば、恐らく武闘訓練も日課に入っていただろう。

20:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/05/24 00:46:27 zRfGhVqi
>>19
続きは近日中。

21:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/05/26 13:18:05 Cz0ClXwT
 親鸞はなぜ法然の下に走ったのか。好きな女性がおり、女の尻を追ったのか。玉日姫の伝説な
どを信じれば、まさにそういうことになるんだろう。親鸞は、女の尻を追っかけて学校を退学す
るような人間だったのか。はたしてそうだったのか。行者宿報などの偈文を信じればそんな話にも
なるんだろう。しかし、玉日姫の伝説は大正時代に恵信尼公の手紙の発見で消滅した。偈文の件
については、僕は確かな証拠がない限り信じない。根も葉もない三流の馬鹿話の類だろうと思って
いる。

 釈迦は教育者であり、大乗仏教は教育学である。教育には様々なジャンルがある。大乗仏教の
先人達は、個人教育と学校教育を重要視した。法然は社会教育の重要性を訴え、親鸞もその社会
教育の重要性に共鳴した。これが比叡山教育学と法然教育学との根本的な違いであり、親鸞は、
比叡山になかった新興の社会教育論に惹かれ、比叡山を下りた。僕はそう思っている。
 法然以前にも社会教育の重要性を感じ、その実践を行おうとした人はいただろう。しかし、そ
の人一代で終わったり、あるいは確固とした哲学がなく土俗の慣習世界に埋没していった。法然に
は哲学があった。親鸞は哲学のある社会教育学に惹かれていった。

 伝教大師・弘法大師はいずれも学校教育学の確立を目指した。伝教大師は延暦寺、弘法大師は
金剛峰寺をその教育の現場に据えた。釈迦以来の戒律と智慧と禅定とを全寮制という枠の中に若
者に教え、次の時代の教育者も育てようとしていた。この考えは、基本的には釈迦の考えと同じ
だ。釈迦は祇園精舎を建設している。

22:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/05/26 13:21:14 Cz0ClXwT
 全寮制とか学校という枠を出よう。広く社会の人に直接真理を伝えよう。真理を一部の特権階
級の独占物にしてはいけない。これが社会教育の基本的考えである。かつては鑑真和上も同じよ
うな考えを持っていた。鑑真和上は東大寺・唐招提寺との関連が強いが、あの人はかなり全国を
回り、各地で大衆に授戒を行い、倫理・道徳という概念を知らなかった日本の大衆に、仏教の先
進の倫理を伝えている。ただ、日本の律宗は鑑真和上以後、殻の中に入り込み、大衆に仏教倫理
を伝えるという努力を怠ってきているように思う。なお、東南アジアの現代仏教は、大衆に仏教倫理
を伝えるということが重要なテーマになっているようだ。

 釈迦の教育学は、戒律と禅定と智慧とが三本柱である。これは、学校教育では重要なテーマと
なるが、社会教育でもそれが言えるのだろうか。鑑真和上は、日本で最初に社会教育を実践した
高僧だが、そのとき民衆に伝えたのは、戒律だけである。仏教の基本である五戒を伝えたんだろ
うと思う。三学は戒律と禅定と智慧であると言っても、大衆に禅定や智慧まで教えようとしたわ
けではない。

 大衆に仏教を伝える場合、あれもこれもなどということは不可能である。大事なこと一つだけ
を伝えればいい。それならどうするか。社会教育学は、教える側にそのような選択が迫られてく
る。

23:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/05/31 12:26:53 yqP4Dh/L
 しばしば、バスや電車内には市民講座という案内が掲示されている。「市民のための一日源氏
物語講座」などというのは、ラーメン屋さんやパン屋さんなどが簡単に受講でき、非常に便利な
ものだ。一般に、源氏物語などというとラーメン屋さんやパン屋さんには敷居が高いが、大学の
先生などが大学の一角を市民に一日だけ開放して教えてくれるという機会は意味のあることだろ
う。
 源氏物語を勉強しようと思えば、普通は大学などに入学する。入学するには試験がある。源氏
物語を勉強しようと思っても、入学のためには、数学も物理学も勉強しないといけない。入学し
てからもいろんな勉強が待っている。源氏物語だけではなく、シェクスピアもギリシャ悲劇も勉
強しないといけない。そうやって幅広く勉強していって初めて源氏物語が分かってくる。しかし、
そんなことはラーメン屋さんやパン屋さんには不可能だし、ラーメン屋さんやパン屋さんが源氏
物語を勉強しようと思えば、そこまでは必要はないだろう。大学の先生などが半年か一年に一度、
不定期に市民講座を開いてくれれば、それだけでもう十分なんじゃないだろうか。
 半日、一日の市民講座を受講し、それだけで源氏物語が分かったなどと思えば、それは噴飯物
だろうが、それを受講しなかった場合と比べれば、ラーメン屋さんやパン屋さんのレベルで考え
れば、月とすっぽん、雲泥の差があるだろう。
 市民のための一日源氏物語講座では、シェクスピアの話は出ないだろう。ギリシャ悲劇の話題
も多分無いと思う。源氏物語講座全巻に及ぶ話もない。例えば桐壺の巻だけでも詳しく教えて貰
えれば、市民講座終了後は、源氏物語を自分一人で多少はめくれるようになるだろう。日本の古
典文学に触れるというのは、ラーメン屋さんやパン屋さんの人生にとっても意義あることだろう。


24:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/05/31 12:28:39 yqP4Dh/L
 親鸞仏教も実はそれと同じだ。仏教を勉強するとなると、頭を剃り、衣を着替え、戒律を授か
り、全寮制の延暦寺や金剛峰寺に入学する。こうした道は、ラーメン屋さんやパン屋さんに簡単
にできる話ではない。
 学校式仏教学では、戒律と禅定と智慧の学習が三本柱になる。戒律は価値観である。二千年も
三千年も昔の赤道近くのインドの価値観が、二千年も三千年も経て、雪降る北方のジパングでそ
のまま妥当するとも思えない。智慧は、真理を有形的に示してある。形を持てば真理と雖も時間
と共に古くなる。パソコン会計ついても、簿記についても何一つ解説していない仏典を、今更ラ
ーメン屋さんやパン屋さんが一生懸命勉強しても意味がないだろう。
 ラーメン屋さんにはラーメン屋さんの勉強がある。仏教の智慧はどんなに深くても、パソコン
会計についても簿記についても解説していないものを勉強する必要はないだろう。ラーメン屋さ
んはラーメン屋さん学校の勉強をすればいい。戒律もいらない。国には憲法があり、法律がある。
ラーメン屋さんとして他人から後ろ指さされない生き方をしていけば、もうそれでいい。仏教か
ら正邪の価値観を教わらなくても、正邪の価値観はラーメン屋さんの世界で教わればいい。ラー
メン屋さんには仏教からは禅定だけ教えよう。禅定と言っても全部ではない。市民講座源氏物語
が入口の桐壺だけ教えてくれるように、ラーメン屋さんは禅定の入口だけ教わりなさい。それは、
禅定ではなく、称名念仏という形で教えよう。ラーメン屋さんが源氏物語を教わろうすれば、桐
壺の巻だけ少し突っ込んで教われば十分なように、ラーメン屋さんが仏教を教わろうすれば、称
名念仏だけ教われば十分だ。


25:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/05/31 12:30:19 yqP4Dh/L
 源氏物語の学習には大学に入学して教わるという方法と、市民講座に入学して教わるという方
法とがある。仏教にも二つの方法がある。祇園精舎又はその分校に入学するというありかたがあ
る。それが一つだ。これを双樹林下往生という。双樹林下往生では、戒律と智慧と禅定とを必死
になって勉強しなければならない。シェクスピアもギリシャ悲劇も勉強しないといかんだろう。
しかし、善導大師が市民講座用のもう一つの入り方を開いてくれた。それを難思往生という。ラ
ーメン屋さんやパン屋さんなどが仏教を勉強するための方法である。源氏物語難思往生市民講座
は、半日・一日程度、桐壺だけ解説してくれる。後は、自分で好きなとき、暇があればぱらぱら
と源氏物語をめくりなさいな。仏教難思往生市民講座は、禅定のうちの入口部分、称名念仏だけ
を教えてくれる。後は好きなとき、暇があれば称名念仏を繰り返していけばいい。親鸞仏教は、
まさにそういう市民講座仏教なのだ。

26:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/06/05 11:17:20 6Ps/IbRq
 親鸞会系のスレは流れが速いから今の内にメモしておく。

 信心のひとにおとらじと 疑心自力の行者も
如来大悲の恩をしり 称名念仏はげむべし  (和讃)

  称名念仏励 めよ」なんどの教えは、如何に間違っているかが判るであろう。若し、この
ような称名正因の教えを許すならば、真宗の信心正因の教義は、根本から転覆してしま
うのだ(白道燃ゆ)。 

 高森さんのこの議論に対し、僕が批判したところ、詳しく教えて欲しいという要請がありま
した。往生論に続いて、いずれここで解説します。

スレリンク(psy板:385番)
名前:神も仏も名無しさん[] 投稿日:2007/06/04(月) 01:03:15 ID:dj2o0eB/

「親鸞聖人が聞けばそれこそ転覆してしまうようなデタラメを教え」
どこに根拠があるの?(私、頭悪いから分かりやすく書いてね)

金集めて何が悪いの?
出させて頂く側は好きでやっているんだから。
仮に、ぜ~んぶ、先生のところへ行っても、いいですよ。
親鸞聖人の御教えを明らかにして下される方のところであれば。。

浄財が、除名者や除名者候補のところに行くのは気に入らないけどね。
(浄財で生かされている本会の職員でありながら、
親鸞聖人の教えを曲げるから除名になるの!)


27:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/06/06 09:17:51 MmLn3Y9t
 市民講座などで大丈夫なんだろうか。自分は源氏物語全体を知りたいんだ。ところが、市民講
座は桐壺しか教えてくれない。桐壺だけで源氏物語全体が分かるんだろうか。ラーメン屋さんは
そんな風に疑問を持つ。
 考えてみよう。ラーメン屋さんは、別に、源氏物語で学位論文を通したいと思うんじゃないん
だろう。平安朝貴族の雅な精神に少しでも触れ、その豊かな心が少しでも自分の日常の中で生き
るなら、それで十分なんだろう。平安朝貴族の雅な精神は、源氏物語全体に流れているからこ
そ、桐壺の中にも十分流れている。全編の解説を聞けなくても、桐壺の解説だけで、源氏物語の
精神には十分に触れることができるだろう。
 源氏物語は普通、大学で教わる。しかし、微分・積分も分からない。三角関数もチンプンカン
プン。中国史の義和団の乱も、朝鮮の東学党の乱もチンプンカンプン。そんな人には大学入試は
受からない。大学に入れない。罪悪深重、煩悩熾盛とまでは言わないが、ラーメン屋を切り盛り
していれば、大学などには通えない。市民講座はそんな人のために開かれている。
 市民講座の先生は、大学の学部学生・院生などと市民講座の生徒を区別しない。ラーメン屋さ
んでも、パン屋さんでも、警備員さんでも、源氏物語を教わりたいという人は大歓迎してくれる。
学部学生や院生などは、三角関数を知らないと言えば「なんだお前は三角関数も知らないの
か」と眉をひそめられるが、パン屋さんにはそんなことはない。三角関数を知らないパン屋さん
が「私は光源氏が大好きだ」と言えば、市民講座の先生などは「そうだ。そうだ。私も大好きな
んだ」と言ってくれるだろう。パン屋さんやラーメン屋さんの源氏物語の勉強は、市民講座で十
分だ。パン屋さんやラーメン屋さんの仏教講座は、難思往生だけで十分なんだ。

 難思往生市民講座で、ただ念仏しなさいよと教えてくれているは、天の神様ではない。宇宙の
中心の万物の創造主でもない。善導大師という、中国、唐の時代の高僧だ。パン屋さんやラーメ
ン屋さんの源氏物語講座は桐壺だけで十分。パン屋さんやラーメン屋さんの仏教講座は、念仏だ
けで十分だと教えてくれている。

28:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/06/06 09:18:33 MmLn3Y9t
 ところがどうだろう。ただ念仏しなさいよと言ってくれているその背景には、先生の心がある
はずだ。大学学部でも、大学院でも、生徒と先生の間には師弟関係がある。市民講座にでも師弟
関係があるだろう。そこには、本物の生徒と、仮の生徒がいるはずだ。念仏申せと言われたとき
だけそれを実行する生徒は、先生の真の心が見えていないロボットのような仮の生徒ではないの
か。それをもし仮の生徒と呼べば、それ以外の生徒もいるだろう。
 市民講座の生徒が、念仏しなさいよと言ってくれている先生の真意が感じられたとき、人は初
めて市民講座の本当の弟子になる。市民講座の先生の生徒になる。市民講座の生徒が、市民講座
の生徒としてやることは念仏だけだけど、その念仏をする中で、先生から拈華微笑され、我が意
を得たりといわれたとき、人は初めて市民講座の本当の生徒になるのではないか。それまでは、
仮の生徒と言うべきだろう。先生と肝胆相照らすそんな生徒になる。親鸞はそれを、難思往生と
区別して、難思議往生と呼んでいる。

 源氏物語市民講座の生徒は桐壺だけでいい。しかしその桐壺を学ぶ中で、先生と肝胆相照せる
そんな精神世界を模索してみようじゃないか。仏教市民講座の生徒は、禅定の入口、称名念仏だ
けでいい。しかしその称名念仏を実践する中だけで、念仏せよと教えてきてくれている先生と肝
胆相照らすそんな関係を模索してみようじゃないか。そのとき生徒は、先生と同一の精神世界を
共有する。市民講座の仮の生徒の枠を越え、本当の生徒になる。人は難思往生を越えて難思議往
生を達成する。

 難思議往生は、別に霊魂だけが肉体から抜け出てどこかにふわふわと流れていくことじゃな
い。まさに身も心も全身全霊をもって先生と肝胆相照すそんな関係を持つようになる。難思議往
生は、肉体から抜け出した霊魂だけの話じゃない。肉体も精神も、あらゆる価値観・世界観にお
いて先生と肝胆相照す先生と同一の精神世界に参入する。これを仏教市民講座の難思議往生と呼
んでいる。

29:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/06/11 09:16:53 CALheV5F
 先生の弟子となって先生の下に入門するなら、形ばかりの生徒じゃなくて、実質のある生徒に
なろう。仮の生徒じゃなく、本物の生徒になろう。本物の生徒とは、自分の方からもこの人こそ
自分の本当の先生であり、先生の方からもこの人は自分の本当の生徒であると、そんな風に言っ
て貰える生徒になろう。先生と生徒が、共に肩を抱き合い、肝胆相照す同一の精神世界を共有す
るそんな世界を求めようじゃないか。
 先生の指示だから、それじゃまあ、言われるままにやろか。そんなんじゃなく、先生の真意が
本当に汲み取れて、先生の心が見えてその教えを守るそんな弟子になろう。難思往生を越え、実
体のある難思議往生を求めよう。

 源氏物語は、桐壺以外にも、帚木、空蝉、夕顔などもやはり読まないと駄目なんじゃないか。
そんなことはない。市民講座の先生が、桐壺だけしっかり読んでご覧と仰っている。ラーメン屋
さんやパン屋さんは、桐壺だけしかり読んでみればいい。そうすればきっと分かるものがあるだ
ろう。ああそうだったのかと、きっと見えてくるものがあるだろうと言っている。それなら、先
生の真意は、桐壺だけをしかり読ませようというところにあるんだろう。

 善導先生は念仏だけ称えてみなさいと仰っている。念仏だけでいいんだと言ってくれている。
しかし本当は念仏以外、いろいろな行をやってみないとだめなんじゃないか。いやいや、そんな
ことはない。念仏だけしっかり称えていけば、必ずやきっと分かるものがあるだろう。親鸞先生
は、善導市民講座でそう仰っている。

30:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/06/11 09:17:59 CALheV5F
 親鸞聖人の時代、先生と肝胆相照すような精神世界に到達した人という人は幾人もいたようだ。
「また、真宗の聞き書き、性信房の書かせ給いたるは、少しもこれに申して候様に違わず候えば、
嬉しく候」。親鸞は性信房の信心について全幅の信頼を寄せていたようだ(血脈文集)。こうい
うお弟子さん達は性信房以外にも、関東にたくさんいたようだ。おそらく真仏・顕智などのよう
な人も、先生とは肝胆相照すそんな世界に入っていた人だろうと思う。だからこそ、親鸞は後顧
の憂い無く関東の多くのお弟子さんを彼らに預け、自分は法然一門の再興を目的に単身で京都に
向かったんだろうと僕は考えている。

 ところが、肝胆相照すようになるそんな人ばかりではない。念仏を称えても称えても、なかな
か「ああそうだったのか」と、膝を叩いて合点がいくようにならない人もいる。なかなか実感が
持てない。実感が持てなければ、様々なさまざまな疑問、疑いがでてくる。先生と肝胆相照す同
一の精神世界にはいたらない。こういう人は、しばしば、念仏が続かなくなる。しかし、それで
も、疑いながらも、疑いながらも、なお生涯、念仏を称えていけばどうなるか。

 先生はきっとこういうだろう。「まさに貴方も、私の心を本当に理解してくれた一人だった
と」。生きているとき、互いに実感を持って肩たたき合い、「そうだ、そうだ」といいあえなか
った。必ずしも肝胆相照すことはできなかった。しかし、念仏の世界というのは、けっして肝胆
相照す世界だけじゃない。念仏を称えようじゃないかという、先生のこの提案を受け、生涯念仏
を称え続けた人は、「そうだ、そうだ、貴方こそ、私の心を本当に理解してくれた一人だった
と」、先生はきっとその生涯を称賛するだろう。念仏を死ぬまで称え続けた人は、その人も、先
生の精神世界と同一の世界にあった人として、その生涯を喜んでくれるに違いない。この人こそ、
まさに、現代における目蓮に同じ、舎利弗に同じ、弥勒に同じだった、そう称賛するに違いない。

31:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/06/11 09:18:55 CALheV5F
 念仏は、疑いながら、疑いながら称えてもいい。疑っては駄目だと言ってもそれは逆に無意味
なことだ。疑う人は疑えばいい。疑いながら、疑いながらも、生涯称えていけば、まさにその生
涯は、全生涯をもって先生の精神世界と同一の世界に立つだろう。先生の精神世界と同一の世界
に立つのは、肉体から抜け出た霊魂だけの話ではない。生涯を全うした全人格が、身も心も先生
の精神世界と同一の世界に立つことになる。
 難思議往生とは、生涯、死ぬまで称え続けたというその事が、仏陀の称賛をベースに、その人
の全生涯、身も心も、霊魂も肉体も、全てが、仏陀の精神世界と同一の世界に立つことを言う。

32:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/06/20 00:35:53 tWk4nw+b
 極楽浄土はどこにある。阿弥陀仏は、釈迦の教師像を理想化したものだ。教師は生徒の未来を
信じて教育に当たる。生徒は未来を信じて努力する。
 太陽は東から西に移動する。時計の無かった時代、人々は太陽の位置で時間を知った。東は過
去、西は未来を象徴する。
 釈迦は、四つの姿を持っている。釈迦は三毒を抱える病人を直す医師である。人々に未来に向
かって歩ませる教師である。人々に働くことを教え、富をもたらす生産者である。人々に安らぎ
を与える休息所である。釈迦の四つの人格は、それぞれ独立した理想の仏陀像を形成した。東に
薬師仏、西に阿弥陀仏、南に宝生如来、北に不空成就如来を配する。
 阿弥陀仏は、釈迦を理想化した教師である。釈迦は祇園精舎を創建した。極楽浄土は祇園精舎
をモデルとして理想化した阿弥陀学校である。祇園精舎は釈迦の精神界を具現化した。阿弥陀学
校は阿弥陀の精神界を具現化している。
 釈迦の時代から二千年も三千年も経て、しかもインドからは遙かに遠く、ヒマラヤを越え、冬
には雪降る北方のジパングで、三学の内の一つでも、すなわち称名念仏だけでも称えている者は、
その尊さは釈迦の時代の目蓮に等しい。阿難に等しい。釈迦の精神界と同一の精神界を共有する。
それは、釈迦の教育者像を理想化した阿弥陀の精神界も共有するだろう。
 称名念仏する者は、西方極楽浄土に往生する。親鸞の確信は、極めて自然な考え方だと僕は思
う。

33:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/06/20 00:37:10 tWk4nw+b
 先生は念仏を称えよと教えてくれる。二千年も三千年も昔、灼熱の太陽の照りつけるインドで
妥当した価値観で作られた戒律などは、二千年も三千年も後、雪降る北方のジパングのラーメン
屋さんが守らなければならないような内容のものではない。ラーメン屋さんは、ラーメン屋さん
の学校で教えてくれるルールを守ればいい。
 二千年も三千年も昔のインドは、確かに世界の最先端の国だった。あらゆる最先端の知識があ
った。しかし、パソコン会計法も、簿記法も載っていない経典などは、駅前で一杯500円のラ
ーメンをサラリーマンに売っているラーメン屋さんが読まなければならないようなものではない。
500円のラーメン屋さんは、経典など読まなくても、読むものはたくさんある。新聞でもいい。
インターネットの記事でもいい。たまには遠くに遠足に行くのもいいだろう。経典を読む前にす
ることはいくらでもある。
 ラーメン屋さんは、禅定だけ仏教から教わればいいのだ。それも、禅定のごくごく入口だけで
十分だ。禅定のごくごく入口と言えば、それは称名念仏だ。先生はそう思って、駅前のラーメン
屋さんには称名念仏を勧めている。
 これに対し、先生がやれと言うから、先生の指示のまま称名念仏を実践し、言わなくなればや
らなくなるラーメン屋さんがいる。あるいは、先生の指示が休んでも自主的に称名念仏を続ける
ラーメン屋さんもいる。二人は同じだろうか。先生がやれと言うから実践するが、言わなくなれ
ばやらなくなるラーメン屋さんは、まだ先生の本当の気持ちが分かっていない。先生の指示が休
んでも自主的に称名念仏を続けるラーメン屋さんは、先生の本当の気持ちが分かったラーメン屋
さんだ。
 念仏が続かなくなるラーメン屋さんは、本物のお弟子さんではない。先生と価値観を一部では
共有しているが、完全な共有はない。精神界は隅っこで共有しているが中心は重なってない。だ
からこれは本物ではない。借りものだ。だからこれを仮土往生という。
 先生の指示が休んでも、自主的に称名念仏を続ける駅前のラーメン屋さんもいる。これは先生
と価値観が完全に一致している。こういう駅前のラーメン屋さんは報土に往生しているという言い
方を、浄土真宗ではするのである。

34:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/06/20 00:39:30 tWk4nw+b
 以上をもって往生論は一応完結したと考えます。
>>15の様々な往生概念は、上記の往生観から、その真意も容易に類推できると思います。

35:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/06/29 12:48:10 HFnIhLL4
>>26
  多忙。 近いうちに書きます。

36:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/07/01 12:35:24 L8KWK8YK
>>26
 「白道燃ゆ」の転覆理論を紹介する。発行所 浄土真宗親鸞会 著者 高森顕徹 初版昭和4
9年8月25日、第65版平成9年9月1日
 この本は、つい最近まで親鸞会会員の必読書だったそうだ。

 「念仏か信心か」
 親鸞聖人の御教えは、釈尊出世の本懐である、阿弥陀仏の本願を開顕せられたものである。阿
弥陀仏の本願を離れて、浄土真宗はあり得ない。では、阿弥陀仏の本願とは何か。
 「総ての人々を、必ず救いとる」と言う御約束であるが、それについて三信(信心)と十念
(念仏)とが誓われているので、「信じての救い」なのか、「念仏称えての救い」なのか、本願
だけでは判然としないのである。 こんなところから、本願の真意の判らない人達は「念仏さえ
称えていれば、助けて頂けるのだ」と信ずるようになるのである。
 親鸞聖人、三十四才の時、法然門下に於いて、信行両座の諍論がなされた時に、行の座に迷っ
た連中も、そのように思い込んでいたのである。そこで親鸞聖人は、『教行信証信巻』に於いて、
「横超とは、即ち願成就一実円満の真教、真宗これなり」と喝破なされて、阿弥陀仏の本願の真
意、釈尊出世の本懐、三世諸仏の本意、七高僧の真精神の総ては、偏に第十八願成就文に説かれ
ているのだ、と断定なされた。故に、親鸞聖人の開顕なされた、浄土真宗の信心、教義の一切は
『本願成就文』によらなければならない。

37:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/07/01 12:35:56 L8KWK8YK
 これを伝承せられた覚如上人は、「かの心行を獲得せんこと、念仏往生の願成就の、信心歓喜
乃至一念等の文をもって依憑とす、この外未だ聞かず」(改邪鈔)と断言なされ、真実の信心は、
願成就文のみに明示されていると教えられている。
 更に、「真宗に於いては、いくたびも廃立を先とせり」といゝ、「それについて、三経の安心
あり、その中に大経をもって真実とせらる。大経の中には第十八願をもって本とす。十八の願に
とりては、また、願成就をもって至極とす」と教えられている。
 されば、この願成就文に反することを教えるものは、一切、異解、異安心であり、断じて真宗
の道俗とは言われない。
 では、浄土真宗の安心教義の至極を明示されている、『本願成就文』とは何か。
「諸有の衆生、其の名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向せしめたまへ
り。彼の国に生まれんと願ずれば、即ち往生を得て、不退転に住す。唯、五逆と正法を誹謗せん
とをば除かん」漢字で書けば、四十文字である。
 この詳しい説明は省略するが、この願成就文には、称名念仏が出ていないから「念仏称えたら
助かる」と信じているのは、真宗の信心ではないことが明白になる。
 願成就文では、明らかに、「信ずる一念」で信心歓喜と助かるのだ、と信心正因が打ち出され
ているからである。されば、本願の「乃至十念」の称名念仏は、三信の信心に収まって、こゝに
親鸞聖人によって、弥陀の本願の極意は、唯信独達であることが鮮明になったのである。
 親驚聖人が、この『願成就文』を説明する為に『教行信証信巻』上下二巻に一亘っていられる
御心中も、察せられるであろう。これ偏に、行々相対の称名念仏を破って、唯信別開の絶対門を
打ち樹てんが為であったのである。

38:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/07/01 12:36:30 L8KWK8YK
 このような、親鸞聖人の教えに照らせば「念仏称えよ、そうしたら助かる」「称名念仏はげめ
よ」なんどの教えは、如何に間違っているかゞ判るであろう。若し、このような称名正因の教え
を許すならば、真宗の信心正因の教義は、根本から転覆してしまうのだ。信心正因、称名報恩が、
真宗の正義であるから、念仏は総て信後、報謝の念仏に限るのである。いわば念仏は、信心を親
として生まれる子供であるが、称名念仏さえしていれば助かる、というのは、子供が親を生むと
いう、馬鹿げたことになる。
 我々真宗人は、親鸞聖人の『教行信証』に立ち、覚如上人の『改邪鈔』、蓮如上人の『御文
章』に一貫している信心正因、称名報恩の錦の御旗を、振りかざして進むのである。
 真実、救われる道は、この道一本キリである。これを障げる者は、何者と雖も、容赦なく斬り
捨て、踏み越えて、聖人の真意を開顕してゆくのが我らの聖使命と心得ているものである。

高森氏の提起 論点 
 「この願成就文には、称名念仏の意味が出ていない。だから、『念仏称えたら助かる』と信じ
ているのは、真宗の信心ではない。これは明白である。願成就文では、明らかに、『信ずる一
念』で信心歓喜し、助かるのだと、このように信心正因が打ち出されているのである。」

39:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/07/01 13:01:40 L8KWK8YK
論点 1 「白道燃ゆ」は、この「一念」に、称名念仏の意味が出ていない。
論点 2 「称名念仏」が出ていないから、「念仏称えたら助かる」と信じているのは、真宗の
信心ではない。

 「称名念仏」の意味が親鸞仏教で出ていれば、「白道燃ゆ」の思想の方が転覆する。

 本願願成就の文、経にいはく、あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一
念せん。至心に廻向したまへり。かのくにに生ぜんと願ずれば、すなはち往生をえ、不退転に住
す。ただし、五逆と誹謗正法とをばのぞく。 (岩波文庫「教行信証 信の巻」)

 「おほよそ往相回向の行信について、行にすなはち一念あり。また信に一念あり。行の一念と
言ふは、いはく称名の遍数について、選択易行の至極を顕開す。かるがゆえに大本にのたまはく、
仏、弥勒に語りたまはく、「それ、かの仏の名をきくことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんこ
とあらん。まさに知るべし、この人は大利を得とす。すなはちこれ無上の功徳を具足するなり」
と。已上
  光明寺の和尚は下至一念と云えり。また一声一念と云えり。また専心専念といへり。

 経に乃至と言い、釈に下至と曰えり。乃下そのことばは異なりといえども、その意、これ一な
り。また乃至とは、一多包容のことばなり。専念と云えるは、すなわち一行なり、二行なきこと
をあらはすなり。いま弥勒付嘱の一念はすなわちこれ一声なり、一声すなわちこれ一念なり、一
念すなわちこれ一行なり、一行すなわちこれ正行なり。正行すなわちこれ正業なり、正業すなわ
ちこれ正念なり、正念すなわちこれ念仏なり、すなわちこれ南無阿弥陀仏なり。(岩波文庫「教
行信証 行の巻」)

40:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/07/01 13:03:12 L8KWK8YK
 願成就文の乃至一念とは何か。乃至一念という概念を、善導は下至一念と言ったり、一声一念
と言っている。
 大無量寿経末で、釈迦は願が成就していることを二箇所で述べている。最初は阿難、最後は弥
勒である。阿難に伝え、弥勒に伝えた一念はすなわちこれ一声という意味である。これが一念で
ある。一念すなわちこれ一行なり、一行すなわちこれ正行である。


 信心のひとにおとらじと 疑心自力の行者も 如来大悲の恩をしり 称名念仏はげむべし
     (和讃 親鸞) 

 称名念仏さえしていれば助かるんだ。必ず助かる。そう教えているのが浄土真宗だ。
 
 念仏三昧は、これ真の無上深妙の門なり。~ 王いま座禅してただ当に念仏すべし(行の巻)

 念仏三昧してみなさいな。必ず結果出てくるだろう。


「称名念仏はげめよ」なんどの教えは、如何に間違っているかゞ判るであろう。若し、このよう
な称名正因の教えを許すならば、真宗の信心正因の教義は、根本から転覆してしまう。

 親鸞会の教えは転覆した教え。似非真宗。嘘・。インチキ・デタラメ・外道の教えであるとい
うことがわかるだろう。

41:神も仏も名無しさん
07/07/05 12:53:03 T3YGf0Gv
親鸞さんは越後に流されたとき、僧籍は剥奪されていたようですが
赦免された後、僧籍は復活したのでしょうか?
(朝廷および天台宗からの視点で)

公式な僧籍があるのと無いのとでは関東での立場も
ずいぶん違ってくると思うのですが

42:神も仏も名無しさん
07/07/05 16:13:52 Qt1jVbIF
>>41
ここは掲示板をブログと勘違いしている基地外が立てたオナニースレです。
基地外固定は相手にしないようにお願いします。

質問がある場合はこちらで聞いてください。
浄土真宗本願寺派 [22拍]
スレリンク(psy板)
☆ 卍 仏教 @ 質問箱 卍 ☆ パート17
スレリンク(psy板)

以後、このスレへの書き込みは厳禁とします。

43:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/07/06 00:10:49 om8TYQ+X
>>41
 これには面白いことがたくさんある。次回から考えていきましょう。

44:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/07/08 11:12:27 LiQ2ik+/
>>41
>親鸞さんは越後に流されたとき、僧籍は剥奪されていたようですが

 越後流罪の時に僧籍を剥奪されているということは史実のようだ。決定的証拠は、真筆本教行
信証の末尾の記載だ。真筆本教行信証とは、坂東本教行信証、報恩寺に伝わっていた。坂東本教
行信証は、非常に惜しいことに、関東大震災で最初の部分が損傷している。しかし、大部分が残
っている。報恩寺は、親鸞の直弟である性信房が開いた寺だ。
 真筆本か否かと言うことは筆跡鑑定で行う。人は自分の名前を書くとき、ある共通的な癖が出
るそうだ。本人が自分の名前を書いたときにしか出ない癖が、坂東本教行信証の「愚禿釈親鸞」
という名前の記載のところに現れている。そのことから、坂東本教行信証は日頃から自分を親鸞
と名乗っていた人物が書いたという立証ができたということらしい。

>赦免された後、僧籍は復活したのでしょうか?

 伝言の伝言で申し訳ない。読んだ本の名前も忘れてしまった。ある本の中の記載で、明治時代、
日本の過去の僧籍名簿を研究した人がいたらしい。徳川時代まで、僧籍の認証は朝廷が行ってい
た。明治になってそれが廃止された時、それまでの僧の全名簿が公開された。恐らくそれは、現
代でもどこかにあるはずだ。国会図書館か、国立大学の書庫にでも眠っているんだろう。

45:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/07/08 11:13:03 LiQ2ik+/
 それを研究をした人が親鸞不在論を発表した。親鸞の名前は僧籍名簿に存在しなかったという
のが論拠だ。研究者は、鑑真和上来朝以来の日本の全ての僧籍名簿を閲覧し、親鸞あるいは善信
という名は存在しなかったというのだ。まあ、鎌倉時代初期を当たればいいわけで、奈良時代か
ら江戸時代まで全てをサーチしたわけではないだろう。当時、この研究は、社会に対しかなりの
インパクトがあったそうだ。

 同じように流罪になった法然の名はあったかどうかは興味のあるところだ。多分、法然という
名の独立した項目は無いだろうと思う。しかし、法然は戒師を行っている。法然が授戒した僧は
たくさんいるわけで、法然から受戒した僧の名のところに、法然の名は沢山でているだろう。し
かし、親鸞にそのような経歴はないから、僧籍名簿から完全に抹消されていた。
 僧籍名簿に親鸞の名前など存在しないのは当たり前の話だろうと思うが、親鸞は僧だったとい
う信じられないような誤解が世の中に蔓延している。親鸞は僧ではない。在俗の人だった。この
ことは、僕が2ちゃんねるで騒ぎ出したことだ。まあ、2ちゃんねるに来るまえから僕は言って
いたが、中学・高校の歴史の教科書を見てごらん、親鸞は僧だったと書いてあるだろう。親鸞は
鎌倉時代の僧ということに、文部科学省検定の教科書では書いてある。在俗の男だったとは書い
てない。

46:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/07/08 11:13:50 LiQ2ik+/
 親鸞は、肉食を行い、我が国で最初に公然と妻帯した僧である。梅原猛さんなんか、本の中で
大まじめにそう書いてる。最近は梅原さんも吉本隆明さんも、親鸞関係の書物の出版が止まって
いるようだ。僕が盛んに2ちゃんねるで独自の親鸞論を主張しているから、支離滅裂なおかしな
議論が書けなくなって出版がとまっているんだろうと、勝手に僕は想像している。違うかな?
(笑)。

 まあ、冗談はどうでもいい。親鸞不在論を終息させたのは、大正時代、西本願寺の書庫で発見
された恵信尼公の手紙だ。これが見つかって、親鸞実在論は不動化し、続いて親鸞の肉筆の教行
信証が見つかり、その後続々と親鸞肉筆の古文書が古い寺から見つかってきた。親鸞肉筆の消息
集は、坂東本教行信証の筆跡とを比較して同一人物という認証を与えているんだろうと思う。

 親鸞は僧籍を失っているという証拠はある。それは教行信証の記述だ。現代では親鸞実在の証
拠も無数にある。しかし、その中で、僧籍を復活していたということを示す証拠は一つもない。
僧籍を復活していなかったことを示唆する証拠もたくさんあると僕は思っている。具体的には教
義の中に散在している。親鸞に僧籍があれば、決して主張されるはずのない教義たくさんある。
そこから、親鸞は死ぬまで一在俗者だったと僕は確信している。

 親鸞は僧であったと考えると、「我が国で最初に公然と妻帯した僧」という梅原流のハチャメ
チャ論になる。親鸞は、在俗者であったという彼の社会的立場をしっかり認識し、親鸞の書き物
を読んでいくことはとても大事なことだ。

47:神も仏も名無しさん
07/07/10 21:48:17 N1meuLXd
>>44-46
詳しい説明ありがとうございました。なるほど・・・。

親鸞、善信はともかく範宴、綽空とかも無かったんでしょうね。
そうなると削除されたままということなんでしょうか。一度、
その現物を見てみたいものです。

渡海氏は越後に流されてから恵信尼さんと結婚した、という説を
とっているのですね。そうなると、僧籍剥奪された俗人・藤井善信の時代に
結婚したことになりますから、公然妻帯の先駆者ではなくなるわけです。

ところで、親鸞さん61歳前後に北条家の館で一切経校合に加わっていた、
という「口伝鈔」の記事が注目されているそうです。
これが正しいとすると、僧籍があったということになると思います。

48:神も仏も名無しさん
07/07/10 21:49:39 N1meuLXd
このあたりのことについては、まだいろいろ考えられそうです。

49:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/07/11 00:31:14 LRCLnFjX
>>47
>そうなると、僧籍剥奪された俗人・藤井善信の時代に 結婚したことになり
>ますから、公然妻帯の先駆者ではなくなるわけです。

 そうそう。ここは一つ理屈が飛んでいた。公然妻帯説を否定するには、最
低限もう一つ条件が入るんでしたね。忘れていました。
 京都結婚説というのがありましたね。僕はあれは、全く問題にしてないん
だけど、公然妻帯説を否定するにはその問題を説明しなければいけなかっ
た。公然妻帯説否定論は別の機会にきちんと議論しなければいけない
と思います。ここで触れるような問題ではなかったと思います。

 一切経校合では、古田武彦先生が面白い研究を発表しています。ご存
知でしたか?。もしご存じなければ、見ておくといいですよ。
URLリンク(www.furutasigaku.jp)

 なお、親鸞は関東で僧としての待遇を受けていたようです。関東の仏教
環境は、京都とは違うものがあったんだろうと思います。
 少し書いてみます。


50:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/07/13 09:58:55 oS8HIqJy
 阿弥陀仏とは何か。その本質を論議してみました。 ↓

 スレリンク(psy板:368-370番)

51:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/07/18 01:13:20 sVRL3IKl
 無戒名字の比丘なれど 末法濁世の世となりて 舎利弗目連にひとしくて 供養恭敬をすすめ
しむ(愚禿悲歎述懐)

 親鸞の現実の社会的環境は、この和讃が全てを語っていると思う。親鸞は無戒だった。無戒で
あれば、僧ではない。親鸞は、自分は無戒であると断った上で自らを名字の比丘という。名字の
比丘とは、名前ばかりの僧という意味だ。
 僧として受戒しても、いったん還俗すれば、再び受戒しなければ僧ではない。親鸞は流罪の時、
俗名を給わって配流となっている。その後、僧として受戒していれば、自分のことを無戒である
とは言わないだろう。
 しかし、関東では親鸞は僧として処遇されたようだ。1233年、北条泰時は、北条の館で一
切経校合を開いた。北条政子の追善供養のためであり、その時の経典は、後に北條家から園城寺
に寄進されている。この辺の歴史的事実は古田武彦氏が研究している。親鸞はこの時、その校合
役の一人として参加した。親鸞は袈裟を着て出かけている。
 親鸞の時代、恐らく鎌倉は、京都文化圏に対向する文化圏の創設を急いでいたと思われる。そ
の場合、比叡山で三十年近くも修行していた親鸞などは、仏教の専門家(僧)として迎えられて
も不思議はないと思う。恐らく関東には、親鸞以上に経典に明るい人材は恐らくいなかったろう。
かつて、法然の下には熊谷直実が入門している。法然と北条政子とやりとりをした手紙が残って
いたはずだ。法然教団と鎌倉政府とは交流があった。親鸞を招いたのは、流罪事件後、京都で法
然教団を率いていた隆寛律師からの推薦があったのではないか。

52:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/07/18 01:14:38 sVRL3IKl
 親鸞は、僧の仕事には強い愛着があったようだ。僧は、人々を教育指導するのが仕事である。
法然は、社会教育者として人々に念仏を説いた。親鸞は、そんな法然に惹かれて法然門下に入っ
た。無戒名字の比丘という言葉の裏に、受戒の僧以上に自らは実質的に厳格に戒律を守ろうと
している親鸞の姿が僕には浮かんでくる。例えばそれは、親鸞真筆の「浄肉不浄肉の文」に現れ
ていると思う。あるいは、愚禿抄の「内は愚にして、外は賢なり」という言葉に象徴されている。
「内は愚にして、外も愚なり」とは言っていない。はっきりと「外は賢」と言っている。親鸞の
姿勢は、内は愚でも外は賢を立てていくのだ。

 しかしその親鸞は、自分が正式な僧でないというアイデンティティに苦しんでいたようだ。そ
んな心境は「末法濁世の世となりて 舎利弗目連にひとしくて 供養恭敬をすすめしむ」という
言葉に非常に良く現れていると思う。

53:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/07/19 10:13:06 T3uumbC0
 親鸞は僧という職業に非常に愛着があったようだ。流刑囚として配流されていた北陸では僧と
しての仕事はできなかったろう。恵信尼と夫婦になったのも、いちじは僧に戻ることを本気で諦
めたそんな北陸時代だ。
 しかし、流刑を赦免されると、僧の仕事ができる可能性が出てきた。僧は、親のいない子供を
集め、食べ物を与え、寝る場所を与え、読み書きを教えて社会に送り出す。人々には文字を教え、
暦を教え、病を治し、加持祈祷を行い、托鉢をする。教育者であり、医者であり、カウンセラー
であり、治山治水コンサルタントであり、農業指導者だった。
 親鸞は、配流赦免後もただちに全てが無罪放免になったのではなかったようだ。京都に戻ろう
としても、都払いの処分は続いていた。関東に行こう。親鸞がそう思ったのは自然なこと
だったのかも知れない。僧籍を失って還俗したとしても、吉水時代の人脈が全て消えた訳ではな
いだろう。法然教団は源氏とのつながりがつよかった。熊谷直実の人脈が親鸞を関東に誘ったの
かも知れない。報恩寺のホームページでは、開基の性信房が親鸞を誘ったと書いてあった。性信
房とは、関東出身で吉水時代から親鸞に付き添い、後には横曽根門徒の代表になった親鸞の一番
弟子だ。性信房が親鸞を関東に誘ったという可能性は強いだろう。
 関東には、京都と違った雰囲気がある。関東には、比叡山延暦寺がない。東大寺も、唐招提寺
もない。受戒して僧になろうとしても、国分寺・国分尼寺などは、将門の乱以後、既に廃寺とな
っていただろう。本式に僧になろうと思う人は、奈良・京都に行く。そういう人は地元に戻って
こない。そんな環境の関東には、戒律の縛りのほとんどない多くの私度僧がいたと思われる。京
都・奈良と違い、関東ではそういう人も僧として受け入れていただろう。実際、一遍上人なども、
全国行脚には妻を連れて回っている。僧としての社会事業を関東で本気でやろうとすれば、単身
者よりも妻帯者で夫婦力を合わせた方がやりやすかったろう。親鸞は妻を連れて関東に行き、そ
こでは僧として処遇されている。

54:神も仏も名無しさん
07/07/25 21:58:07 wo09RIKm
親鸞の人間観について教えてもらえないでしょうか?

55:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/07/26 00:25:00 1wT1Aokg
>>54
> 親鸞の人間観について教えてもらえないでしょうか?

 話がもう少し具体的になりませんか。
 人間観と言えば、余りにも広すぎる。
 「親鸞の」と言われても、僕は親鸞じゃない。僕の人間観なら言えそうだ
けど、他人に成り代わって代弁するなどという離れ業はできない相談だ。

 貴方が聞きたいところがどこにあるのか、どうもよく分からない。

 親鸞の人間観について教えてもらいたいと思ったきっかけでもいい。もう
すこし書いて欲しい。

56:神も仏も名無しさん
07/07/26 11:06:31 gUT1no6T
授業で習ったのですが、親鸞という人物に興味を持ちまして…

親鸞の人間に対する考え方を知りたいのです

57:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/07/26 19:55:19 1wT1Aokg
>>56
> 授業で習ったのですが、親鸞という人物に興味を持ちまして…
> 親鸞の人間に対する考え方を知りたいのです

 貴方は、中学生か高校生でしょうか。授業というのは、日本史?あるいは倫理・社会?。その
辺で親鸞の名に触れたのでしょうかね。
 親鸞の人間観というテーマに合っているかどうか分からないけど、恐らく学校の授業では教わ
ることのない親鸞の重要な考えを紹介しようと思う。悪人正機説で凝り固まっているような人は、
目を覆いたくなるような考えだと思う。でも、非常に常識にかなった親鸞の重要な合理的な考え
だから、若い人には知識として知っておいて貰いたいと思う。
 親鸞の考えには、自然法爾とか、信心正因とか、悪人正機とか、名前の付いた思想がたくさん
ある。でも、十代、二十代の若い人で、これから親鸞を勉強しようと言う人には、入口としてこ
れから紹介する考えを原点にすることを勧めたい。ここには極めて常識的なことを書いてある。
親鸞の教えというのは、まるで常識を否定する思想のような誤解があるようだ。親鸞の思想は、
常識を忘れて読んではいけないということを知って貰うために、紹介しておきたい。

58:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/07/26 19:56:02 1wT1Aokg
 先に、経過を紹介する。
 親鸞は、29歳で京都吉水にあった法然の門を叩き、35歳の時、政府の弾圧を受けて法然と
共に流罪、親鸞は39歳で赦免となるが、都払いは続いていて京都に戻れず、茨城の笠間地方に
居住したようだ。ここで社会教育者として約二十年間、多くの人々に念仏行を教え、多くのお弟
子さんを育てた。俗に二四輩といわれるけど、この二四人の代表的高弟の外、当時、数千人の人
がいたんじゃないかと僕は想像する。

 流罪後、法然も数年で赦免になり、法然は京都に戻るが、その直後に入寂。京都の法然一門は、
法然の高弟達が指導者になったようだ。しかしやがて、法然一門は二回目の大弾圧を受ける。法
然の墓は暴徒に荒らされ、高弟の隆寛律師は流罪となる。京都教団の立て直しは自分の責任だと
思ったのだろう、親鸞は混乱の京都に戻る決心をした。関東での事業については、このとき既に
高弟の性信、真仏など、安心できる高弟達が育っており、彼らに任せることにした。性信は京都
吉水時代から親鸞について回っていた最古参の弟子だ。性信は親鸞より十五歳若い。性信には、
直筆の教行信証を渡した(坂東本)。

59:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/07/26 20:01:29 1wT1Aokg
 隆寛の流罪は親鸞五五歳の時、親鸞が京都に戻ったのは、その五年後、僕は六〇歳の時だろう
と思う。この期間は、機会を待っていたのかも知れないかも知れない。長旅が可能な、遅すぎる
位のぎりぎりの年齢だったと思う。この時代、道元53歳、日蓮60歳、栄西74歳、頼朝52
歳で死んでいる。親鸞も、明日死んでもおかしくない年だった。

 親鸞八〇歳の過ぎ、巨大化した関東一門の中で様々な異説が出、性信らの手に負えない状況
が出現した。このころ、性信は六五歳、京都には関東からたびたび手紙送られ、直接お弟子さん
も上京してくる。歎異抄第二章は、そのころのことを題材にしている。

 親鸞は、もう関東に戻れない。そこで善鸞という人を自分の代理として関東に送ったようだ。
善鸞は親鸞の子だ。親鸞が善鸞を送り込んだことは、火に油を注ぐ結果になった。善鸞は奇想天
外の説を立て、関東の教団はさらに混迷していく。

 このころの手紙の一つを紹介する。   (続く)

60:神も仏も名無しさん
07/07/27 22:04:53 yKkeJnwv
>>51-53
なるほど。興味深いです。


61:神も仏も名無しさん
07/07/28 22:17:24 Q1b5h6w8
質問です
全ての人の命は同じだというけれど、
命の軽重さは世間にあふれています。

例えば、豚く人

この場合、仏教ではどのように説明するのですか??


