18/02/23 00:05:55.37 CAP_USER.net
東アジア現代史を突き抜けて流れる国家暴力と抵抗の足跡を探して、5年ぶりにベトナムを訪れた。画家、漫画家、写真家、小説家、僧侶などで構成された10人余りの紀行団の目的はベトナム戦争で韓国軍の民間人虐殺現場踏査と少年・少女従軍画家らに会うことだった。
2015年10月、洪城(ホンソン)談画家とともに日本、東京、六本木にあるモリ美術館で「ディン・Q・レ(Dinh Q Le)」展を見て感動した。ディンは1978年、十才の若さで両親と一緒にボートピープルになって米国に渡り美術家になり、今は著名な作家としてベトナムと米国で作品活動をしている。
(中略:ベトナムの監獄など紹介。ディンには会えなかった)
1964年から派兵された韓国軍は上陸とほぼ同時に民間人虐殺を犯した。2015年、ベトナム労働党政治局戦争犯罪調査報告書はベトナム戦争期間中、韓国軍によって虐殺された民間人犠牲者を5000人余りと報告しており、民間人虐殺研究者らは中部地域で作戦を展開した韓国軍による虐殺は約80件、9000人余りに達すると推定している。
私たちはクアンガイ省のミライとビンホア、クアンナム省のフォンニ・フォンニャット、そしてソンミなど四カ所を訪れた。
米軍の小隊がソンミ村住民504人を虐殺したミライ事件の現場は立派な資料館と一緒によく保存されていた。そこで昨年退職したファン・ターン・コン館長の話を聞いた。彼は事件当時、八才、奇跡的に生き残った三人のうちのひとりだ。解放後、孤児院を経て教育を受け館長にまでなったという。
ソンミ虐殺事件は1968年2月22日、韓国海兵部隊がソンミ村を急襲して、生後二カ月の赤ん坊を含む女子供を中心に135人を虐殺した事件だ。韓国軍の手法はほとんど同じだ。
村の人々を集めて、女たちを強姦し無差別射撃と手榴弾で虐殺した後、村を燃やした悪鬼のような蛮行だ。
このような蛮行について韓国ではかつて、カン・ジョング、ハン・ホング教授が「日帝の支配を受けたと自分たちの被害性だけを見るのではなく、加害性も見なければならない」として「ごめんなさいベトナム」運動を起こした。
最近では「韓国・ベトナム平和財団」を中心に国家賠償請求訴訟も提起されており関心が高まっている。
もちろん米国の圧力があったとしても韓国政府の責任は追及されるのが当然で、人道主義や正義の審判などの一般的な接近だけでは不十分だと思う。
韓国軍蛮行の現場を見て証言を聞きながらすぐに済州(チェジュ)4・3事件や居昌(コチャン)虐殺事件、白善燁(ペク・ソンヨプ)軍が智異山(チリサン)一帯で行った残忍非道な「討伐」作戦を思い浮かべた。
そこで作戦を指揮した将軍らは日帝の軍事教育を受け、満州で戦略の村を作って抗日運動を掃討した「間島(カンド)特設隊」や関東軍または満州軍出身者などだ。
ベトナム人民に行った天人共怒する虐殺蛮行は満州で済州で智異山で私たちの民衆がすでにされてきた苦難である。
その上、我が国ではいわゆる「親日派」がまだ生き生きとこの社会の中心部を掌握している。それなら私たちはパク・チョンヒと虐殺軍事指揮官の責任を問わなければならないが、何より私たちの中の日帝残滓清算を成しとげてこそ、ベトナムの虐殺事件に対する真の過去清算ができるだろう。
日本で過去清算に最も否定的な右翼らは韓国軍のベトナム人民虐殺事件に非常に高い関心を持っている。日帝の蛮行を糾弾する韓国人に「君たちがやったことはどうなんだ?」と言いたいのだ。
しかし、その蛮行はかつてアジアで日本軍が犯したことで、日本軍の伝統を受け継いだ韓国軍の暴力的な軍事訓練によって鍛練された日本軍の分身たちが犯した悪行ということを忘れてはならないだろう。
徐勝(ソ・スン)立命館大学コリア研究センター研究顧問
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ソース:京郷新聞(韓国語) [東西南北人の平和検索]ベトナム民間人虐殺と日帝の影
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