17/10/21 08:42:45.65 CAP_USER.net
沖縄県には大陸からの帰化人の末裔がたくさん住んでいる。一説には約2万人いるとされている。「久米三十六姓」である。
久米三十六姓のことを知らない人のために説明をすると、明の時代、支那大陸南部の福州(現在の中国福建省)から琉球王国へ洪武帝の命により下賜されたとされる閔人の末裔のことである。彼らは那覇市の久米村周辺に居住地を構えたので久米三十六姓とか久米村人(クニンダチュ)と呼ばれている。
彼らは学者や航海技術などを持った職能集団として、琉球王国の外交や貿易に従事し、政治、教育、文化面でも非常に大きな役割を果たしてきた。琉球人にとってクニンダチュは知識人であり、とても優秀な人たちというイメージだったようだ。だから、その末裔だからと批判するつもりはない。
多くのクニンダチュが沖縄に同化しており、僕の近くにもうちなーんちゅ以上にうちなーんちゅらしい人が多く住んでいるし、そちらの方が多数派であることには言及しておこう。
しかし、自分の父祖の地への郷愁は人間なら間違いなく持っていることだろう。一部のクニンダチュが大陸にアイデンティティを持ち続けていることは何ら不思議ではない。クニンダチュの一部に沖縄独立による琉球王国復活をたくらむ勢力が存在していてもおかしくはない。
なぜなら、クニンダチュは従来、琉球王国のヒエラルキー組織の頂点の支配層に位置し、甘い汁を吸って来たからだ。
琉球王国は仲介貿易で豊かだったと言われているが、実際には原始共産社会で一部の王族、士族が支配層として君臨し、貿易の利益を独占していた。被支配層のほとんどが農奴であり、重税に苦しんでいたようだ。王国が一部の支配層によって私物化されていたのだ。
琉球王国は久米士族として支配層にいた彼らクニンダチュにとって美味しい果実だったのだろう。だから、廃藩置県は被支配層にとっては奴隷解放、彼らクニンダチュにとっては屈辱の琉球処分であるのだ。彼らの利権が奪われた日なのだ。
沖縄独立運動の影 琉球王国のキングメーカーであったクニンダチュ
ところで、僕自身はこのクニンダチュが王国の政権そのものを握っていたとは考えていなかった。しかし、ちょうど沖縄学の権威である外間守善氏の著書に、クニンダチュが政権を握っていたと思われる記述が見つかった。時は第一尚氏末期。
琉球王国は尚巴志が統一国家を築き、父を初代国王に据えたのがその始まりである。その後、尚巴志は2代目国王となり、以後7代続いた。
しかし、7代目尚徳王の死亡時に内間金丸という家臣が周囲に押されて王の座に就き、尚円と名乗ったとされている。第二尚氏の始まりである。しかし、本当は禅譲などではなく、金丸派の武力によるクーデターであったとの説が有力になってきている。外間守善氏の著書から引用しよう。
金丸は尚泰久王の信頼が厚く、海外貿易品を補完する御物城(おものぐすく)の長官で、財政並びに外交問題をあずかる重職にあったし、また、そのために唐栄(帰化人の住む久米村)の人たちの信望も厚いわけで、彼らの信頼と支持が、彼を政権の座に送り込んだのではないだろか。
この唐栄、および御物城を中心にして貿易の利による沖縄経済の中心をなしつつあった那覇勢力が、金丸を支持して、遂に首里勢力である尚巴志王統を倒すことになったと考えることができる。
(中略)
ともかくも、尚円から尚真にいたる第二尚氏王朝草創期の歴史的な動きに注目するとき、政治、経済、文化に通暁し、明国を中心にしたアジア世界に眼の開かれている唐栄の人たちの影響力を、その背後に感じざるを得ない。(中公新書・沖縄の歴史と文化・外間守善)
この記述はつまり、第二尚氏成立のクーデターの際にクニンダチュがキングメーカーとして尚円王の実現に暗躍したということだ。その後、410年にわたり、クニンダチュは政権の座には就かなくても、政権の中枢にてキングメーカーの役割を果たしたことは想像に難くないであろう。
王家にとっても王国経済の要である航海技術と貿易の実務に長けたクニンダチュは手放すことができなかったであろう。
URLリンク(vpoint.jp)
(>>2以降に続く)