07/06/25 23:54:45 /oS6au4k
ローマ皇帝コンスタンチヌス1世(大帝、在位306年 - 337年)が311年にキリスト教寛容令、
313年に信仰公認令(ミラノの勅令)を出すと、キリスト教は帝国の最大宗教になります。
それまでも各地の教団指導者の間で教義の食い違いがありましたが、
信仰公認後にそれが対立として顕在化し、やがて正統派争い、権力闘争へと発展しました。
325年にコンスタンチヌス大帝によりニケーア公会議が開かれ、
アレキサンドリア司教アタナシウスが率いる三位一体論が正統とされ、
アンティオキアから赴任したアリウス司祭の主張するキリスト論は異端として退けられました。
この頃皇帝の命令で、国費を投じて教会の建設ラッシュが始まりました。
エルサレム聖墳墓教会は325年頃、イエス・キリストの磔刑の場所ゴルゴタに建てられました。
サン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂は聖パウロの墓の上に建てられました。
サン・ピエトロ大聖堂は330年頃に着工され、390年頃までに完成しました。
皇帝自身も335年に洗礼を受けますが、
教会の諸活動を支える経費をまかなう為、農地や工場や商店が教会に寄進されました。
当初は聖職者のみ無税でしたが、教会関係の商店なども税の優遇を受けるようになり、
ローマの重税から逃れる為、生活の為にキリスト教徒に改宗する者も多く現れ、
かつてのローマ神話の神々の裸像は次々に壊され始めました。
そして392年、キリスト教が国教になると他の宗教は認められなくなります。
以上の様に「ローマ帝国迫害時代四〇〇年」は、歴史の捏造で、事実とは違います。
「イスラエル民族のエジプト苦役時代の四〇〇年を、実体的な同時性として蕩減復帰」
するのには90年ほど足りません。