06/11/11 10:01:25 3DmSHFJ2
>>98
またメシの例えになっちまうが以下はあくまで私がたどった方法論。
自分が好んで食ったり食えても避けられるなら避けるものをまず分けてみた。
自分で統計とって、その統計から自分の「好み」を分析。
で、好きそうなもの食ったときと嫌そうなもの食ったときの味覚を覚えたその
瞬間の快不快の「感覚」を記憶した。何度もやってるとその快不快にも
大きさは同じでも微妙な差があることを知った。同じ好物でもフルーチェ
食ったときとだしの効いたトンコツラーメンを食ったときでは「喜び」の大きさが
例え同じでもその方向性は明らかに違う。その差を認知することで、
ボクらの働きの悪い「感じる」というセンサーが歩行訓練を受けるように
徐々に働き始めるように「感じた」わけだ。で、快不快を取っ掛かりにして
その先を探るやり方は何も食い物には限らないと思ったわけ。
>>102
英語の出題で最後のノラの書置き抜粋が出てきたのがきっかけ。
私はあなたの指摘する本来の主題そっちのけでノラの書置きの
「シチュエーション」に目が釘付けになった。
「あなたは確かに私を愛してくれた。でもその愛は人形を愛する時の愛だった(以下略)」
愛を「対象を大事に思う行為」と脳内変換して読んだ。同じ大事にするんでも
対物と対人では差があるだろうと漠然とはわかってたがこれでハッキリ認識できた。
対人の場合 大 事 に さ れ る 側 の 都 合 が 存 在 す る
ノラの手紙は正に「大事にされた側」が「都合」を主張してる。
日頃空気読めなかったり人の気持ちが読めないとか言われてる身の上と
あいまって、そのことをハッキリ認知できたのが物凄く衝撃的だったのね。
いとおしむのと貴重品を大事に扱うことの差とも共通項は無いだろうか。