17/10/18 03:01:12.65 CAP_USER.net
キム・ヒョンソク監督の映画『アイ・キャン・スピーク』が話題だ。観客300万人を超えた。英語を習いたいオクブン(ナ・ムニ扮)の隠された理由に関する話だ。
「慰安婦」を題材にしたが、かつて重く扱われた映画とは異なり、女優ナ・ムニの卓越した自然なコメディ演技、人間味あふれる共同体の価値、連帯と勝利の記憶を抱くヒューマンドラマが重ねられて「慰安婦」を題材にした新しい方式の韓国映画として完成された。
実際、「慰安婦」問題を映画で再現するのは容易なことではない。そこには帝国主義、植民主義、戦争犯罪という世界史的外縁とその反対給付として被植民民族共同体の傷痕が前提になる。被植民の中でも社会的弱者である女性に振舞われた暴力ということから状況はさらに複雑だ。
これに謝罪どころか、加害の痕跡を消すことに汲々としている日本政府の2次加害とこれにまともに対応できていない韓国政府の無能さが付け加える。
世界史的問題であり、過去、現在、未来が重なった民族的課題であり、何より女性人権の問題でもあるこの複雑な絡み合いを韓国映画はどのように解きほぐすべきか。この質問に答えるためにも『アイ・キャン・スピーク』はもう少し吟味される必要がある。
「慰安婦」問題を扱った映画が本格的に登場し始めたきっかけに映画『鬼郷』がある。興行の面で大きく成功したが、この映画には多少問題がある。映画を支えるのは被害者女性を守ることができなかった男性の償いの意識だ。このため、映画はあまりにも多くのことを逃し、増してや危険に陥った。
『鬼郷』はそもそも女性の傷に関心がない。彼女たちの話は映画の中に繊細に積み重なるのではなく、姉妹愛、故郷に対する懐かしさ、「アリラン」のような映画外側の抽象的な観念にとらわれている。より一層深刻なのは被害者に加えられた暴力を単にイメージのレベルで誇示することに汲々としているということだ。
スクリーンは性的暴力のイメージ、脱がれて殴られる体、すさまじい表情で満たされる。「慰安婦」という複雑な問題を男性の償いの意識に頼って慰めるなら、むしろ男性化したのぞき見の視線に被害者の苦痛を露出させることだ。
一方、『アイ・キャン・スピーク』は全く違う道を歩む。これには女性の苦痛を展示するかのようなただ一つの苛虐的なイメージもない。代わりに「慰安婦」被害者の人生を自生的に立体化することに力を注ぐ。いや、オクブンは「慰安婦」である前に一人の成熟した女性であり市民だ。
このような観点から「慰安婦」被害者としての過去が映画の中盤をはるかに過ぎて一つの反転のように与えられるという事実に注目する必要がある。
観客にとってオクブンは区役所の職員が恐れる「苦情王」として、再開発建設業者と対抗して隣の人々の権利を守ろうとする闘士として、英語の勉強に熱心な晩学のおばあさんとして近付いてくる。この効果は意味深長だ。
彼女は帝国主義の暴力や民族共同体の傷痕を象徴する前に、私たちと同じように日常を生きていく生活人であり、私たちより熱心に毎日を送る成熟した市民だ。もしかしたら、私たちはその間、慰安婦被害者を犠牲者として慰めると言いながらも、むしろそれを例外的なものとして排除してきたかもしれないと気付かせる。
不幸な過去が明らかになった後にも映画はオクブンが同情と憐憫の対象になることに抵抗する。日本の蛮行を告発する米国法廷でも同じだ。この場面が圧倒的であるのは単に日本のごり押し主張を世界に告発した勝利の記憶のためではないだろう。
病気にかかった友人が英語で書いた演説文を晩学生の情熱で熟知した発音で読み上げた時、会議場にきちんと鳴り響く英単語一つひとつの活力は告発のレベルを超えてある能動的な連帯の場を生き生きと構築する。
この映画の感動は過去の不幸に陥没されず、現在の生活感覚で自身の意見を述べていくある女性主体のダイナミックな人生への意志、成熟した市民意識、積極的な働きかけから出てくる。
個人的に「1000万映画」になるように願ったが、400万人を超えるとは期待できない。『アイ・キャン・スピーク』が完ぺきだと言っているわけではない。
URLリンク(japanese.joins.com)
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