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親鸞思想は無戒の仏教なのだ。親鸞思想は、形式的には無戒という立場に立ち、実質的には現
実的に堅固に戒を守る。法然・証空は、形式的には有戒に立ち、実質的には大衆の破戒は広く抱
擁する。表向きで証空は親鸞を迎えただろう。親鸞は証空を補佐しただろう。表面的には極めて
和やかな雰囲気があったと思う。しかし、法然在世中とは異なり、思想的には互いに距離のある
関係ができていたと考える。
関東から命がけで帰京した親鸞は、恐らく証空以上にラジカルに念仏を説こうとしただろうし、
また証空に対しては一歩下がって人々に接していたに違いない。証空は、弾圧をしたたかにかい
くぐる穏健さがある。親鸞のように証空までがラジカルに念仏を説けば、また弾圧を受ける。親
鸞と証空とは考えの立場が異なる。証空ではなく、親鸞に共鳴する人々が一人二人と生まれてく
れば、自ずから親鸞と証空とは、傍目にも距離が見えてくるようになったろう。
証空は、宝治元年(1247年)に亡くなっている。当時親鸞は七五歳、関東とは頻繁に手紙
の往復を行っており、極めて壮健である。善鸞事件はまだ十年も先である。しかし、親鸞は、法
然・証空教団の後を継ぐことなく、むしろ関東に向けて盛んに著作活動を行っている。このころ
は証空・法然教団との実質的交流はもはや無くなっていただろう。
建長八年、恵信尼は親鸞に数人の下人を送っている。複雑な事情で生まれた子供達を預かって
育てるのも僧の仕事である。関東では親鸞も恵信尼もそのような児童社会福祉事業を行っていた。
京都に戻った親鸞は下人を受け入れても養っていけるだけの経済的余裕があったようだ。日野家
との関係が復活していたのか、あるいは親鸞を支持する念仏者集団が京都の中で生まれていたの
かも知れない。
「われはこれ賀古の教信沙弥の定なり」親鸞はそのようなことを言っていたようだ。教信沙弥
は、興福寺の僧で、還俗後、兵庫県加古川で川越人夫などをしていた人物だそうだ。京都の親鸞
も、そのような社会的事業をしながら半僧半俗の中で、旧法然教団とは距離のある独自の念仏道
を人々に説いていたと思われる。