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志村けんは、なぜこうも台湾人に愛されるのか。
国共内戦後、中国から台湾に逃れてきた中華民国政権は日本に「以徳報怨」というスローガンを掲げた。
一方、少数派であった与党・国民党は多数派の元日本国民であった台湾人に「われわれは対日戦争に勝って台湾人を二等国民の扱いから解放した」と主張することで、自分たちの高圧的統治を正当化した。
そのため、日本との貿易などの「実務」を継続しながら、日本の文学、映画、テレビ番組などはあまり推奨しなかった―元々台湾人たちのみに共有されたこれらの事象は、台湾人アイデンティティを喚起してしまう恐れがあったからだ。
1972年の日中国交正常化に伴い、台湾は直ちに日本に国交断絶を宣言した。中華民国から見れば、中国との国交樹立は裏切り行為であり、そのためこの年に台湾政府は一切の放送で日本語を禁止にし、日本映画の輸入もご法度になった。
80年代末期にようやく禁制が緩くなり、それでも薬師丸ひろ子が台湾テレビで映画宣伝を行った時には、日本語ではなく英語で司会者とやり取りした。「日本追放」の全面解除は93年末まで待たなければならなかった。
<「バカ殿」鑑賞という反政府行為>
今、台湾は親日的な国柄で知られている。しかし、このような理由からわれわれ40代の人間は中学校まで日本を悪者として教育されていた。
だが「反日」という国是はあくまでも権力者の都合だ。志村の全盛期である80年代は、台湾戒厳令時代の末期でもあった。政権側に牛耳られていたテレビ局は、視聴率を取るために日本のTBSと提携。
「8時だョ!全員集合」の台湾版「黄金拍档」が制作され人気を博した。だがその勢いは2、3年で急落した。理由は簡単だった。
「あれは日本のドリフターズのパクリだよ。オレたちが知らないとでも思ってるのか」
政権に政治的に圧迫され、マスコミを統制された台湾人は当時流行りのレンタルビデオ店に心の自由を求めた。著作権なき時代に日本のプロレス、ドラマ、時代劇、お笑い番組そしてアダルトビデオが棚に並んだ。
それらのビデオは日本在住の台湾人に録画してもらい、キャビンアテンダントが台湾に持ち込んだいわば「密輸品」だった。
たかがビデオの鑑賞も、当時の台湾人にとっては反政府の香りがする行動だった。
「密輸入」のビデオでエンターテインメントを享受する同時に、「オレらの方が本物を知っているぞ」という妙な優越感を持ち、政権側の思想統制をあざ笑ったのだ。
ただし、たとえお笑いでも言葉の壁があり、日本の漫才や話術を本当に楽しむことは難しい。その分、志村のお笑いは直感的で分かりやすかった。
世代を問わず、台湾人にとって志村は「大爆笑」の代名詞になると同時に、自由のシンボルにもなった。
<金城武との共演CMへの思い>
本人たちは意識していなかっただろうが、台湾人はビデオ店から借りた後、何回もダビングされ劣化した映像の中に自分を投影した志村像をつくり上げ、共感した。
2000年代に日本アジア航空が金城武と志村をCMのイメージキャラクターとして起用した時、台湾人は志村が台湾に「やってくる」のではなく、「やっと帰ってきた」と思ったのだ。
だからこそ、志村が帰らぬ人になった時、蔡英文総統をはじめにとした全台湾が悲しんだ。その悲しみに外交辞令や政治的な計算は一切ない。
強いて言えば、それはただ台湾人が民主化時代の夜明け前を、共に過ごした心の友の死を悼む感情であろう。本人にはありがたく迷惑かもしれないが、彼ならきっと言うだろう。
「だいじょうぶだぁ」
蔡亦竹(台湾・実践大学助理教授)
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