◆ゆる体操で心身を癒そう◆高岡英夫パート5at HEALING
◆ゆる体操で心身を癒そう◆高岡英夫パート5 - 暇つぶし2ch282:癒されたい名無しさん
04/11/10 08:29:00 9li/Gyhr
◆だから、我々は、人間というソフトウエアをプログラム
されているこの肉体の中にいれば、それによって、これまでその主体が経験した前世を
思い出すことは出来ますが、ただし、もっと効率のいい機械=肉体やシステムに転生すれば、
30万年の詳細な全生命(動植物からヒューマノイドまで)の前世のすべてを思い出すことは出来るはずです。

◆ただし、今のこの肉体や脳というのは、それを思い出すために作られているというよりは、
「忘れるため」「思い出さないため」に作られている方が遥かに優先されているので、
そういう意味では、前世を思い出そうとすることなどは、かなり、馬鹿げたことである。

そんなことは、この地球にいる間は、しないほうが時間の無駄とならずに良い。それを全部思い出したいなら、別の星系または、次元システムに生まれ変わるのがいいでしょう。

◆ここで、仏教の話に戻しますが、釈迦は自我はないといった。本来無我と。
これは、分化した「意識のかけらとしての眼」としての、個々の「主体」はあっても、それは「我意識」とは関係ないこと。

また、その我も、独自のものではなく、情報の集まりにすぎないこと。
ただし、その情報が、自分という肉体感覚の中で起きるので、外部と自分という分割感覚を持つだけのこと。
分割感覚があるからといっても、それと自我意識が強いのとは別問題。

◆釈迦は輪廻を否定はしていないように思える。釈迦は、主体も否定していないと思える。彼が否定したのは、
自我という個体意識は、錯覚であるということのみ。

また、真我といわれるようなものも、「彼の悟りの中では、経験されなかった」ということ。
まさに、ここが重要な点である。

◆こうした経験においては、客観的なものは何もない。つまり、真我のようなものを経験するレベルの悟りもあれば、
それを感じない悟りもあるということ。

真我自体があるなしではなく、真我のような確たる中心として感じる悟りのレベルがあるが、
それを超えたレベルに釈迦はいた。だから、彼には、中心すら感じることが出来なかった。

それは彼のいた「レベルに固有の」「悟り」であったこと。したがって、彼が「真我などない」といっても、それは、彼のレベルにはそのようなものは観測されなかった、
ということであり、レベルが落ちたら、真我として「感じるようなもの」もあり得る。

◆このあたりは、たとえば、悟りとか、神秘体験とかしたと称する人達の書いたものを読むとわりと明確に分かる。

自信が生まれた、途方もない愛を感じた、一体感を感じた、無限の力が生まれた、
永遠を意識した、生命の素晴らしさに泣けた、などなどのいわゆる、誰が見ても、ポジティヴに聞えるタイプの悟りの経験は、「真我」または、まだ中心の主体核(全体意識のかけら)は
保持されたままの悟りの体験といえます。

◆ところが、自我はなくとも、輪廻の主体となっている核が、本当に全体に溶解しかけるプロセスまでいくと、釈迦のような、情緒的なものを交えない透明なベールを超える
段階にきて、その段階では、輪廻の主体そのものが崩壊を始めます。だから、彼は、「もう戻ってこない」といえたのです。

◆これがもしも、主体を保持したままの悟りなら、「魂は永遠であると分かった」と言う、よくありがちな神秘体験の
悟りに留まっていたことでしょう。

◆だから、とっくに真我のレベルの悟りなど経験済みだった彼が、菩提樹の下で超えた境界線は、
個別化した魂(主体)の(半)溶解です。

半溶解というのは、肉体として生きていた間は、完全には、還元されなかったからです。

そして彼のその肉体という個別体が死んだ日、それは100%主体を失って、
そして、「ついでに」、第6身体の全体意識をも失って、輪廻しない空気のようなものとなって
個別性と、全体性そのものが消えたと考えられます。

彼は「どこにもいない」、というものになったと考えられます。




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