07/02/13 20:29:22 aYaxqqXq
釈尊はこのような生存状態の人間は永続せず、霊への肉欲も持たない。
たとえ神々が存在しようが、身体なき無意識の状態は平安と安らぎにより清浄である。
科学が人のためになるとしても、人を不幸に安穏を奪い安楽にさせないという心得はなく、
その時点で既に人を幸福に安穏な暮らしにしようという心理が働いている。
オウム事件でも、宗教的な理想のためと愚かに考えたのだろうが、
世間の人々が平安を思い、他人の安穏・安楽を奪ったことを厭い非難した。
それが無意識に働いた清浄な信仰の姿である。
マラソンで優勝した人が「自分は勝れた肉体でまた努力で優勝した」と現実を言うよりも、
身体のない世界のように自分を謙遜し「みなさまの応援のおかげで優勝できた」と言ったほうが印象がいいだろう。
他人と平穏な暮らしのため、敵意がないことを示すため挨拶をする。
多少嫌な奴だと思っても挨拶をすることで平穏を願う。
自分の考えが正しいと言い張るよりも、思考も無い世界を清浄として、相手の考えや意向を尊重すれば、
協調性があると受け入れられ、相手のために知識などで助ければ、更に役立つ人間とされる場合は多い。
過去から未来まで母が子を生み、母は分身である子を護る。人が物をつくり生活環境を変えてゆくのであり、
人は今ある状況か、人があらゆる想像したものを失い、つくられたものへの信仰、
つくられた教義も失う。
しかし、平安と安らぎは永続するものであり、
この世で一切の生きとし生けるものの幸福と安穏と安楽、慈しみのこころづかい、
を信仰の理想とする人は誤った見解を持たず、物ごとを正しく見る働きを備える。