【歴史】1945年8月15日「終戦の日」の想い出――敵国劣等国民から戦勝国国民へ―― [Ikh★]at NEWS4PLUS
【歴史】1945年8月15日「終戦の日」の想い出――敵国劣等国民から戦勝国国民へ―― [Ikh★] - 暇つぶし2ch1:Ikh ★
22/08/20 13:08:37.65 CAP_USER.net
凌星光(福井県立大学名誉教授)
毎年8月中旬になると、「終戦(敗戦)」の想い出話が新聞紙上をにぎわせる。1933年生まれで12歳の私は、高等小学校1年生であった。当時の事をそろそろ書き残しておかねば先がないと思いながらも、時は過ぎ、今日に至ってしまった。
敗戦のニュースを知ったのは、二俣の山奥から浜名郡北浜村貴布祢(現在浜松市浜北区)に帰る途中であった。艦砲射撃や空襲で浜松市はほとんど壊滅的な被害に遭い、当時はまだ田舎であった貴布祢も安全ではなかった。そこで父の凌秀明が中心となって故郷青田県出身の華僑数人が協力して、二俣の山奥に土地を買い、疎開用の家を建設中だったのだ。その手伝いのために、二俣に向かった。その帰路、叔父の徐志軒(父の義弟)の引っ張るリヤカーを後ろから押す役目を担った。
途中で一休みした時にこの終戦のニュースを聞き、初めはちょっと信じられなかったが、間違いないことを知って、これで「一億玉砕」はなくなり、竹やりで敵前上陸する米兵と戦うこともなくなった、死ななくて済むと安堵(あんど)の胸を下ろしたことを記憶している。その後、自分が戦勝国民になったという気分を味わうのであるが、その時点では戦争の恐怖、対敵国民の侮蔑から逃れられるとまずは一安心した。
浜松には三方ヶ原軍用飛行場があった。そこは静岡県内では最も工業が発達していた地域でもあり、軍需工場もたくさんあった。そのため、アメリカ空軍の重要な爆撃目標とされていたようで、何回かB29の空襲に遭っている。中でもひどいのは2回あり、1回目は1945年4月30日の工場が密集していた浜松市中心部への爆撃で、約1000人の死者を出した。2回目は6月18日の大空襲で、約1800人の死者を出した。多くの市民が焼夷弾で火傷(やけど)を負い、私の通っていた北浜村小学校は負傷者の収容所と化した。また浜松市は艦砲射撃にも遭い、死者は合計2947人に達し、全国でも単位面積当たり被害は最も大きな都市に属すると言われる。数日後に貴布祢から出向き、焼け野原となった浜松市を目にしたが、実に悲惨なものであった。
浜松市の海に面した地域は遠州灘と言い、砂浜が続いている。米軍の敵前上陸に適しているところと予想し、終戦末期に三方ヶ原の斜面に陣地を構築する作業が行われた。そのために一般民家への労役が割り当てられ、私が病身の父に代わって作業に服した。指定地に着いてみると、横穴の土を掘る仕事で、そこに大砲を置くようになるとのことだった。満12歳の私は最年少者で、モッコを担いで土を運んだ。嫌々ながら無理にやらされていたこのような「戦争への協力」から解放されることもうれしい限りであった。
思えば、1937年、盧溝橋事件をきっかけとして起こった日中戦争によって、中国と日本は敵対関係となった。当時は、兄と弟、そして私の3人は幼稚園に通っていた。今でも目に焼き付いているのは、兄弟3人が幼稚園の演芸場の片隅に追いやられ、日本人児童から「チャンコロ、支那人をやっつけろ」とののしられ、兄が必死になって2人の弟をかばって闘う姿である。平和な現在から見れば実に不可解なことだが、園長も先生も児童の暴力でのいじめを止めようとしなかった。幼心にも、どうして自分はみなと違う中国人として生まれたのかと恨んだことを覚えている。
1941年12月、小学校3年生の時、太平洋戦争が勃発した。特高(特別高等警察)による在日華僑への取り締まりはますます厳しくなり、県外への移動は報告が義務付けられるようになった。静岡県特高警察の山本豊雄氏はわが家を見張る担当警察であった。父は、表向きは日本当局および汪兆銘(精衛)傀儡政権への忠誠心を示し、法順守の華僑として周囲の信頼を得た。ところが、その父が戦争末期で空襲が激しくなった頃、自宅の防空壕で身を潜めていた時、「日本は負ける、中国が勝利する」と本音を語った時はびっくりした。日本敗戦のニュースは、父のこの言葉を思い出させた。
※続きは元ソースで御覧ください
2022年8月14日
Record China 2022年8月20日(土) 8時30分
URLリンク(www.recordchina.co.jp)


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