08/03/07 16:14:43 1uY6F+v2
>>663
もちろん、プロをどう捉えるかによって違うけど
通念的なプロというのは単に金を貰う存在ではなく、
「無関係の人間、世間(観客・視聴者)に開かれた存在」と定義すべきであろう。
賞金稼ぎ(例:パチプロ)、レッスンプロ、などをわざわざ言い分けるところから考えても。
結論から先に言うと、サッカーの高い引き分け率保持からは、
一種の政治商売、賭け商売としての側面が強すぎることが読み取れる。
状況的な説明として、勝ち負けをよりボカすことは
・教育上「勝ち負けより大事なものがある」といった成長上必要な思想を裏打ちできる
・賭式上「出目を2択ではなく3択に増やせる(→オッズを作成しなくて良い)」
・政治上「日頃飢えている平等感を与える」ことができる(国家間、地方間格差)
など、それぞれの外部的な価値観からきわめて好都合。
一方プロ興業としてはどうか、というといずれ結末を付けねばならないため
・試合数が増えまくる
という明確な不都合がある。
ここで重要なのは(開かれた)プロは「移り気で忙しい世間・時代」を相手にしているのに対し、
教育、賭け、政治(地域)というのは「それらから離れられない」層を相手にしている、という対照性。
純粋なプロとしてなら、試合の数や試合の質を制御すべく
引き分けを減らす努力をするが(実はサッカーとて少しはやりたがってるはず)
上のような巨大な抵抗勢力がサッカー近辺には付着し、引き分け率の保持を望んで、
それに結局サッカー(というかFIFA)は応えてしまっている。
というより、そういうビジネスモデルとして肥大してきたのだ。
言い換えれば 純粋な娯楽として独立できてない。
それこそが「大きな政府」的運営の悪い面、遅れた面じゃないか?
「文化」は重要だよ。でも政治や賭けの道具として停滞してる部分を
文化の一言で思考停止し、覆い隠し、タブーの項目を増やすから、前時代的なんだよ。