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激烈な闘争性を持った韓国独立運動の中心には国が日帝によって崩れる前から大々的に起きた義兵戦争などがあった。そして庚戌国辱後、満州などの地に亡命した独立闘士によって独立軍抗争に発展するなど解放まで着実に武装独立闘争の脈を引き継いだ。
この中で断然目立つのがまさに義烈闘争だ。これは自身の生命を投げうって全人類に自由と正義のメッセージを伝え、民族独立の大義を明らかにする目的で起きた武力的闘争だ。このような人類共栄の透徹した目的性に基づいて進められた義烈闘争が単に個人または一部集団の私的利益をはかるテロと明確に区分される理由が正にここにある。
慶北安東豊山邑五美里で生まれた秋岡(チュガン)金祉燮(キム・ジソプ、1884~1928)先生はほとんど半生を民族解放のための義烈闘争に献身した独立闘士であった。
(中略:キム・ジソプの経歴)
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▲チュガン、キム・ジソプ先生(慶尚北道(キョンサンブクト)独立運動記念館提供)
彼は中国に亡命して1921年高麗共産党に加入し、1922年モスクワ極東民族大会に参加して同年、義烈団に加入するなど著しい活動を展開した。1924年東京帝国議会に爆弾を投げる計画をたて、上海から東京に潜入したが、同議会が無期限延期になった事を知って日本王宮を爆破する決心をし、結局、二重橋で爆弾投擲後、現場で逮捕された。
1925年5月に死刑宣告を受けて服役中1927年、20年刑に減刑されたが、翌年、結局疑問の獄死で殉国した。反帝国主義の理念で社会主義を受け入れ、これに対する実践策略で義烈闘争を選択したキム・ジソプの義挙は日帝の韓国人同胞虐殺に対する民族的報復であり日本帝国主義の主犯である日王の権威を否定した、という歴史的意味がある。
学界では彼の生涯と活動に関する一連の研究が行われ、慶尚北道独立運動記念館では彼に関する人物叢書シリーズ6冊《日王宮城をねらった民族魂キム・ジソプ》(2011)と資料叢書シリーズ6冊《チュガン、キム・ジソプ》(2014)の2シリーズを発刊し、それまで収集された資料と研究を総合した。また、記念館の常設展示室には彼と関連した一連の資料を展示している。
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▲ 《キム・ジョンソプ日録》 (韓国国学振興院所蔵および提供)
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▲慶尚北道独立運動記念館常設展示室キム・ジソプ関連展示場(慶尚北道独立運動記念館提供)
(後略)
[私たちの文化新聞=イ・ユンオク記者]
ソース:ウリ文化新聞(韓国語)日本王宮の前で爆弾を投げた、チュ・カン、キム・ジソプ
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