22/05/19 13:04:28 CAP_USER.net
神功皇后
朝鮮半島を服属させた「三韓征伐」の伝説をもつ。東京都立中央図書館蔵
URLリンク(www.rekishijin.com)
古代中国の文献には当時の日本(倭国)のことや、その交易(朝貢/ちょうこう)の様子が、たびたび登場する。裏を返せば、当時の日本列島に住む人にとっても、中国大陸や朝鮮半島は身近な存在であった。3世紀の邪馬台国や女王・卑弥呼についての記述は『三国志』(魏志倭人伝)に紹介され、『宋書(そうしょ)』には5世紀に朝貢した5人の倭王のことが記される。
しかし、その間の約150年間、4世紀にあたる時期については中国の史書にみられない。このことが、ヤマト王権の具体的な成り立ちを分からなくしている。いわゆる「謎(空白)の4世紀」と呼ばれる時期である。当時の中国では魏(ぎ)・蜀(しょく)・呉(ご)の三国時代が終わり、五胡十六国(ごこじゅうろくこく)という動乱期に突入。439年に北魏(ほくぎ)が統一するまで戦乱が続き、統一国家もなく、倭国に目を向ける余裕がなかったという事情がある。
しかし、重要な手がかりが中国・吉林省(きつりんしょう)で見つかった好太王碑(広開土王碑/こうかいどおうひ)に残されていた。この碑は高句麗(こうくり)の好太王の業績を称えるため、子の長寿王(ちょうじゅおう)が414年に建てたものだ。当時の朝鮮半島は、高句麗・百済(くだら)・新羅(しらぎ)の3国による勢力争いが激化していた。碑文からは、高句麗を中心とする朝鮮半島の様子、倭国の動静が確認できる。百済は399年、倭と同盟した。高句麗王は百済を討つため平壌(ピョンヤン)へ向かうが、そこで新羅から使者がきて、倭との戦いに力を貸してほしいと頼んできた。そのため高句麗王は新羅を救援した。400年、5万の軍で新羅の王都にいた倭の大軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが新羅の王都を占領した。
404年、倭の兵が帯方(たいほう/黄海道地方)に侵入してきたので、これを迎え撃って大いに破った。およそ、碑文にはこのようなことが刻まれている。百済や新羅より、海を越えて攻めてくる倭国との戦いを重視していたようにも読める。
百済とヤマト王権の関係と朝鮮進出の目的とは
『日本書記』の引用する『百済記』には「倭と百済が同盟して367年に新羅を討った」と記される。おそらくその証しとして、4世紀に百済で造られたとされる七支刀(しちしとう)が石上神(いろのかみ)宮(奈良県天理市)に残る。
『日本書紀』によれば、このときに朝鮮半島を攻めたのは第14代・仲哀(ちゅうあい)天皇の后である神功(じんぐう)皇后であったという(三韓征伐)。皇后は卑弥呼に比せられる見方もあるが、年代のずれもあってその可能性はほぼない。
倭国(ヤマト王権)としては、朝鮮で最も強大な力を持つ高句麗が、百済や新羅を倒してしまえば、大きな脅威となる。それを阻止するためにも朝鮮半島への介入は必要といえた。ただし、ヤマト王権には半島を占領するという目的はなかったと考えられる。百済や伽耶(かや)などの勢力を助け、その関係を維持して権益を守る、ひいては高句麗や大陸の日本侵攻を防ぐことが狙いであったとみて良い。倭国では鉄が生産できなかったため、鉄の産地である朝鮮半島南部との関係維持も不可欠であった。
※以下ソース
歴史人 2022.05.18
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