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スキー板からターレへ ママが一人息子と向き合うまで
日本女子スキージャンプの先駆者で「女王」と呼ばれ、引退後は女子日本代表初の女性コーチを務めた山田いずみさん（41）が、競技の第一線から離れ、札幌市中央卸売市場で働き始めた。出産後も代表コーチや高梨沙羅選手（23）の個人コーチとして国際大会や合宿に同行してきたが、小学3年の長男との時間を増やすために転職を決めた。
朝5時、山田さんの仕事は始まる。紺色の作業服に長靴履き。マグロなどを販売する水産仲卸の「一鱗（いちうろこ）共同水産」で威勢のいい男たちに交じって店頭に立つ。ふだんは店の金庫番を任されているが、人と物が激しく行き交う市場内を歩き回り、水産物の運搬車「ターレ」に乗ることもある。
「ジャンプも男の人に交じってやってましたから」
小学1年から札幌ジャンプ少年団でジャンプを始めた。女子が正式種目になるまで、男子に交じって技術を磨いた。
中学1年、宮の森ジャンプ競技場でノーマルヒルを、高校3年、大倉山ジャンプ競技場でラージヒルを飛んだ。
2002年から女子種目が設けられた全日本選手権（ノーマルヒル）で5回優勝。国際大会で優勝したこともあったが、09年の世界選手権で25位に終わり、その年の3月、引退した。13年から20年まで女子ジャンプ日本代表コーチを務めた。高梨選手の個人コーチも引き受け、ともに世界の頂点をめざしてきた。
目をそらすようになった息子
そんなジャンプ一筋の人生。競技の第一線から退く決意をさせたのは、一人息子の颯羅（そら）君の存在だった。
母と息子2人の生活。山田さんは遠征などで出かけるときは、母親の紀子さん（72）に颯羅君を預けてきた。そのたびに颯羅君はさびしそうな顔をする。山田さんが出かける前は泣かないけれど、帰ると泣いた。2、3週間に一度自宅に戻り、また出かける日々。多いときは1年の半分ぐらいは家を空けた。颯羅君は山田さんと一緒にいるときはそばから離れない。トイレに行っても、「ママ、どこ」とさがした。
昨シーズンの遠征に出る前、どこへ行っていつ帰るかを話そうとすると、目をそらされた。「私の顔を見ると、涙が出るから、目をそらしているんだ。これ以上は無理だな」
昨シーズンが終わってから仕事を探し始めた。
「山田いずみが就職先を探しているそうだ。どこかいいとこはないだろうか」。元ジャンプ選手で共同水産専務の町田悟さん（52）は昔の仲間からうわさを聞き、同社3代目で営業部長の本間雅広さん（31）に尋ねた。本間さんは「よそじゃない。うちにきてもらおう」。山田さんに会い、飲食店とのコラボなど新たな事業展開について説明して、「一緒に水産業界を盛り上げてほしい」と猛烈にアタックした。
山田さんは札幌市内の住宅メーカーへの就職が決まりかけていた。2週間悩み、「どうせなら、新しいことにチャレンジしたい」と、5月から共同水産で働き始めた。広報も担当し、SNSで仕事や仕入れた魚について発信する。本間さんは「水産業界は右肩下がり。山田いずみさんのような頂点に立った人がここでチャレンジして、魚のおいしさを広めてほしい」と期待する。
山田さんの唯一の気がかりは、高梨選手だった。自分が現役のころから、小学生だった高梨選手の面倒をよく見てきた。息子の名前に沙羅さんと同じ字を入れると、「習字で名前を書くと真っ黒になっちゃうよ」と喜ばれた。個人コーチとして一緒に戦い、期待されながら高梨選手がソチ五輪で4位に終わったときは「ここからがスタートだよ」と励ました。次の平昌五輪で高梨選手は銅メダルを手にした。
高梨選手を自宅に呼んで転身を打ち明けたときのこと。高梨選手はとても複雑な顔をした。高梨選手は、颯羅君が寂しがっていることを知っていて、遠征に山田さんを呼ぶときは期間を短くしてくれていた。最終的に「今までみたいにずっと一緒にはいないけれど、これからもちゃんと相談に乗るからね」と伝えて納得してもらった。
突然の転職に、ジャンプのコーチ仲間にも驚かれた。「まさか、そっちに行ったんか」。「がんばれよ」と声をかけてくれたOBもいた。
市場での勤務は午後2時まで。颯羅君が学校から帰るのを家で迎えられるようになった。「今日はどんな仕事をしてきたの」と興味深げに尋ねる颯羅君。山田さんは答える。「シジミの重さを量って袋詰めしたんだよ」「10キロぐらいの魚が入った発泡スチロールを運んでたら腰が痛くなった」
マグロとサーモンが好きな颯羅君に「市場へ見学に行きたい」といわれる。今は少年野球チームに入っているが、ジャンプもやりたいといい始めた。大変さを知っているだけに、教えるかどうか、迷っている。