07/11/12 08:20:47 5tm4aqz5
>>208
> 墓の傍らに立て置く釈迦像も、本尊とは言えなくなる。
というより、随身仏(大聖人が持ち歩いていた仏像をこう呼ぶ)は本尊の体をなしていない。
(釈尊他を)本尊とするならば、最低限脇士が必要。
なぜなら、三宝の法宝や仏宝(同じ釈尊でも、劣応身・勝応身・始成・久実などの違いがある)が違えば、脇士が替わる。
反対に脇士があれば、見る人が見ればどんな三宝であるかがわかるということ。
しかし、随身仏に関し脇士の記録は見当たらない。
大聖人が、そんな不完全なものを本尊とするかどうか、ちょっと考えればすぐわかる。
また、その仏像は本尊として脇士が不必要(当時ちょっと知識があれば、すぐその不自然さに気が付くはず)というなら、その理由を詳しく書き残すはずだ。
> 門家の者にとっては、釈迦像より日蓮大聖人の遺骨のほうが大事になる。
本尊と遺骨を比べても、次元が違うので意味はないと思うが。