18/10/17 14:39:54.62 CAP_USER.net
過去に本サイトでも登場した中国・深?のネトゲ廃人村や広州のアフリカ村への取材から、果ては大連のラブドール工場探訪記まで収録された、ルポライターの安田峰俊氏の著書『さいはての中国』が好調だ。
同書の後半部分では、南京やカナダ・トロントの対日歴史問題追及運動の当事者にも切り込み、彼らの実態に迫っている。
今回は同書の第7章に登場する、南京の中国人元慰安婦遺族への取材部分を改稿して寄稿してもらった。
日中両国の政治的意向と様々なプロパガンダの影に隠れた、虚実入り交じる証言の先にあるものとは―?
■養母が“慰安婦”だった
その家は中国江蘇省の農村の奥まった場所にあり、まことにみすぼらしかった。
2015年末の江蘇省は底冷えがする。すでに日は落ちており、あたりはいっそう凄凄(せいせい)とした感じがあった。
やがて、家の奥から黒い帽子にジャンパー姿の歯並びの悪い男性が姿をあらわした。
唐家国、当時58歳。南京市郊外にある、湯山鎮湯家村で暮らす農民だ。
体つきは小柄で痩身だが、健康的な痩せかたではなく実年齢よりもかなり老けて見えた。
私はこのとき、小学館『SAPIO』の取材で南京市内に完成したばかり(当時)の慰安婦陳列館を訪れるため現地に来ており、事情をもっと深く知るために元慰安婦の「当事者」を名乗る人物やその関係者を探していた。
結果、見つかったのが唐である。
彼の養母・雷桂英(2007年4月逝去)は、若いころに日本軍の慰安婦だったとされる人物だ。
当時、中国全土で元慰安婦を名乗る女性は20人足らずしか生存しておらず、南京市付近で会えるのは遺族である唐だけだった。
■共産党員の通訳を介しての取材
「雷桂英さんについて教えてください」
だが、唐に話しかけてすぐ、まともに会話が成り立たないことがわかった。
文化大革命世代の農民である唐は標準中国語をほとんど話せず、現地の方言を喋るばかり。
筆談を試みたが、文字の読み書きが苦手らしく埒が明かない。
やむを得ず、同行していた地元の共産党員に方言から標準語に通訳してもらう。
彼は対日歴史問題の「調査」をおこなっている人物で、はっきり言って非常に政治的なバイアスがかかっているのだが、農村で慰安婦遺族を探すような取材ではこの手の相手に頼らざるを得ない。
話に偏りがあるのは承知の上で、虚のなかに含まれる実を見つけるしかないのである。
■12歳で「慰安所」なる場所を紹介された
唐によると、養母の「元慰安婦」雷桂英は1928年生まれ。
彼女は7歳で父を失い、やがてよその家へ童養?に出された
(※童養?とは、成長後にその家の男性の妻になるのを前提に、女児を他家に売る中国の旧習。貧しい家庭では一種の口減らしとしておこなわれる例が多かった)。
童養?は「嫁ぎ先」で虐待を受ける例も多く、桂英も似た境遇だったのだろう。
彼女は12歳になった1940年に養家を飛び出し、やがて翌年の上半期に50歳くらいの女性から「慰安所」なる場所を紹介されて、「そこでは食っていける」と説明された。
■養母が被った「抗日戦争の被害」とは
ただしこの時点では、まだ幼いため慰安婦としての雇用ではなかったという。
当時、桂英が直接被ったとされる「抗日戦争の被害」は以下のようなものだ。
「ある日本兵が(当時は子守り係だった)桂英に肉体関係を迫り、彼女が断ったところ、怒って太ももを刺した。桂英は助けてほしいと叫び、他の人がやってきたところ、刺した男は逃げた。慰安所の主の山本が(外出先から)戻ったあと、桂英がケガをしているのを見て病院へ連れて行った。ケガは1ヶ月ほどでよくなった」
唐によると、当時の山本の慰安所には十数人の20代前半の女性が慰安婦として働いていた。
1943年、慰安婦の数が足りず、15歳になった桂英もそちらの仕事をさせられた。
「生前、桂英さんは日本人をどう言っていましたか?」とも聞いてみる。
「日本兵が人を殺すところを直接見たと言っていた。ただ、日本兵には民家に押し入った後で、家のなかに仏像や十字架があるのを見て家人を殺さずに引き上げた人もいた、と言っていた」
標準中国語との通訳を介しているうえ、唐の話自体があまり論理的な感じではない。
当方の質問の意図をしっかりくんで答えてくれているのか、ちょっと不安も覚える。
しかも、この話は彼の養母が死の前年に語った内容の伝聞だ。
それでも根気強く聞くよりほかはない。
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