07/02/14 09:18:00 o7Ls6zyH
十分の一制度は旧約時代の律法のひとつであり、レビ記27章30節に出てきます。そこには、
「土地から取れる収穫物の十分の一は、穀物であれ、果実であれ、主のものである。それは聖なる
もので主に属す。」とあります。
この記述からも分かるように、当時はまだ貨幣は使用されておらず、これは現在のような貨幣経済
時代の話ではないのです。「什一献金」なる奇怪な用語は聖書のどこにも出てきません。
また、什一献金の話になると決まって持ち出されるのがマラキ書3章8~10節です。
しかし、なぜいきなりこのマラキ書なのでしょうか?
「十分の一」を教えるのであれば、まずその根拠とされるレビ記27章30節を教えるべきではありま
せんか?
なぜなら、マラキ書3章は、レビ記の律法が前提となって、それを完全に守っていないイスラエルの
民に対する神の怒りという構成なのですから、そのレビ記をいきなり持ち出すというのは、牧師が
はなから信徒を疑い、信徒を盗っ人扱いしているに等しいのです。
そして、レビ記27章30節を根拠に十分の一を要求するのであれば、他の律法規定もすべて厳格に
守ることを求めるのでなければ聖書の恣意的解釈のそしりを免れないでしょう。
さらに言うなら、申命記14章28~29節の、「三年目ごとに、その年の収穫物の十分の一を取り分け、
町の中に蓄えておき、あなたのうちに嗣業の割り当てのないレビ人や、町の中にいる寄留者、孤児、
寡婦がそれを食べて満ち足りることができるようにしなさい。~」という規定はどこに行ってしまった
のでしょうか?
当時献げられた収穫物の十分の一は、そのような貧しい人たちに再配分されていたのです。
什一献金を厳格に取り立てている福音派等の教会は、その集まったお金を少しは貧しい人たちに
回しているのでしょうか?
神のものを盗んでいるのは他ならぬ牧師自身ではありませんか?