07/03/24 12:35:57 +q+A7t3v
平家物語の「一行流罪事」 参照>>105
九曜曼荼羅感得の霊験談としてわが国ではかなり有名な話のようである。
「傳へ聞く、かの一行の果羅の旅、かの一行の果羅の旅、闇穴道の巷にも、九曜の曼荼羅の
光明、赫奕として行く末を、照らし給ひけるとかや」(謡曲『弱法師』)
「凡そ流罪は賢聖の常例なり。所謂、竺の道生は蘇山に流され、法道は江南に遷され、
一行禅師は菓羅国に放たる」(堅樹日寛『安国論愚記』)
しかし一行(大慧禅師)は唐代の天文学者でもあり、唐玄宗より「大衍暦」の編纂を命ぜられ、
『開元大衍暦』52巻を完成した年に示寂しているから史実であり得ない。
創作小説などに出所があるのかとおもったが、やはり中国文献には何もないようである。
結論は
「一行の事は、高僧伝に見えたり、張公謹の孫にて、唐の開元十五年に寂せり。年四十五、
但、こゝに載せたる事は徴拠なし。蓋、作者の明雲を以て、一行に比して説を為せるものにて、
例の妄誕ならん」今泉定助述『平家物語講義』(明治33年)
*明雲 天台座主明雲大僧正、一時、伊豆に配流になった。