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- 暇つぶし2ch1:新種のホケモン ★
20/09/15 20:43:35.97 CAP_USER.net
百済東城王の死で王位に上がった武寧王は蓋鹵王の息子であり昆支王(困支)の養子だ。462年、倭地にある奈良百済に行く途上にある各羅島で生まれ、名前は隆だ。生まれた後も続けて奈良百済で成長したので日本語でシマ(島)またはサマと呼ばれた。それで彼を斯麻王とも言う。
これは倭地にもう一つの百済があったことが分る部分だ。それが奈良百済だ。奈良百済は近肖古王(クンチョゴワン)の時に建国されたが当時、近肖古王は大陸百済、韓半島百済、倭地の奈良百済の三地域を統治した大帝国の皇帝であった。
大陸と韓半島は距離が近いが倭地は大陸から遠く、当時は海上交通が発達していない時代で倭の奈良百済を自治的に統治する王を置いたが、これを天皇と呼び総督の様なものだった。サマは生まれるとすぐに生母とともに大陸百済に戻ったが、政治的状況が非常に不安で奈良百済にある昆支に再び送られた。
このように百済王室が王子を勝手に倭地の奈良百済に送ったり連れてきたりしたのは、奈良百済が百済が支配する領土だったからだ。百済は王子だけでなく、百済の文物を倭の奈良百済に伝達するために百済住民を大挙移住させた。403年(応神14年) 2月、百済の縫衣工女が奈良百済に渡り、これが日本列島で衣縫の元祖だ。
工女が一人で行ったわけではなく大移住集団の一員として行ったが、移住集団は日本列島全域120余りの県に散って暮らしながら百済の文物を伝播した。
当時、倭は衣服もない新天地島で、このような先進文化を持つ百済の大民族集団が移住した事実はすなわち百済が日本列島を開拓し、さらには日本列島全域を建設したことを立証



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