05/03/09 12:07:13 ivau+xnV
>>533-534 単直さん
>どこかまだ自分の中には最低の自分と最高の自分があるという思い込みに囚われ
>ている
まあ結論としては、相対善を放棄(絶望)したときに絶対善が顕現するわけですが。
でも最初から「在るがままでいいんだ」「迷いも悟りもないんだ」と言ってしまうことに
私は否定的です。
「放棄」というのは自我「が」放棄するのではなく、自我「を」放棄するわけですから。
それは「自力」ではなく「他力」であります。
そして、その他力のハタラキが起こるまでは、徹底的に善(理想)を追い求めるか、
徹底的に自我を否定するか、いずれにしても「徹底的」な自力であり「極端」でなけ
ればならないのです。
「中道(在るがまま)」とは極端を超えたところにあるのであって、決して真ん中にある
のではない。
だから仏は「悪をなさず善をなせ」と説いた。
だから修行者は最低の自分を厭離し、最高の自分を欣求した。
こうした観念も最上級の方便(悟りへの道)として、それもまた善き哉。
>一休さんが自らを風狂破戒の僧と嘯き酒と風流を嗜んだのもそうでは?
禅者が、高人格な一般的な宗教者と違い破天荒なのは、禅の体系が自我の放棄(神
への全任)ではなく執着の放棄だからなのではないだろうか?
それはそれで自由な生き方でよいのですが。楽しそうだしね。
しかしそこには微かではあるが永遠の「自力」が感じられるような気がする。
全てを委ねてしまえる依り所がない故の苦悩。
それ故に坐り続けなければいけない必要性の残存。終わりのない繰り返される大悟。