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キリスト教徒であったテオドシウス1世(当時379年から392年までは
東ローマ帝国の皇帝、その後395年までには東西ローマ帝国の両方の
皇帝を兼ねた)は、380年に異教と異端のアリウス派に対してローマ
帝国全域での迫害の方針を定めた。
391年、彼はテオフィロス(アレキサンドリアのキリスト教司教)の
求めに答えて、エジプトの非キリスト教の宗教施設・神殿を破壊する
許可を与えた。キリスト教の暴徒は、サラピス寺院やアレキサンドリア
図書館や他の異教の記念碑・神殿を破壊した。その後、393年には法律
で暴力、特に略奪とユダヤ人のシナゴーグの破壊を抑えようとの試みが
なされた。
だが、412年、アレキサンドリアの総司教の職権が、強硬派のキュリオス
(英語読みはサイリル。)へと継承された。この後に、新たな異教徒の
迫害および破壊活動が起きた。
キリスト教徒の集団により、414年、アレクサンドリアからのユダヤ人の
違法で強制的な追放と、415年、最も著名なアレクサンドリアの哲学者
ヒュパティアの虐殺があった。これで、緊張はその頂点に達した。
総司教キュリオスの部下である修道士たちは、馬車で学園に向かって
いたヒュパティアを馬車から引きずりおろし、教会に連れ込んだあと、
彼女を裸にして、カキの貝殻で、生きたまま彼女の肉を骨から削ぎ落
として殺害した。
ほどなくして多くの学者たちの亡命は、古代の学問の中心地であった
アレキサンドリアの凋落を招いた。キュリロスはアレキサンドリア
から異教徒を追放した功績者として大いにたたえられた。その死後、
彼は教皇レオ13世により「教会の博士」として聖人の列に加えられて
いる。
これらの事件により、ピタゴラスの誕生から続いてきたギリシャの
数学・科学・哲学の歴史は終焉する。劇的な虐殺の詳細と共に、博識で
美しい女性哲学者としてのヒュパティアの伝説は、後世多数の作家
(例えばチャールズ・キングズリーの『ヒュパティア:古い相貌の
新たなる論敵』(1852年)など)の文学作品を生み出した。