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満蒙開拓団 封印された「性接待」 2017年7月2日 東京新聞
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戦前、旧満州国(現中国東北部)に国策として送り出され、敗戦後の避難行で大勢の犠牲者を出した「満蒙開拓団」。
そこには敗戦直後、開拓団を守るためとして、ソ連兵に対する「性接待」を強いられた若い女性たちがいた。この事実は
開拓団員の引き上げ後も長く封印され続けてきた。しかし、少なからずの被害者が亡くなり、残る女性たちも高齢となった。
そうした女性たちが最近、重い口を開き始めた。
「自決のがれて 一息つくまもなく 接待にきりかえられる」「乙女ささげて 数百の命守る」
A4のノートには、手書きでそう記されていた。現在、東京で暮らす89歳の女性は約2年前、戦後70年を過ぎたころから
辛い記憶を綴り始めた。女性は戦前、岐阜県黒川村(現白川町)の「川黒開拓団」の一員として満州に渡った。敗戦直後、
ソ連兵への「性接待」を強いられた。当時17歳。「ものすごく恥ずかしく、戦争の惨めさをさんざん知った」
黒川開拓団は1941年から中国吉林省の陶頼昭に入植した。人数は約600人、敗戦後、極寒や食料不足、チフスなどで
約1/3が死亡。生き残った約400人の多くは、46年9までに日本に引き上げた。女性は継母が黒川村出身だった関係で、
団員となった。開拓団の「満州開拓女塾」で「大和なでしことは何か」などを学ばせられていたが、敗戦から約1週間後に進駐
してきたソ連軍の襲撃に団員らはおびえた。隣の開拓団は集団自決に追い込まれ、黒川開拓団でも集団自決やむなしの声
が上がった。食料も不足した。
「奥さんたちには頼めんでね。あんたら独身だけ、どうか頼む」。開拓団の幹部が未婚女性たちにソ連兵への「性接待」を要求
したのはそんな時だった。16歳~20歳くらいの未婚女性約15人が集められた。食料の提供を受けるためにも、ソ連兵に女性
たちを「差し出す」という。女性は逃げたかったが、団全体の生死が関わる事態に「嫌だ」とは言えなかった。
開拓団の共有施設の一室にはずらりと布団が並べられていた。仕切りも何もない。交代でソ連兵の相手をさせられた。ソ連兵は
銃の先で女性たちの体を小突き、丸太のように倒した。「慌てているわ、恐ろしいわ。物扱い」。ソ連兵が駐留した11月まで
「性接待」は続いた。女性たちは性病やチフスへの感染を防ぐため、医務室で「洗浄」を受けた。それでも感染した。「接待」を強い
られた人のうち、4人が亡くなった。女性もチフスにかかり、高熱で塗炭の苦しみを味わった。
日本に引き揚げた後も恐怖は焼き付いていた。ベルトの音がするだけで、怖くて振り向いた。父親にベルトのないズボンをはくよう
求めた。東京で家庭を築いたが、夫には死別するまで「性接待」について一言も話さなかった。子供たちにも言っていない。
ただ戦後70年が過ぎ、自らの体験を伝えるべきではないかという気持ちが芽生えた。「このような不潔なことは表に出してはいけない
と思ってきた。でも、次第に戦争なんてやるべきでないと声を上げなきゃ、という責務というか気持ちが起きた」
(続く)