17/12/01 20:43:23.14 vmQT1eMU0.net BE:385687124-2BP(1000)
URLリンク(img.5ch.net)
「ガラパゴス化」する慰安婦論争 ― なぜに日本の議論は受入れられないか
木村幹 / 比較政治学
URLリンク(synodos.jp)
URLリンク(synodos.jp)
URLリンク(synodos.jp)
・慰安婦問題の「二つの顔」
わが国における慰安婦問題にかかわる議論は、どうしてその運動の展開からずれてしまったのだろうか。それは慰安婦
問題には「二つの顔」、つまり「女性の人権問題」としての顔と、「歴史認識問題」としての顔の二つがあり、その主たる
顔が「女性の人権問題」としてのものの方である、ということが見落とされているからである。この慰安婦問題の「二つの
顔」は本質的に性格を異にするものであり、目指しているものも異なっている。
にもかかわらず、わが国での議論はこの「二つの顔」のうちの従たる顔、すなわち、「歴史認識問題」としての顔にのみ注目
したものとなっている。しかもさらに悪いことにその議論は「歴史認識問題」としての慰安婦問題にかかわる部分においてさえ、
十分なかたちで存在していない。
それは次のように整理するとわかりやすいかも知れない。いうまでもなく「歴史認識問題」としての従軍慰安婦問題について
重要な論点の一つは、当時の日本政府の法的責任をどのように考えるか、ということである。すでに述べたように、慰安婦
問題にかかわる法的責任をめぐる議論にはいくつかのパターンが存在するが、わが国における議論はそのなかの一部でしかない、
動員時の「強制連行」部分のみに集中している。仮に法的責任をめぐる議論が重要であると考えるなら、この点について
幅広い論点をカバーする必要があることは明らかである。
また、「強制連行」そのものについてさえ、じつはわが国における法的責任をめぐる議論は十分ではない。仮に国家が組織的
に関与していないことが確定したとしても、業者等による「強制」が存在すれば、これを放置したことによる国家の管理責任が
問われる可能性もある。わが国における議論は「強制連行」にかかわる部分に執着する余り、結果として、一体何をディフェンス
しようとしているのかさえ、わからなくなっている、といわねばならない。
もちろん、慰安婦問題の主たる顔である、「女性の人権問題」としての部分についてのわが国の議論の空白はより深刻であり、
今日その深刻さは大きく増すことにいたっている。なぜなら日本国内の議論が慰安婦の「強制連行」にのみとらわれているあいだに、
運動団体側は国際社会に対して、自らの原点でもある「慰安婦問題は現在にも通じる典型的な女性の人権にかかわる問題だ」
という主張を積極的にアピールし、この試みは一定以上の成功を収めることになっているからである。
ふたたび、彼女らが慰安婦問題を「現在」に通じる問題として提起していることが重要である。今日において多くの国で売買春に
対する管理が強化される流れにあることは明らかであり、そのかたちはともあれ国家がおおやけに関与するかたちで、「軍人に風俗
サービスを提供する」などおよそ考え難いものとなっている。このような文脈において、その内容はともかく国家が何らかのかたちで
関与するかたちで「軍人に風俗サービスを提供する」、かつての慰安婦をめぐる制度の実態が好意的に解釈される余地はない。
にもかかわらず、日本では今日、慰安婦問題をわざわざ「現在の」日本国内、あるいは世界各国に駐留する軍隊と絡めて説明
しようとするも議論が登場している。そして当然のことながらこの議論は、国際社会から強い批判を受けることになる。なぜなら、
この議論は各国政府に対して、「あなたの国の軍隊は、現在においても女性の人権を踏みにじっていますよね」と主張しているも
同然であり、とりわけ、実名をあげられた国にとっては、挑戦状を突きつけられたに等しい状態だからである。
女性の人権への関心が高まるなか、強力な世界の女性運動の標的となるリスクを冒してまで、日本国内一部の身勝手な議論
に同調する国は存在しない。その動きは控えめにいっても、国際社会の動きとかみあっておらず、日本をさらに孤立させることとなっ
ている。
(以上一部抜粋。全文はリンク先で)