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「代理公使朝鮮日記/2 明治10年9月9日から明治10年11月30日」p34)
11月26日、月曜日 晴、9時に伴接官 礼曹参判洪祐昌が来る。公使及び属員が迎えて茶菓をもって接待する。話が昨年の飢饉のことに及ぶ。
洪「昨年来、国民が餓死すること殆ど半分に及び、わずかが麦の熟するのにありつけた。
今年は幸いに大いに実りやや肩を緩めるを得る。」
花房「自分が経過する郡村に累々たる餓死の惨状を聞き、深くこれを痛む。
しかしなお信じられなかったが、貴殿の言葉を聞いて確と信じられた。
去る冬に自分は貴殿と面会し(花房は外務大丞として9年11月にも朝鮮に行っている。)、
幸いに本年は我が国に於いては国内諸穀物豊穣なので余米も少なからず、
もし貴国に於いて救援を要するならば、自分は我が政府に言って周旋尽力すべきにより、
貴殿には貴政府へ具申し人民の活路を開かんことを勧め、その後近藤管理官もまたその事を再三貴殿に切言す。
しかるに数百万の人民飢え且つ死するを座視し、貴政府は一言もその件に触れなかったのは、
貴殿から政府に言わなかったのか。また具申しても政府はこれを用いなかったのか。
ああ、なんと数百万の民餓死し政府はそれを座視してこれを救う道を求めずとは。
もしこの時に隣国は米穀を出して救援する国であると知るなら国民はどちらに服しようか。
朝鮮に来てから貴政府が各地で自分を接待するに毎食数十品を下らず。
その厚遇感謝に堪えずといえども、食膳に向かうごとに飢餓民の事を思い味もなく喉も下らず、
これによって毎回接待を辞退せり。
しかるに地方官は上の命令であるからとこれを強いて、撤しなかった。
以後は改めて固くこれを辞退する。願わくは接待されるな。」