62:南無大師遍照金剛
07/07/28 22:36:09 unD8zcfR
>>61
質問です
全ての人の命は同じだというけれど、
命の軽重さは世間にあふれています。

例えば、豚く人


(°∀°)そうなの?
何故そう思うの?
思い込みじゃね?
ペットの豚さんより
他人の命の方がカスだと思う権力者もいるんじゃね?
昔お犬様の時代も有ったし

63:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/07/29 00:48:11 iZOt7ilA
>>59 訂正

誤 親鸞八〇歳の過ぎ、巨大化した ~ さらに混迷していく。


 親鸞が去ると、数年後、関東教団に青天の霹靂のような事件が起きる。鎌倉幕府が念仏禁止
令を出したのだ。
 どうやら、善証坊という人物が問題の発端らしい。善証坊は親鸞もよく知っていた人物で、親
鸞の教団に出入りしていた。善証坊が鹿島・行方地方の人々との間で一悶着起こし、鎌倉幕府に
訴えがあった。その結果、鎌倉幕府は念仏禁止令を出した。
 このとき、教団責任者の性信が奔走し、結果的には事なきを得た。そのことは親鸞にも報告が
行った。親鸞は京都から手紙を送ってきた。

64:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/07/29 00:48:46 iZOt7ilA
 なにごとよりは、聖教の教えをも知らず、また、浄土宗の真の底をも知らずして、不可思議の
放逸無慚の者共の中に、悪は思う様に振る舞うべしと、仰せられ候なるこそ、返す返す、あるべ
くも候わず。

 どんな理由があるにしても、聖教の教えをも知らず、浄土の教えの真意も知らないにも関わら
ず、非常識な自分勝手な人々に対し、「悪いことは自由にやっていいんですよ。他力ですからね。
他力本願、悪人正機です。悪人こそが阿弥陀様のお目当てです。悪は自由にやっていいんです。
悪しかできない。善はできない。罪悪深重煩悩熾盛の衆生をたすけんがためのご本願です。お助
けですよ。どんな悪をやってもいいんですよ。私たちはそんな宿業の存在ですからね。ああ、有
り難い。有り難い」。などと仰る方があれば、これは大変な間違いです。法・倫理・道徳は、正
しく守らなければなりません。

 北の郡に在りし、善証坊と言いし者に、遂に、合い睦るること無くて止みにしをば見みざりけ
るにや。

 思い返せば、私が関東に居たとき、北の郡に住んでいるあの善証坊と、私は、最後まで心を許
すことことがありませんでした。そのことはお気づきになりませんでしたか。

 凡夫なればとて、何ごとも思う様ならば、盗みをもし、人をも殺しなんどすべきかは。

 「人は所詮凡夫ですから。自由にやっていいんですよ。他力本願でみんな助けて下さる。私た
ちが凡夫であることは、阿弥陀様は十分に分かって本願をたてて下さっています。ですから何を
やってもいいんですよ」。

65:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/07/29 00:49:50 iZOt7ilA
 凡夫であれば何をやってもいいというなら、泥棒をしてもいいのか。人を殺してもいいのか。
そんなことは決してない。泥棒はいけない。人殺しはいけない。法・倫理・道徳は、正しく守っ
て行きたいものだ。

 本、盗み心あらん者も、極楽を願い、念仏申すほどのことになりなば、本僻うだる心も、思い
直してこそあるべきに、その徴もなからん人々に、悪苦しからずということ、努々あるべからず
候。

 本来、盗癖のある者でも、浄土の教えを聞き、極楽を願い、念仏を称えるようになれば、自然
に元々の歪んだ心を改心するようになってこそ当然だと思います。そんな様子の無い者に、「悪
人正機ですからね。他力ですから。罪悪深重でいいんです。お助けです。人は努力などできませ
んよ。努力はいりません。ありがたい。有り難い」などということは、決してあってはいけませ
ん。

 煩悩に狂わされて、思わざる外に、すまじき事をも振る舞い、言うまじき事をも言い、思うま
じきことをも、思うにてこそあれ。

 煩い、悩み苦しみ、外に選択の余地が無く、全く不本意ながら、してはいけないことを行い、
言ってはいけないことを言い、考えてはいけないことを考えてしまう。そういう場合は、やむを
得ないと思います。


66:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/07/29 01:07:42 iZOt7ilA
 障わらぬ事なればとて、人のためにも、腹黒く、すまじき事をもし、言うまじきことをもいわ
ば、煩悩に狂わされたる義にはあらで、わざと、すまじき事をもせば、返す返す、あるまじきこ
となり。

 大丈夫なんだ。全く関係ない。何をしてもいいんだ。こんなふうに思い、他人に対し、悪意をもって
悪事を行い、故意に言ってはならないことを言えば、これはもう煩悩の問題ではありません。煩
い、悩み、苦しみ、七転八倒して遂に外に選択の余地が無く、全く不本意ながら行うということ
と、故意に悪事を行うと言うこととは全く意味が違います。故意に、悪意をもって行うことは、
煩悩の問題ではないのです。これをもって、阿弥陀様がお救い下さるとか、悪人正機などと言え
ば、これはとんでもない間違いです。
 故意に悪いことをするということは、どんな場合でも許されることではありません。

 鹿島・行方の人々の、悪しからん事をば、言いも止どめ、その辺の人々の、殊に僻うだること
をば、制し給まわばこそ、この辺より出で来たる徴しにては候わめ。

 鹿島・行方の人々が、念仏者達の目に余る狼藉に不満を述べ、鎌倉政府に直訴したことは、念
仏者の特に間違ったことを正そうというそういう思いであったろうと思います。

 ただ、したからん事をばせよ、振る舞いなんども、心に任せよと言えると候らん、浅ましきこ
とに候。

 「したいことしなさい。行動も、自由気ままでいいんです。偽善はいけません。阿弥陀様のお
助け、悪人正機です。浅ましい我々を救おうというそういうご本願ですから、自由でいいんです
よ。自力はいけません。使命感・努力・正義感・克己心、みんな自力です。みんな捨てましょう。
さあ、お助けの阿弥陀様に救われましょう。御宗旨は浄土真宗ですからね」などと、もしも、こ
ういうことを言っているとしたら、これは真に情けない限りです。

67:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/07/29 01:08:24 iZOt7ilA
 この世の悪きを捨て、悪しきことをせざらんこそ、世を厭い、念仏申すことにては候に、年頃、
念仏をする人なんどの、人のために悪しき事をもし、また、言いもせんは、世を厭うしるしもな
し。

 浄土を求めるとは、正しいことを行うということです。世を厭うとは、悪はしないということ
です。厭離穢土、欣求浄土。穢れた現世を嫌い、極楽浄土を求めると言うことは、悪いことは何
をしてもいいということではない。その反対なんです。悪いことはしない。正しいことを実践す
る。これが厭離穢土、欣求浄土の心で念仏を称えると言うことなのです。
 最近、念仏を称えるという人の中には、これをはき違え、他人に対し平気で悪いことを行い、
悪い言動をするという人がいるようです。これは、穢れた現世を嫌い、浄らかな浄土を求めると
いうその思いが全く無い人のことです。

 されば、善導の御教えには、「悪を好まん人をば、敬いて、遠ざかれ」とこそ、至誠心の中に
は、教え置かせ在わしまして候え。

 そういえば、思い出すのが善導大師の教えです。悪事を行う人には尊敬の念を忘れずに、しか
も近づくなということです。これは、至誠心を教えている中の言葉でした。

 いつかは、我が心の悪きに任せて振る舞えとは候。

 いったいどこに、自由気ままに悪い心そのままに行動せよなどいう話があるでしょうか。そん
なことがあるわけありません。

68:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/07/29 01:09:49 iZOt7ilA
 大方は、経釈の文をも知らず、如来の御ことをも知らぬ身にて、ゆめゆめその沙汰あるべ
くも候わず。

 推測すれば、経典や解釈書の文章も知らず、如来のことも全く知らない人でありましょう。間
違ってもそのような振る舞いがあってはいけません。

 また、往生は、何事も何事も、凡夫の計らいならず、如来の御誓いに、任せまいらせたればこ
そ、他力にては候。

 また、極楽浄土への往生については、凡夫の自由になる問題ではありません。これは、如来の
誓いによるものであり、如来の誓いによるものである以上、如来に完全に委ねるほかありません。
それが他力ということです。

 様様に計らい合うて候らん、可笑しく候。あなかしこ、あなかしこ。

 往生について、ああでもない、こうでもないといろいろご心配なさっているようです。笑いた
くなってくる感じが致します。あなかしこ。

十一月廿四日 親鸞

69:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/07/29 08:31:26 iZOt7ilA
<続く>
 なお、カキコは2,3日後。  多忙

70:神も仏も名無しさん
07/07/30 06:29:08 UPM4NELw
西村眞悟 無罪論ってなんですか?

71:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/07/31 11:24:22 aoIfbV5K
 親鸞の手紙を読んで分かる親鸞の人間観を考えよう。四つの原理に注目したい。

1 善証坊と言いし者に、遂に、合い睦るること無くて止みにし

 心をゆるすことができない人物が親鸞にもいた。親鸞は機械的平等主義を実践する人ではなかっ
た。
 仏の慈悲に差別はない。人は全て平等であり、差別があってはいけない。こういう考えを、もし
硬直的に持っている人がいれば、この言葉は参考になるだろう。

2 放逸無慚の者共の中に、悪は思う様に振る舞うべしと、仰せられ候なるこそ、返す返す、ある
べくも候わず。

 自分勝手な行動を取る者には、言っていいことと、言って悪いことがある。悪人正機というのは、
自分勝手な行動を取る者に説いている話ではない。法は、常に、相手の器に合わせて語られなけれ
ばならない。

72:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/07/31 11:25:42 aoIfbV5K
3 煩悩に狂わされたる義にはあらで、わざと、すまじき事をもせば、返す返す、あるまじきこと
なり。 

 煩悩に翻弄されると言うことは、故意に冒す場合を含まない。故意に悪行を行った場合、それは
わざと行ったのであり、煩悩に翻弄されて行ったのではない。

 凡夫は煩悩の深い存在であると言うことは、行動にあたって自由な選択幅の少ない存在である
と言うことである。ここでは、過失と緊急避難と正当防衛という概念を考えるべきだろう。

 a 煩悩とは過失である。
 どんな場合でも、人は常に過失を犯す危険性を孕んでいる。過失とは、幾重にも注意を払った上
で、なおかつ誤った判断をする心理現象である。
 注意義務を怠たり、防止できる危険を防止しなかったほとんど怠惰な故意に近いような心理現象
は、親鸞が言う煩悩には含まれない。それは自己責任である。

 b 緊急避難・正当防衛である。
 やってはいけないことは認識しながら、外に選択の余地なく害悪を引き起こすことがある。
 注意義務を怠たり、防止できることを防止しなかったほとんど故意に近いような事象は、煩悩に
含まない。それは自己責任である。

73:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/07/31 11:26:43 aoIfbV5K
 自制すれば防止できる害悪事象を、自制を放棄して引き起こすことがあれば、それは煩悩の問題
ではない。宿業の問題でもない。それは自制の問題である。
 常識で考えれば当然行うべき事、使命感・責任感・倫理観・克己心・向上心、こうした人として
当然の精神を放棄して不幸な結果をもたらした場合、これは煩悩の問題ではない。罪悪深重・煩悩
熾盛の衆生を助けんがための仏の本願とは、全く関係がない。これは宗教の問題ではないのだ。
 親鸞が煩悩に関わる宗教の問題として扱うのは、過失・緊急避難・正当防衛の問題である。親鸞
仏教の根本原理として認識しておきたい。

4 この世の悪きを捨て、悪しきことをせざらんこそ、世を厭い、念仏申すことにては候

 厭離穢土、欣求浄土。穢れた現世を嫌い、極楽浄土を求めよう。
 厭離穢土、欣求浄土とは悪いことはしないということである。正しいことを行うということであ
る。
 使命感・責任感・倫理観・克己心・向上心をもって正しいことを実践する。もしこれと異なれば、
それは厭離穢土、欣求浄土ではない。
   
5 往生は、何事も何事も、凡夫の計らいならず

 極楽浄土に往生できるだろうか、できないだろうか。そんなことは人が考える問題ではない。

74:神も仏も名無しさん
07/07/31 12:59:58 GFzgZ0aQ
やはり親鸞聖人は菩提心という点にかなりこだわったんですね

明恵上人からの批判に理論的に反論し、本願念仏こそ末世の真の仏法なり、
と証する課題を負った聖人であったがゆえに

75:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/07/31 23:38:33 aoIfbV5K
>>74
  誤解があるようです。数日したら書きます。

76:神も仏も名無しさん
07/08/01 00:19:19 3lv6FIBI
真宗大谷派門徒です、そう父の死後過去帳に書いて頂きました。従前から御論拝読し
親鸞聖人の真の思想、教えを自分なりに摂取出来、有り難く思っております。ときに、お尋ねしたいのは
私が今生業としています「知的障害者」についてです。彼らにとっての浄土とはどのように考えるのが
良いのでしょうか。

77:失礼する
07/08/01 21:40:59 u2GXw6GP
残念ながら浄土には縁がないでしょう、だが彼らの為に変わって祈ってあげたいですね。そういう気持ちが仏縁を繋げる事につながって行くように思われます。

78:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/08/02 00:30:21 HI2TQgYG
>>73
 倫理・道徳の問題は、浄土真宗では簡単ではない。歎異抄には、親鸞の手紙とは全く違ったこ
とが書いてあるからだ。二つの矛盾をきちんと説明しないと、浄土真宗では倫理・道徳の問題を
明らかにしたことにはならない。

 問題提起をしよう。

 弥陀の本願不思議におわしませばとて、悪を恐れざるは、また、本願ぼこりとて、往生叶うべ
からずということ。この条、本願を疑う、善悪の宿業を心得ざるなり。

 阿弥陀仏の救いがあるからと言って、平気で悪行を行なえば、これは本願誇りという。本願誇
りは往生できないという考えがある。これは、阿弥陀仏の本願というものを疑っているのであり、
善悪の宿業を心得ていない証拠である。

良き心の起こるも、宿善の催すゆえなり。悪事の思われせらるるも、悪業の計らうゆえなり。

正しい心が起きるのも、これは過去に行った善の賜である。悪い心が起こるのは、悪い定めが
作用している結果である。

故聖人の仰せには、「卯毛羊毛の先にいる塵ばかりも作るつみの、宿業にあらずということな
しと知るべし」とそうらいき。

親鸞聖人は言っていた。兎の毛、羊の毛の先に付いている埃ほどのわずかな罪も、過去からの
結果でないものはない。全て過去からの結果であって、人の自由によるものではない。そのよう
に言っていた。

79:神も仏も名無しさん
07/08/03 20:16:36 aVhXvTb4
菩提心云々よりも、諸行往生を明確に否定するところに
教行信証の眼目があるのではないか。真門より入り真如門へ。
これが親鸞の専修念仏であろう。


80:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/08/04 00:12:13 yAyGcs7e
 歎異抄は悪行肯定論であり、消息は悪行否定論である。これをどう考えるか。浄土真宗教学に
とっては非常に重大な問題だ。消息を読んでみよう。

 なにごとよりは、聖教の教えをも知らず、また、浄土宗の真の底をも知らずして、不可思議の
放逸無慚の者共の中に、悪は思う様に振る舞うべしと、仰せられ候なるこそ、返す返す、あるべ
くも候わず。  ~  その徴もなからん人々に、悪苦しからずということ、努々あるべからず
候。

 親鸞は、消息の中で、聖教の教えの中に悪行肯定論があることを認めている。悪行肯定論につ
いて親鸞は原則を明記している。

1 「浄土宗の真の底を知らず」に言ってはいけない。
2  不可思議の放逸無慚の者共の中に、悪は思う様に振る舞うべしという話をしてはいけない。
3 歪んだ心が直っていく兆しの無い者に言ってはいけない。

 つまり、宿業論、悪行肯定論は特別な場合にだけ主張されるものなのだ。まず原則は悪行否定
論である。

 悪行が肯定される場合はどういう場合なのか。親鸞の真意は教行信証から拾うのが原則である。

81:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/08/04 00:14:59 yAyGcs7e
 もし汝父を殺して当に罪あるべくは、我等諸仏また罪ましますべし。もし諸仏世尊、罪を得た
まうことなくは、汝独り云何ぞ罪を得んや。(阿闍世 段)

 父を殺し、母を牢に幽閉した阿闍世が、慚愧に堪えかねて病となる。釈迦はその阿闍世に向か
って言う。
 阿闍世よ、貴方には罪はない。もし、父王の死に対し阿闍世に罪があれば、現代のこの国の様
々なリーダー達、釈迦を含めて皆、殺人に罪があることになる。殺人について、もし、リーダー
達に罪がないということならば、どうして阿闍世に罪があると言えるだろうか。父王の死に対し、
現代のリーダー達には罪がない以上、阿闍世よ、貴方には罪はない。
 釈迦はそのように言う。

 大王、たとえば涅槃は非有・非無にしてまたこれ有なるがごとし。

 大王よ。永遠の真理は、非有である。つまりそんなものは存在しないのだ。しかし、同時に非
無である。つまり無ではない。つまり存在すると言うことなのだ。

 殺もまたかくのごとし。非有・非無にしてまたこれ有なりといえども、

 殺すということもそういうことだ。殺すことは悪であるという真理、そんなものは存在しない。
つまり殺すことは悪いことではない。しかし、またそんなものは存在しないというわけではない。
つまり、殺すことは悪であるという真理は存在する。

82:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/08/04 00:16:35 yAyGcs7e
 慙愧の人はすなわちすなわち非有とす。無慙愧の人はすなわち非無とす。

 だいじなことがある。それは慙愧している人には、非有という。つまり人を殺したことを、天
に恥じ、地に恥じ、自分は大変なことをやってしまった。二度と繰り返すまい。そのように悔い
ている者には、殺すことは悪であるという真理は存在しない。殺人を責められることはない。
 しかし、人を殺しても慙愧しない者には「殺すことは悪であるという真理」は存在する。その
ものには、物事の道理を正しく教えなければならない。

 果報を受くる者、これを名づけて「有」とす。空見の人は、すなわち「非有」とす。

 悪行を行って慙愧の無い者。これは必ずやその報いを受けるだろう。こういう者には殺すこと
は悪であるという真理が存在する。つまり責めを負わなければならない。空見の者、見つまり間
違った見解が空の者、つまり正しい考えを持っている人には、殺すことは悪であるという真理は
存在しない。つまり、責めを負うことはない。

 有見の人は、すなわち「非無」とす。有有見の者は、また名づけて「有」とす。

 間違った見解を持っている人には、非無つまり殺すことは悪である。

 何をもってのゆえに、有有見の者は果報を得るがゆえに、無有見の者はすなわち果報なし。

 間違った見解を持っている者は、間違った見解を持っている報いを受ける。間違った見解を持
っていない者は、悪の報いを受けることがない。

83:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/08/04 00:18:07 yAyGcs7e
 また下品下生の中に、五逆を取りて謗法を除くことは、それ五逆は已に作れり、捨てて流転せ
しむべからず、還りて大悲を発して摂取して往生せしむ。しかるに謗法の罪は未だ為らざれば、
また止めて「もし謗法を起こさばすなわち生まるることを得じ」と言う。これは未造業について
解するなり。もし造らば還りて摂して生を得しめん。 (抑止門)

 大無量寿経では、五逆の者も誹謗正法の者も、極楽に入れないと書いてある。しかし、観無量
寿経で下品下生段を読むと、五逆の者は極楽浄土に行くと書いてある。誹謗正法の者については
触れてない。これはどういうことか。誹謗正法の者は、絶対に極楽浄土に行けないのか。
 そうではない。観無量寿経の下品下生段の悪人は例示である。それは、たまたま五逆の罪を冒
したが、まだ謗法の罪は冒してない者を例示している。この者はまだ、謗法の罪は冒してないか
ら、謗法の罪を冒さないようにするするために、「謗法をすれば極楽に往生できないぞ」と説く。
 かりに、謗法の罪も冒してしまえばどうなるか。「やはりこの者も極楽浄土に往生する」。

 親鸞の主張は極めて明確である。
 悪を冒してない者には、悪をおかしてはいけないと教える。
 悪を冒してしまった者は二つに分ける。慚愧している者はゆるされる。慚愧の無い者はゆるさ
ない。

 歎異抄の宿業論は、まさにこうした論理を背景にして読まなければ、とんでもない間違いを冒
すだろう。悪人正機も同じである。「浄土宗の真の底を知らず」に軽々に論じてはいけない。

84:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/08/04 00:20:01 yAyGcs7e
>>76

