07/01/25 22:49:00 7IMLJd2k
>>185
ソース無しの聞いた話の羅列でよければ・・
その昔、富士川舟運盛んな時代、鰍沢は静岡から運ばれてくる塩の集積地となっていた。
生活必需品の塩を商っていたため大層賑わい、地域住民の懐も潤っていた。
当時の町長は金に物を言わせ、国や県の出張所を町内に誘致し更なる町の発展を計っていった。
周囲の町村は自分の所に誘致したかった国県の出先機関をことごとく鰍沢にもっていかれてしまい、日増しに鰍沢に対して嫌悪感を持つようになっていった。
(なので現在も古くからある国県の出先機関が鰍沢に集中している)
増穂は当時は人も住まない湿地帯だったが鰍沢の繁栄によって集まってきた新参者が開拓してできた町なので、鰍沢の長老連からすれば新参者という蔑みがまだ残っている。
しかも、舟運が途絶え道路交通が発達した現在、経済的には増穂に逆転されてしまったという事実を受け入れられず、過去の栄光をいまだに引きずっている。
川下の町村に対しては当時から経済的にも相手にならなかったし、塩取引についても船が川を上ってくる途中で小売されてしまっていたので取引相手としても付き合いがなかった
(なので鰍沢は南側の人たちは相手にしない風潮が残っている)
ちなみに富士川沿い各地に残っている塩沢、塩ノ沢という地名はその地域の塩取引が行われていた場所の名残
説明にもならん説明だが察してくだされw