07/06/29 05:42:20 3/d0kVhf
このからだを理解するためには(ヨハネ17・21~23)の理解が必要。
この箇所が理解できることによって、上記の2がキリストの意向であることがわかる。
神が、私たち人類一致のモデルであって、父と子と聖霊の三位が一体であるように、人類が一つになるという教えは、
キリスト教独特のメッセージ。
そして(ヨハネ15・1~8)の理解が必要。
このような三つの関係を持つ神と人々との交わりが、神も人類も望んでいる平和の社会をつくるのであり、、
「新しき人」(キリスト者)はそれを意識し、それを目指しその使命感を持って生きる。
これら多数の者が一つの目的の為に互いに交流しながら生きているものを、共同体というが、
この三つの要素が欠けても共同体はいえない。ぶどうの木にたとえられる神と人々が造る体は共同体。
キリストの教えはキリストにつながることは、同時にキリストにつながる他の人々と、密接に縁を結んでしまうということ。
この考えを、パウロはコリント人への手紙の中で人間の体のように表現している。(コリント前12・12~27)
キリストのぶどうの木のたとえをパウロは「キリストの体」としてわかりやすくたとえた。
このぶどうの木、キリストの体に属するものは「新しい人」であり、目標はすべての人を含む共同体。
キリスト者は人類の歴史の中で、全人類が神を唯一の親として持つ兄弟として、
キリストとの器官となって完成する週末を目指しながら歩いていく旅人。現在キリストの体を造っているが、
自分自身の為にあるのではなく、この共同体は全人類の為にあり、又そこまで成長させ、拡大させていかなければならない。
このような神の国を建設する「キリストの体」が目に見える形で実現されなければならないのが教会でしょう。
いいかえれば教会の使命はそこにある。
現実の「教会」がすなわち「キリストの体」。