05/03/12 12:36:51 RvSoX9qC
>>534-535 単、直さん 元いさん
自我というものは消えないと思うのですが、エゴというのを「恐れを動機とした心的態度」と捉えてみれば、
それは少なくしていくことができるように思います。
>>544 マンゴー先生
存在に至ってしまえば、行為規範や道徳が消滅してしまいます。
行為は、本質的に意味から中立であるという認識が確立しますし、道徳という観念の縛りもまた消滅してしまいます。
行為の基準は、「それを愛を込めてしているか」「愛を動機としているか、恐れを動機としているか」のみになってしまいます。
そこに現れる人物像は、キリスト教の修道女やイスラム法学者のような、倫理的で高潔な人というよりは、むしろ、
理不尽と思ったときは怒り、悲しいときは泣き、楽しいときは無邪気に遊ぶといった「子供のように自然な人」になるでしょう。
禅者が破天荒なのは、そこらへんに理由があるように思います。
>>549 マンゴー先生
固定観念が外れるという意味でエゴが落ちると、逆に、大いなるものとの一体感というか、存在に対する絶対的な信頼が生まれるという感覚が、自分の中にはあります。
悟りということについて、苦や執着が落ちるとかがいわれますが、その本質は、自己が、大いなるもの、神、創造主など言い方は沢山ありますが、
そうしたものと不可分であるという認識、少しかっこつけていうと「己を知る」ということにあるのではないでしょうか。
余談ですが、「執着が落ちる」ということについてなんですが、
良いことと悪いことがあると思っている人にとっては、悪いことを避けて、良いことに執着するということがありますが、
良いも悪いも相対的なものにすぎないと思っている人にとっては、まあどっちでもいいかということになります。
自分に足りないものがあると思っている人にとっては、足りないものに対する執着が起きますし、
本来何も求める必要はないと分かっている人にとっては、執着は無くなるでしょう。
すべての人が自由意思を持ち、形あるものはすべて変化していくこの世界で、
自分の外側に執着を持ち、「良いこと」や「欠けているもの」を求める限り、人の苦しみは無くなることはないでしょう。
受容と感謝は、執着を落しますね。
面白いのは、宇宙の法則からいえば、何も求める必要はないと分かったときにふんだんに手に入ることです。矛盾してますね。
そもそも求める必要などないのだと直感的に分かっていれば、祈ることはずっとやさしくなる。そのとき、祈りは感謝の祈りになる。
求めるのではなく、望みがかなっていることを素直に感謝するようになる。
(神との対話1 p27)