07/08/17 02:00:19 gMGJdpKf
>>903
>マルコ1章 彼らは漁師であった。 1:17 イエスは彼らに言われた。
「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」
1:18 すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。
>天に宝を積むのには「喜捨」が重要であって、捨てたものがどう使われるかは重要ではない。
>>876の補足をしておきます。
新改訳聖書かどうかは知りません。聖句で検索してコピペしました。
キリストの教会には通っておりません。ただイエス様のみ言を糧として生きています。
マルコの福音書10章
21:イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。「あなたには、欠けたことが一つあります。
帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。
そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」
22:すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである。
イエス様は、貧しい人たちに与えることで「天に宝を積むことになる」と言われました。
しかし統一協会では献金することが「天に宝を積むことだ」と曲解して教えます。
食口(カイン)が献金するのは、自分の責任分担を果たしただけであり、
指導者(アベル)が善の為に使わなければ、天に宝を積んだとは言えません。
いくら日本食口が天に捧げる心情で120億円献金しても、郭定換が偽ファンドに騙されて、
120億円を“サタン世界”に献金したのでは、天に宝を積むことにはなりません。
URLリンク(simian.free100.tv)
いくら献金しても教祖と幹部の浪費、過分な人件費、借金の利息支払いに使われたら、天に宝を積むとは言えません。
それなら自分で直接、貧しい人や困っている人に与えて善を行い、天に宝を積んで下さい。