後日コメントさせてもらいます。

85:神も仏も名無しさん
07/08/04 01:02:21 zE52Vy9G
     ____  
   /      \
  /  ─    ─\ 
/    (●)  (●) \ よく考えたらこのスレいらないな
|       (__人__)    |  
/     ∩ノ ⊃  /
(  \ / _ノ |  |
.\ “  /__|  |  
  \ /___ /

86:神も仏も名無しさん
07/08/04 14:39:17 FdeKNQpo
>>41
「称名念仏に励めよ」は法然上人、親鸞聖人に共通する教えですね。
教行証から教行信証へ。行から生まれる信とはどんなものかというのを、
法然上人に代わって、きっちり跡付けたのが親鸞聖人だと思います。

87:神も仏も名無しさん
07/08/04 19:35:49 yAyGcs7e
>>85
 しばらく前に比べたら、アラシが極端に少なくなったね。以前はすごかった。
アラシが減ると言うことは、当方としては歓迎なんだが、教団の中で通達で
も出たのかい?。


88:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/08/06 10:22:01 CyFkHlSB
>>54
 何か感じるものをもっていただけましたか?。


>>74
> やはり親鸞聖人は菩提心という点にかなりこだわったんですね

しかるに菩提心について二種あり。一つには竪、二つには横なり。また竪について、また二種
あり。一つには竪超、二つには竪出なり。「竪超」・「竪出」は権実・顕密・大小の教に明かせ
り。歴劫迂回の菩提心、自力の金剛心、菩薩の大心なり。また横について、また二種あり。一つ
には横超、二つには横出なり。「横出」は、正雑・定散・他力の中の自力の菩提心なり。「横
超」は、これすなわち願力回向の信楽、これを「願作仏心」と曰う。

 横超     願力回向の信楽
横出     正雑・定散・他力の中の自力の菩提心
竪超・竪出  権実・顕密・大小の教

 親鸞は菩提心をこのように分けています。明恵上人の主張する菩提心はどこに当たるのか、親
鸞の教行信証では必ずしも明確ではないけど、多分、横出に当たるんだろう。少なくとも横超の
菩提心ではない。つまり、明恵上人が言う菩提心こそが真の菩提心であると言えば、親鸞はそれ
と別概念に対し菩提心という名称を付与し、真の菩提心は必要がないというのが親鸞の考えです。


89:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/08/06 10:23:59 CyFkHlSB
 明恵上人が言う菩提心は、浄土真宗には必要がない。つまり、菩提心は必要がない。浄土真宗
では、称名念仏によって覚(おし)えざれども自然に真如の門に転入する。信楽が願力によって
回向されてくる。親鸞はそういう立場に立ちます。

 菩提心とは何か。
 もし諸仏の為に護念せらるれば、すなわちよく菩提心を発起す。もしよく菩提心を発起すれば、
すなわちよく仏の功徳を勤修せしむ。

 「仏の功徳を勤修せしむ」とある。「せしむ」は親鸞の常套的な言い換えと考えれば、本来の
菩提心、つまり明恵上人流の従来の菩提心とは「仏の功徳を勤修しよう」という心でしょう。

 この無上菩提心は、すなわちこれ願作仏心なり。願作仏心は、すなわちこれ度衆生心なり。度
衆生心は、すなわちこれ衆生を摂取して有仏の国土に生ぜしむる心なり。

 「度衆生心」つまり、多くの人々に、正しく真理を認識する認識観を公開する。真実を正しく
認識する認識界に到達させよう。人々を正しく教え、育てよう。そう言う心、これが明恵上人流
の従来の菩提心と考える。

 度衆生心すなわちこれ衆生を摂取して安楽浄土に生ぜしむる心なり。この心すなわちこれ大菩
提心なり。

 「安楽浄土に生ぜしむる心」とある。「せしむ」は親鸞の常套的な言い換えと考えれば、本来
の菩提心、つまり明恵上人流の従来の菩提心とは、安楽浄土つまり、哲人達が抱いている精神界
・認識界と同一・共通の認識界に生まれ変わっていこうという心を言う。

90:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/08/06 10:26:48 CyFkHlSB
 明恵上人流の従来の菩提心は必要がないとはどういうことか。駅前のラーメン屋さん、表通り
の建築現場でダンプカーの往来の監視をしている警備員さんには、「度衆生心」は必要がない。
多くの人々に、正しく真理を認識する認識観を公開し、真実を正しく認識する認識界に到達させ
よう、そういう心は全く必要がないと言うことを言っています。

 十年後には東京の新宿にラーメン屋の支店を作ろう。そう思って日々、自転車でラーメンの配
達をしている鹿児島のラーメン屋さんには、法を守り、倫理を守り、道徳を守ることが必要です。
法を破れば、十年後どころか、明日の営業もできなくなるでしょう。商道徳を破り、肉まんに段
ボールの破片を入れれば、客は直ちに来なくる。仁・義・礼・智・信を守れ(蓮如上人)という
ことは、鹿児島のラーメン屋さんにとっても、北海道のラーメン屋さんにとっても、とても大事
なことだ。
 しかし、ラーメンの配達には菩提心は必要がない。菩提心をもってラーメンを配達されても、
客は喜ばない。「あのラーメン屋さんは、菩提心をもってラーメンを配達してきたよ」と言われ
れば、「あいつは頭がおかしいんじゃないか」という皮肉を込めた誉め言葉の裏返しとなる。ラ
ーメン屋さんに菩提心は全く必要ない。ダンプカーの往来の監視をしている警備員さんにも菩提
心は全く必要ない。

 顧客に対する思いやり。使命感・責任感・向上心・克己心、こういう心は必要だ。特に、鹿児
島から東京に支店を出そうと思えば、人一倍頑張らないといけない。しかし、どう転んでも、菩
提心は全く必要がない。絶対に絶対に必要がない。総持寺であるいは永平寺で座禅の研鑽に励も
うという人には菩提心が必要だ。円覚寺、建長寺で座禅の研鑽に励もうとすれば、菩提心がなけ
れば一日にも過ごせない。延暦寺で千日回峰行をしようと思えば、菩提心は絶対に必要だ。しか
し、念仏宗のラーメンさんにそんなものは全く必要がない。

91:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
07/08/06 10:32:44 CyFkHlSB
 東京に支店を出すのが十年後であれば、その間に何があるかわからん。人生は山もあれば谷も
ある。上り坂もあれば、下り坂もあるだろう。進退窮まるときもある。そんなときはどうするの
か。
 相談相手があれば、その人に相談に行く。図書館に調べに行くのもいいだろう。鹿児島の市役
所に相談に行くのもいい。東京新宿の区役所に相談窓口があれば、そこに行くのもいいだろう。
しかし、いつもそれが可能とは限らない。
 調べる方法がない。相談相手がいない。万事休すとなったらどうするの。出店を諦めるのもい
いが、諦めるまえに一つやってみることがある。座禅を組み、呼吸に合わせ、南無阿弥陀仏・南
無阿弥陀仏と称えてごらん。多くの先人達がこの方法で窮地を切り抜けてきた。日本海の荒海を、
命がけで中国に教わりに行ったのも、この方法を教わるためだ。やってみるがいい。きっと何か
が見つかるだろう。

 安楽浄土つまり、哲人達が抱いている精神界・認識界と同一・共通の認識界に生まれ変わって
いこうなどと、ラーメン屋さんがそんな思いを持つ必要は全くないんだ。ラーメン屋さんは、東
京で支店を持とうと思えばいいんであって、仏様になろうなどと思う必要はない。だから、仏の
功徳を勤修しようなどと、そんな大それたことを考える必要はない。全く必要がない。もっとも
っと楽な気持ちで南無阿弥陀仏を称えてみるがいい。親鸞はそう教えてくれている。
 やってみればおもしろさが分かってくる(信楽回向)。おもしろさが分かれば、自ずからやっ
てみたくなる。そんな思いで、気楽にやってみればいい。
 ラーメン屋さんが念仏を称えても、全人類の救済にはならん。しかし、進退窮まった自分の足
下くらいは少し明るくなるだろう。

92:神も仏も名無しさん
07/08/06 12:34:56 5z8aLxZf
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      、、::|、、、ヽ,、、.    ```: : : ```      、.、'`  .|丶、
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    ,、':゙l:、、`:ヽ、`:、  : `"```¬―'''"`゙^`     : ..、丶  .l゙ `ヽ
   ,i´.、ヽ".、".、"'ヽヽ;,:、........、           、、...,,,、-‘`   、‐   |゙゙:‐,
  ,.-l,i´.、".`ヽ,,,.".`   `゙゙'"`'-ー"``"``r-ー`'":      _.‐′  丿  ,!
 j".、'ヽ,".、".、"`''`ー、._、、、    >>1     、._,、..-‐:'''′   .、,:"  丿
 ゙l,"`"`''ヽヽ"`"`  ```゙'''"ヽ∠、、、、ぃ-`''''": `      、._./`  ._/`
  `'i`ヽヽヽ`''ーi、、、: :                   、.,-‐'`   、/`
   ``ヽン'`"`  : `~``―ヽ::,,,,,,,,,,.....................,,,,.ー'``^    ,、‐'"`
      `"'゙―-、,,,,..、、                 : ..,、ー'"'`
           : `‘"`―---------‐ヽ``"''''''""``
渡海

93:神も仏も名無しさん
07/08/06 12:35:55 5z8aLxZf
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 j".、'ヽ,".、".、"`''`ー、._、、、    >>1     、._,、..-‐:'''′   .、,:"  丿
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   氏ね

94:神も仏も名無しさん
07/08/06 12:36:38 5z8aLxZf
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           : `‘"`―---------‐ヽ``"''''''""``
      糞が

95:神も仏も名無しさん
07/08/06 12:43:08 5z8aLxZf
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  `'i`ヽヽヽ`''ーi、、、: :                   、.,-‐'`   、/`
   ``ヽン'`"`  : `~``―ヽ::,,,,,,,,,,.....................,,,,.ー'``^    ,、‐'"`
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           : `‘"`―---------‐ヽ``"''''''""``
      カルトアンチのくせに


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