05/02/17 11:23:35 avaMCkok
公案じゃなくて単なる理屈です。
対句を書く時間が取れず、変な気を回させてしまいましたね。
雑念のある状態を思い浮かべようとすると、雑念のない状態が現れる。
なぜなら、雑念のない状態を通してしか雑念のある状態を知ることはできないからだ。
これが二元性の利。
すなわち煩悩即菩提とはこのこと。私たちは既に「空」を知っているということ。
ここにおいて瞑想における「止」が成就される。
ゆえに「止」とは雑念を止めることではないということが分かるだろうか。
不眠症の人が眠れないのは「眠らなきゃ」と思うからで、逆に「眠らないぞ」と思っている
といつの間にか眠ってしまうものである。
ここまで来て修行者は「観」の修習に入る。
テレビゲームで忘我しても何も起こらないのに、瞑想で無我になると何かが起こるのは
何故だろうか?
瞑想の目的は雑念を消す忘我ではないということが分かるだろう。
「苦」を生み出すメカニズムは「自我」が「私は体だ」「私は心だ」という対象に縛られること
から来る。「自他」という最初の基準・境界線だ。
故に瞑想の目的は「私は体ではない」「私は心ではない」という執着を「放棄」するところに
要点がある。
だから「観」においては「四念処」「十二因縁」を見つめていくのが釈尊の観念修行法である。
また自他の基準を「放棄」するのではなく、自他一如に「融合」する方法として「四無量心」
を見つめていくことを平行して修習することも釈尊は推奨された。
四念処
身は不浄なり、受は苦なり、心は無常なり、法は無我なり
四無量心
慈、悲、喜、捨