17/12/19 20:04:14.11 CAP_USER.net
【著者に訊け】星野智幸氏/『のこった もう、相撲ファンを引退しない』/ころから/1600円+税
目の前の事象に目を凝らすことで、世の中の構造や行く末さえ看破してしまう能力者がごく稀に存在する。例えば作家・星野智幸氏だ。〈スポーツとは、社会の深層で起こっていることを、社会よりも少し早く先取りする場〉と書く彼にとって、大相撲もその一つ。中でも観客らが必要以上に日本人力士に肩入れする、〈日本人ファースト〉を問題視する。
確かにヘイトスピーチやネトウヨの存在も問題だが、〈問題は、そのような人たちの暴力的な言葉に対して、一般社会が多少眉をひそめつつも無関心な態度を取り続け〉〈差別が大手を振ってまかり通るようになってしまったこと〉。
特にスポーツなどの非日常的局面では〈不作為的差別から積極的差別への転換〉が起きやすく、日本人が日本人を応援しても誰も疑問を抱かない。表題はその名も、『のこった』─。土俵際寸前まで追いつめられているのは、果たして力士か私たちか?
子供の頃から力士に憧れ、初めて投稿した作品も相撲小説だった(!)という純文学作家に会おうとした矢先、とんでもない事件が起きた。当時の現役横綱・日馬富士による貴ノ岩暴行事件とその後の引退劇である。
「まだ全容が解明されていませんが、僕は両力士のファンなので、寝込みそうなぐらいショックです。横綱時代に僕の人生まで託した貴乃花親方には今は不信感が募るばかりだし、相撲協会は、ちゃんとファンや力士のことを考えた明快な対応ができていないし、苦しくて仕方ないです」
本書では19年ぶりの日本人横綱誕生に沸いた2016~2017年のブログやエッセイの他、著書『スー女のみかた』もある和田靜香氏との対談や、相撲小説「智の国」を収め、自身愛してやまない相撲の魅力やファンの変化についても、その筆は冴える。
例えば「豪・栄・道!」などと、力士を集団で応援する〈コール〉の是非だ。これに〈日本、チャチャチャ〉にも似た違和感を抱く氏は、〈個人対個人で勝負する相撲は、応援するほうも個人であるべきだ〉と書く。
「僕は輪湖(りんこ)時代の初代貴ノ花とか、あの千代の富士も手を焼いた花乃湖など前捌きの巧い力士が昔から好き。そうした好みを満たすのが、僕が社会に出た1988年に初土俵を踏んだ貴乃花でした。
新聞社を辞めたのも彼の相撲に対する一途な姿の影響ですし、2001年5月場所の優勝決定戦で貴乃花が武蔵丸を破り、小泉首相の〈感動した!〉に日本中が沸いた時は、貴乃花同様に僕も孤独を感じた。結局、彼は2003年に引退し、僕は白鵬の優勝記録更新が話題になった2014年9月まで、相撲を見なくなるんです」
そして2015年1月。久々の観戦に訪れた氏は、大鵬の大記録に挑む白鵬をよそに、〈日本人力士がんばれ〉と声援が飛ぶ光景に目を疑う。
「あの時は思わず〈白鵬! 白鵬!〉と叫んだくらいです。その空気は翌2016年の琴奨菊の優勝を経て、稀勢の里の横綱待望論に繋がっていく。僕には〈日本出身力士〉の優勝と日本国籍を持つ旭天鵬の優勝を区別する理由がわからないし、稀勢の里の早すぎる横綱昇進には当人が最も苦しんでいると思う。ところがファンやメディアにも差別の自覚は一切なく、無意識だから、怖いんです」
◆国技という概念もフィクション
その点、スー女は違った。一般には美形力士・遠藤や2012年創刊のフリーペーパー『TSUNA』が火付け役とされるが、鶴竜や千代丸をアイコン化し、稀勢の里を〈魔性の男〉と呼ぶ独創性には、なるほど舌を巻く。
「あの朝青龍が〈朝さま〉として尊敬されていたり、意外と顔じゃないんですよね(笑い)。国籍も単にキャラの一つで、高安や御嶽海のフィリピン人のお母さんは『若くてカワイ~』で、それ以上でも以下でもない。かくいう僕も理屈を語りたがる分析オヤジの一人で、そうか、好きに理屈は要らないんだと気づかされたし、純粋に好きなものを守ろうとするスー女の存在は相撲界の希望だと思います」
彼はそこに韓流ファンにも通じる〈フィクションをさらにフィクション化して、自分の物語に変える〉ミーハー力を見、全てのスポーツは〈フィクションであることを意識に留めながらのめり込むべき〉だと書く。
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