20/08/09 11:46:16 CAP_USER.net
韓国の既得権者が主張する反日パラダイムの本質
北で大学教授を経て、脱北したキム・フンガン博士。韓国内で対北専門家としてTV、新聞、YouTubeなどで活躍中の博士の叔父は、徴用工だった。徴用工への補償のため、当時の関連企業の韓国国内資産売却を命じた大法院(最高裁判所)の「公示送達」が完了した8月4日に絡んで、博士が語る「徴用工」の本当の姿。
北で教えられていた徴用工の真実との違いとは
今、日韓関係は、過去最悪の状態ではないかと思う。
8月4日は、日本への強制動員労働者(以下、徴用工)への補償のため、当時の関連企業の韓国国内資産売却を命じた大法院(最高裁判所)の「公示送達」が完了した日だ。実際に売却に着手した場合、日本での反韓感情が高まると憂慮されている。
私は2004年に韓国に入国した1960年生まれの脱北者だ。北朝鮮にいた頃は、新聞やテレビなどの国営メディアを通じて「朝鮮人強制徴用者」に関するニュースに何度か接したことはあるが、いずれも大まかな内容のみであり、問題の本質は知らされていなかった。私だけでなく、北朝鮮国民のほとんどがそうであろう。
しかしながら、脱北してやってきた韓国では、「日帝残滓の黒歴史」がより問題視されており、北朝鮮で洗脳された自分が知っていた内容とのあまりの違いに、どこまでが事実であり、どこまでが感情的なものであるのか混乱してきた。
韓国の左派陣営主導の「従軍慰安婦」「強制徴用」「強制収奪」など、日本の過去の過ちに対する復讐や報復について賠償を叫ぶ態度。これに共感を覚えることもある。しかし、『反日種族主義』などの資料を読むと、現在の韓国の既得権者が主張する反日パラダイムの本質と掲げられた旗との違いに疑問が大きくなるのだ。
私は両親から日韓併合当時の体験談を聞かされたこともなく、北朝鮮政府が宣伝する歴史観しか持ち合わせていなかった。そんな中、日本に住む叔父が、生前に故国訪問で会ったときに直接聞かせてくれた体験談が唯一の事実であり、叔父の証言は真実を衝いていると思う。
叔父のチン・ミョングンは、1944年10月に日本へ徴用工として渡った。そして1989年、45年ぶりに故郷に戻った。叔父に会うために50人以上の親戚が集まり、叔父は酒・タバコ、電化製品など、たくさんのお土産を親戚に配っていた。
徴用工だった叔父がいかにして成功したのかに興味があった
私はといえば、叔父が日本にいるため「海外縁故者」のレッテルを貼られ、大学進学や海外出張などに様々な制限があった。それでも叔父にとっては大学教授だった私が「自分の話の本質を聞いてくれる」唯一の甥だったようで、北朝鮮滞在時は一緒に行動することが多かった。
私が出会った頃の叔父は、千葉県に大きなビルを建て、デパート経営をする落ち着いた紳士だったこともあり、徴用工だった叔父がいかにして成功したのかに興味があった。なので、叔父の話は今も頭に残っている。
1944年、中学卒業後に両親を手伝って農業を営んでいた叔父は、当時の生活に息苦しさを感じていた。徴用工募集はそんな叔父にとってまたとないチャンスだったのだ。日本に行って頑張れば大金を手にでき、日本の高校や大学にも行けるという噂を聞き、当時の朝鮮の青年たちはこぞって一旗揚げるために日本に渡った。
およそ70人の青年たちと一緒に叔父が船に乗って行った先は北海道の炭鉱だった。仕事はきつく、両親を思い出すこともあったが、故郷を離れるときに立てた立身出世の志を心の支えにして耐え、一生懸命働いた。特に給料は故郷では考えられないほどの大金で嬉しかったという。
叔父の話の中で共感したしたのは次のような話だった。
《私が炭鉱でお金を稼げたのは、他人よりも徹底して禁欲したからだ。給料をもらったからと酒を飲んでタバコを吸い、女性を買ったらいくらも残らない》
《給料をもらうとき、控除分がいくらと計算して、なるべく少なく天引きされるようにした。給料のかなりの部分を貯金に回してとにかく貯めた》
《終戦後に手元にあった金の半分を両親に送り、残りの半分を元手に世話になった人と一緒に東京へ行き、商売を始めた。あの金がなければ、今も日本でくすぶっていたかもしれない》
当時を振り返る叔父の話は、苦役や不当に受けた扱いによる苦しみよりは、一生懸命働いて稼いだ金で両親を喜ばせ、日本での定着と成功から来るプライドをひしひしと感じさせるものであった。
(続く)
週刊新潮WEB取材班
デイリー新潮 8/9(日) 8:01
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